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 ついに会社のパソコンのエンターキーを壊した。ストレスの全てを右手の中指に一点集中させた結果だった。

終電まであと5分ほど。
今日は泊まり込みを確定させてヤケクソで仕事をしていた1つ上の先輩を横目に「お疲れ様でした」と言えば、「じゃあなゴリラ女、明日パソコン修理だしとけよ」とパワハラよろしくな言葉が返ってくる。無視した。
 駅まで走って5分。ギリギリ間に合うと思われたが改札までの階段を降りる際パンプスのヒールが折れて脱げたため時間によって駆り立てられていた焦燥は一瞬で諦めに変わる。
階段に置いてけぼりにされている少し傷の入ったアイボリー色のパンプスを振り返って見つめた。

「シンデレラか」

 疲れによって出たセンスのないツッコミ。階段を登って靴を拾う。その瞬間、電車が去っていく音がした。社会人になって5年、残業をしても絶対に終電までには帰るという確固たる決意のもと仕事をしてきた。自分のプライドを保つためでもあったそれは、ここにきて終わった。

 自身で決めた約束が自身によって破られた今、もうすべてがどうでもよくなって職場に戻ろうかと思ったけれど、戻れば私を「ゴリラ女」呼ばわりした社畜先輩と、壊れたエンターキーに出迎えられるのかと思うと自然と職場からは足が遠のいた。

 壊れたパンプスを再び履いて階段を登る。諦めというものはすごいもので、駅から逆方向に歩いていく足は軽快ささえ覚えていた。初めて終電を逃し、さあこれからどうしようという謎のハイテンションになる。

コンビニに寄り、缶ビール2本とポテトチップスと柿ピーを買った。
そして今まで通ったことのない道へと繰り出していく。深夜の大冒険でもしているみたいだ。壊れたパンプスの踵が歩くたびにパコンパコンとリズムを刻む。

ビルの灯りや、居酒屋の灯りが目立っていた道を抜けて、しばらく歩くとあたりは少し暗くなっていき、行き着いたのは小さな公園だった。

街灯が2本ほど立っており、滑り台とブランコを薄く照らしている。砂場の前には木のベンチがぽつんと1つあり、秘密基地を見つけたような高揚感をそのままに近づけばベンチの端には運悪く誰かが座っていた。
スーツ姿の男だが、その背中は項垂れるように丸く、怖ささえ感じる。
 あたりを見渡すがここら付近でゆっくり缶ビールでも飲んで夜風にあたれる場所はなさそうである。

 偶然公園で出会った人にどう思われようがどうでもいいという投げやりな感情。私が隣に座ったことでいたたまれなくなってどっか行かないかなという願望も込めて咳払いを一つしながら、私は男の隣に少し距離を空けて座った。

視界の端で男が顔をあげた。
「え、なに、なんで隣座ってきたのこの女」というような声が聞こえてきそうだが知ったことかとコンビニで買った缶ビールを開けた。ぷしゅっという音がなんとも心地がいい。

 アルコールというのは、こういう日のためにあるのだと思う。仕事に追われ、残業して、パソコンのエンターキー壊して、先輩から嫌味言われ、終電を逃したそんな1日。

もう日付が変わってしまっているものの、そういう日の最後にのむアルコールはなんとも言えず美味しくて、罪悪感ごとアルコールに混ざって胃の中におさまっていく感覚がたまらない。「ぷはあ」などとCMさながらの爽快さを口からもらして、私はポテトチップスの袋をあけた。
人差し指と親指でつまんだ1枚を口の中に放り込もうとしたところで、

「あの」

隣の男から声をかけられた。声をかけられたことで私の欲望を止めることはなんだか癪にさわるので、一度止めかけた手を動かし、私はポテトチップスを口の中に放り込んで咀嚼した。

「はい」

 口に広がる塩味とその後に摂取するビールの美味しさを噛み締めて飲み込んだ後に、やっとそう返事をする。
やっと隣の男を視界に入れた。おっさんかと思ったら意外と若いではないか。しかもイケメン。

男は、少し怪訝な顔をしている。

「無用心ではないでしょうか」

「はい?」

「こんな時間に女性が1人でこんなところで」

 挑発や揶揄ではなく、真剣に真っ直ぐとした声色だったため純粋な心配なのだろうと思う。大きなお世話だ。

「大きなお世話です」

うっかり心の声もれてしまった。酒のせい酒のせい。

「…すみません」

 謝られるとは思っておらず、私は男の顔を見つめた。男は顔を俯かせている。大きなお世話をはたらいたことを恥じているのか、はたまたこんな時間に1人で公園にいるということはそれ相応のことがあったのか。あからさまに負のオーラが漂っている。私はコンビニの袋から缶ビールを一本取り出して男に差し出した。

