草木が生い茂る獣道を、息を切らせて走り抜ける。苦しさの余り道に転がり落ちるが、追い込まれるため、また立ち上がり走り出す。旭(あさひ)の繋ぐ手に力が入るものの白藍(しらあい)の姫は、もう力尽きている。されるがままに引っ張られる手に、着いていくのが精一杯だった。
道が開けたと思ったが、そこには険しい崖があり下に広い川が流れている。もう追い詰められて行く当てもない。思い切って旭は白藍の姫を抱き、崖から飛び遥か下の川に墜落した。落下途中に矢が雨の如く降り注ぐ。白藍の姫を体で包み込むように抱いていたため旭だけが背中に矢をうける。痛さの余りうめき声があがる。
「うわあー」
寝汗をかき、うなされて目が覚める。これは旭の前世で最終の記憶であり最愛の人と別離した瞬間であった。
幼い頃から同じ夢を見ては悲しみが蘇る。旭は前世を忘れられない特殊な体質で、愛する白藍の姫を今生で探し出したかった。
旭は現在22才で高校生のときから売れっ子の小説家だ。デビューしたばかりのときは、小さな賞から大きな賞まで総なめで話題の作家だった。今でも新刊が出ると飛ぶように売れていて、ベストセラーは当たり前でドラマ化や映画化になるほどだ。
簡単に書いているように見えるが小説を書くには取材や資料集めをして、それを読み解き、そしてアイデアを駆使しなければいけない。旭は努力をおしまず全力で作品に向かっていた。何故なら有名になりたかったからだ。
それは藍姫が逆にみつけてくれるかもしれないという、ささやかな希望を持っていた。だが藍姫が前世を覚えている訳でもない。それはあり得ないことだった。
旭の始まりは乱世の時代。坂原家の正門に、赤子が捨てられていた。
薄汚れ擦り切れた生地にくるまれ、泣きもせずスヤスヤと眠っていた。それは春も過ぎ初夏の訪れがきていたせいか、暖かい陽だまりの中に気持ちよさそうにみえた。
そこへ当主の忠直(ただなお)が馬に乗り出かけるため正門をでた。すると馬の足どりがおかしかった。忠直は馬から降りて足元を見た。正門の中央に赤子が寝かされていたのに気付き、思わず抱きかかえたのだ。
「何と凛々しく美しい赤子だ。こんな所に捨てられ可哀そうに」
従者の風次が後を追ってくると忠直が赤子を抱いているのを見て馬を降りた。
「親方様、捨て子ですか」
「そのようだ」
「この時代珍しくないもの。貧しくてここに捨て置いたのでしょう。放って置いてはどうですか」
「だが、不憫でしかたない。そうじゃ藍姫の遊び相手として育てよう」
赤子に朝日が眩しく差し込むと、目をさまして瞼を一度開けたが、また強くつぶり手足をバタバタと動かした。その愛らしい子に忠直は笑いかける。
「おうおう、眩しいのう。そうだ。お前を旭と名付けよう」
忠直は藍姫が産まれたばかりで赤子を見ると、姫と重なり放ておけなかったのだ。
そこで旭が幼いときは姫の遊び相手として、そして大人になれば当主の従者として育てることにした。それは旭だけが知っている。遠い遠い昔の出来事だった。
現在において旭という名を現世で取り戻したときから、この時代こそが白藍の姫と再び出会えると確信している。小説家の旭は必ず会えると強く思っていた。
旭の担当の永田は今日で定年退職のため角栄社(かくえいしゃ)を辞める。人柄の良い永田は誰からも愛されている存在だ。だから今日の送別会の出席者は結構な人数だ。大御所の作家たちまでいるのが、永田の編集者としての長さや実力も分かる。
永田にとって旭は最後の担当だった。現場に携わりたいと出世は副編集長まで、作家第一と考え熱意を持って仕事に打ち込んでいた。そんな永田を旭は尊敬していた。まだ担当でいて欲しいと懇願したいと思っているくらいだ。
旭は永田に最後の挨拶にいった。
「おう、来てくれましたか、ありがとうございます。孤高の天才、佐藤旭先生」
「やめてよ。永田さん。あなたがいたから僕は作家になれた。感謝しています」
「何を言うんだ。それは先生の実力だ。惜しいな。まだまだ担当でいたかったな」
「マジで、まだ個人的に担当でいてくれませんか?」
「名残惜しいが、これからは若い担当に譲って、私は先生のファンとして本を愛読させてもらいます」
「じゃ、気がむいたら遊びに来て下さい」
「それは嬉しい。本気にしますよ」
「いつでも、どうぞ」
旭は近くにあったビールのピッチャーを持ち永田のグラスについだ。
そこへ大御所の時代小説作家の遠西寺秀子(とうざいじ ひでこ)が現れた。秀子は64才で38年の作家歴、それに芥川賞作家だ。
「永ちゃんお疲れ様。とうとう定年か」
「遠西寺先生、来てくれましたか、ありがとうございます」
旭に気付き秀子は嬉しそうに近づいてきた。
「あれ、彼は超売れっ子の佐藤旭先生?」
「はい、初めまして、佐藤です」
「あの私、遠西寺です」
「ええ、知っています。遠西寺先生、いつも小説読ませてもらっています」
「こちらちこそ佐藤先生の本、愛読しているわよ。幅広い分野の物が書けて素晴らしいわ。どう時代小説も書いてみない?」