「…飲みます?」

 男が顔をあげた。戸惑ったような顔をしている。
私が急かすように男の肩に缶を軽くぶつければ、男はおずおずとそれを受け取った。

「すみません、お金、払います」

「結構です」

男は再度「すみません」と軽く頭をさげて「いただきます」と、缶ビールのプルトップを簡単に片手で開けてみせた。ほう、慣れているな。暗いせいもあって内気に見えていた男が、片手でビールを飲む姿は少しギャップをおぼえた。

「お兄さんはなんでここに?」

私がそう問えば、男は流し込んだ炭酸が喉にしみたのか少し苦しそうな顔をした後口を開く。

「終電、逃しまして」

 ここに行き着いた経緯は分からないものの、終電を逃したという事実がお揃いである。ということは男から滲み出る負のオーラは終電を逃したことが原因だろうか。

「一緒ですね、私もです」

「ああ、そうなんですね」

 眉をあげてそう言った男。自分の仲間を見つけたような少しだけ弾んだ声だった。少し安堵したのだろう、緊張していた肩の力が抜けているのが分かった。

「正直、目の前で電車が行ってしまった時、絶望を感じてて
今日1日頑張ったのに、ここでも報われないのか俺はって」

 ここでも報われない、か。気になる言葉ではあったけれど見ず知らずの女に事細かく吐き捨てた言葉の端を切り取られてつっこまれるのもめんどくさいだろうなと思った。

「お兄さんも残業ですか?」

「はい…もしかして」

「私もです。はい、終電逃し記念に乾杯」

「か、乾杯」

 ぶつけられた缶ビール同士。どうしたって私の方の威力が強くて男が持っている缶ビールの中身をこぼれないように両手で支えていた。私よりガタイのいい男が少し緊張したようにおどおどしているのがなんだか面白くてケラケラ笑った。

「終電逃したのに、楽しそうですね」

「そりゃあここまできたら開き直りも大事ですよ 私なんて今日パソコンのエンターキーこの指先で壊しましたからね」

 手のひらを広げて指先をぴらぴらと揺らすと、男が緩やかに笑った。お、笑った、と純粋に嬉しくなる。目元は切れ長で、眼光が鋭く感じてしまうせいでとっつきにくそう、そして、何より暗そうというのが正直な印象だったのだが、そんな男の表情が崩れたのだ。
見ず知らずの男を笑わせたところで何にもならないが、感情が動くことがここのところ皆無だったため、こんなことでも嬉しいと感じてしまう。

「どんな威力で叩いたんですか」

「個人的にはそんな強く叩いたつもりはないんですよ、ただ、もう帰ろうかなって時に新しい仕事を頼んできた部長に腹を立てながら仕事してたのでそのストレスが最後のエンターキーで爆発したというか」

「修理代、お姉さん持ちですかね」

「どうでしょう、私を『ゴリラ女』って言った先輩をまずパワハラで訴えて、その慰謝料で修理代払おうかな」

「ゴリラ女なんて、ひどいこといいますね。ゴリラが可哀想だ、あ、違う、お姉さんが可哀想だ。

ポテトチップス1枚もらっていいですか」

「あの、すみません聞き捨てならない言葉が聞こえたんですけど」

ポテトチップスを袋ごとひょいっと上にあげて男から取られない距離にもっていく。男はきょとんと首を傾げた。

「ポテトチップス1枚もらっていいですか」

「ううん、そこじゃない」

「お姉さんが可哀想だ?」

「その前」

「ゴリラが可哀想だ」

「それだあ!どういうことよ、失敬ね」

男の胸ぐらを軽く掴んで下から睨みつける。男は戸惑ったように両手を上にあげて、まるで警察から追い込まれた犯人のような顔をした。

「ただの言い間違いです、お酒入ってるし」

「ほお、苦し紛れの言い訳ね」

「…では、言わせてもらいますけど、こんな時間に1人でここにいること自体お姉さんは危機管理能力がないってことです。ゴリラより危機管理能力が下ということを伝えるつもりはなかったですけど、言い間違いとして口から出たということにしてください」

「長い」

「すみません…」

「けっ」と顔を顰めて男から手を離した。そしてビールをぐびりと一口。この男、おもしろ。と内心笑い転げそうになっているが、ゴリラより下と大変失敬な言葉が男から放たれているため女としてのプライドが幾分か優った。
ふと自分の足元を見つめる。右足を少し持ち上げて、踵からかろうじてくっついているヒールの部分を軽く揺らした。
よく考えてみれば私は今日色々と壊してばかりだ。

「みてください、これ」

「あ、靴、壊れてますね」

「そう、駅の階段で壊れちゃってこれがなければ終電乗れてた」

「シンデレラみたいですね」

「センスのないツッコミですね」

「すみません」

 男はバツの悪い顔をして下を向いた。「すみません」って口癖だろうか。男のことを私は全くもって知らないが、逆らえない労働下で働いていると反射的に謝ってしまうようになるのは理解できる。労働に給料という対価をもらっている以上、安全牌をとることが否応なしに正解だと知っているからだ。この男の少しくたびれたシャツの襟を見てそう思った。
男は、しばらくちびちびとビールをのんで、「あ」と何かを思い出したかのように自らの黒い鞄から何かを取り出す。

「センスのないツッコミをしてしまったお詫びにこれ」

 差し出されたそれを視界に入れる。缶の飲み物であった。アルコールではなく、りんご味の炭酸ジュースなようであるが、見たことの無いデザインだった。
大きめなりんごが書かれており、顔が描かれているものの顔のパーツが中央に寄りすぎてなんとも言えない気持ちの悪いキャラクター。
 極め付けは缶いっぱいに小さな赤い丸がたくさん描かれている。さらによく見るとその赤い丸はヘタの付いているリンゴのようである。しかし、どの形も手描きのような歪さだった。

「何このキモいデザイン」

受け取りながらそう言うと、男は「ですよね」と弾むように息を吸った。

「そう、キモいんですよ、これ、まだ試作品なので見たことも飲んだことは誰にも言わないでください」

「試作品ってことは、お兄さんが作ったんですかこれ」

「いえ。俺はそんなクソダサいセンスしてないです、それ以上は聞かないでください」

「分かりました」

私は頷いてリンゴジュースのプルトップを開けようとすると男の手によって制止される。

「飲む前に」

「なんですか」

「この歪な形のりんごの中にハートが1つあるんです」

「はあ?」

「クソダサいセンスのうえに、クソダサい仕掛けもあるのでどうせなら探してください、ハート型のりんご」

そう言われ、私はおずおずと缶に顔を近づける。街灯の薄暗さでは見つけにくく、私は目を凝らしながら缶をゆっくりとまわしていく。私、何させられてんのまじで。

「あ、これ?」

 そう言って私は男に見せると男が私の方に顔を寄せて「ああ」とクイズ番組で不正解だった時のMCのような声を出した。うわ、なんかイラっ。

「それは違います。ちょっと下手くそなりんごってだけです」

「めんどくさ」

 だいたい手描きのりんごを印字させてるのどうなの。これが売り物になるとしたら恐怖なんだけど。まあ、私からしたらどうでもいいことなのだけれど、ここまできたら絶対に見つけたい気もしてきた、ハート型。今日は悪いこと続きだし、最後にミジンコくらいの幸福をくれたっていいではないか、神様。
そんなことを思いながら私は缶の隅々まで目を凝らす。そして、見つけた。

「あった!」

 綺麗なハート型である。男に見せると男がまた顔を寄せた。
私が示した指の先をじっと見つめて、「本当だ」と嬉しそうに私の方を見る。
目が合って、その近さに気づいた私たち。なぜかすぐには離れなかった。男の揺れた瞳をじっと見つめる。

 お酒が入った深夜。私たちだけしかいない公園は非現実的な雰囲気を帯びてなんだかふわふわとした気分になってしまう。少しずつ、お互いがお互いを試すように近づいた。

「酔ってますか」

「そっちこそ」

 挑発のような男の言葉に私も買い言葉でそう返した。
 普通はこんなのダメだ、だって私はこの男のことを何も知らない。
缶ビール1缶で酔いがまわって、名前も知らない男とキスをする。
…何が悪いのよ、ミジンコくらいの幸せパート2だ。この男とのキスがミジンコくらいの幸せにしかならないなんて、口に出せばきっと男は怪訝な顔をして離れるだろう。
 しかししようがない、私にはこの男の情報量がミジンコくらいしかないのだから。
少し臆病で、見つめる目にギャップがあって、普通に見た目がタイプ。それだけ。

「っ」

ゆっくりと唇が触れた。