「ありがとうございます。興味があるので書いてみたいですね」
秀子は喜んで右手を出し握手を求めた。旭はそれに答え軽く手を握ると秀子は強く握りかえした。
「いつでも言ってね。なんでも協力するわ。それにしても男前ね」
「さすが時代小説作家。イケメンとはいわないか」
「永ちゃん、からかわないでよ」
「いやいや、佐藤先生は評判だから、顔までいいのは非の打ち所がないね」
「旭って名前もいいわ」
「ありがとうございます。僕もこの名前は気にいっています」
「光差し輝くような広大な名前ね」
「遠西寺先生にそう言ってもらえると嬉しいです。それにこの名前があると待ち望んでいた者が現れるような気がして、ただ夢見ています」
「まあ、それは誰かしら?興味深いわね」
「今の聞き流して下さい」
「若いから夢が膨らむね」
「永ちゃんがいうと何か、いやらしい」
「何だよ。それ」
永田と秀子は顔を見合わせて笑った。その拍子に永田のビールのグラスに手が当たりこぼれてしまった。旭が横にいたのでビールがシャツの脇腹あたりにかかた。それを見ていた秀子がおしぼりを集め旭のシャツを拭いた。
「まあ、大丈夫?」
「佐藤先生すいません。酔ったみたいです」
「もう永ちゃんたら」
「大丈夫です。ちょっとトイレへ」
「そうね。すぐに洗った方がいいわ」
旭はトイレにいって手を洗いシャツの裾をだしてハンカチを濡らし拭いた。するとノックする音がした。
「先生、大丈夫ですか?タオル借りてきました」
聞き憶えのある声がする。旭は思わず扉を開けた。そこには白藍の姫が立っていた。聡明で気高く、それでいて人懐っこい笑顔がそこにあった。
旭は手を伸ばし白藍の姫の頬を触った。
「これは夢なのか?」
こんな近くに白藍の姫がいる。旭は幻かと疑った。
それと同時に過去の記憶が頭の中に流れだした。幼子だったときの白藍の姫とその祖母との会話が蘇ったのだった。
旭は赤子のころ白藍の姫と同じ乳母に育てられていた。まるで兄弟のようでもあったが、幼いながらも身の程をわきまえていた。
旭と白藍の姫は庭を駆け回り、落ちている枝を振り回して遊んでいた。白藍の姫は祖母をみつけると走り寄り膝に抱きついた。
「藍と旭は、ほんにやんちゃだこと。赤子のときは二人ともおとなしゅうて良い子だったのに」
白藍の姫は興味津々に祖母に旭の赤子のときのことを聞いた。
「おばあ様、旭はどんな赤子だったの。今みたいに可愛いい?」
「ほんに可愛い赤子で、乳母のいうには発育も早く泣きもせず手がかからなかったそうだ」
「大方様、旭は可愛いは嫌でございます。男として藍姫様を守るのに可愛いでは守れないのです」
「まあまあ、男らしいのう」
「藍は旭が可愛いし美しいと思う。旭は藍の者じゃ。ずっと一緒にいてくれるか?」
「はい、藍姫様。旭は藍姫様とずっと一緒です」
藍姫は旭に抱きついた。二人を見て祖母は目を細めて微笑んだ。
思い出の中にいた旭は虚ろな瞳が、いま目覚めたように、しっかりと瞼を開き藍をみつめた。頬にあてられた手を、藍は優しく外しタオルを渡した。受けとったタオルを持ったまま、旭は藍から目が離せないでいる。
「白藍、やっと逢えた。待っていました」
「あの佐藤先生。私は大林藍(おおばやし あい)と申します」
藍は名刺を旭に渡した。名刺には角栄社とあり、大林藍の名前が書かれていた。その藍という字に旭は反応した。
「やはり白藍に違いない」
「あの佐藤先生、しらあいとは何ですか」
藍の質問に答える前に永田が、バタバタと音をたてて騒がしく走ってきた。そして険しい表情で声を掛けてきた。
「佐藤先生が帰って来ないので大林を行かせたが、何か不備がありましたか?心配で私も来てしまいました」
「いいえ、別に何も」
「そですか。そうそう佐藤先生、大林を紹介します。新しく先生の担当になりました」
「新しい担当?」
「そうです。大林は優秀ですよ。最近は遠西寺先生の担当で評判いいんです。私の後は彼女が適任かと」
「やめてください。優秀だなんてハードルを上げないでください。先生が幻滅したら嫌なので」
「自信持て。遠西寺先生からは大絶賛だぞ」
「それがハードル上げているんです」
「そうか?本当のことだけどな」
「あの、お取込み中すいませんが、本当に彼女が僕の担当なんですか」
「大林藍です。お願いします。前担当の永田以上に先生を全力でバックアップします」
「ありがとう。期待しています」
「はい」
藍の笑顔は白藍の姫と同じ顔で、その面影が重なる。旭は白藍の姫が同じ顔で現れるのは知っていた。それは旭自身も同じ容姿だからだ。
だが現実に目の前にすると前世の切なさと愛おしさが溢れて抱きしめたい衝動が抑えきれない。それを押さえるために顔をそむけて拳を握り締めた。
「佐藤先生、どうしました?」
「徹夜が続いて疲れて」
「大丈夫ですか?」
旭の顔を覗き込む藍が目に入った。心配そうに額に手をおいて熱があるか確かめた。
「えっ」
「良かった。熱はなさそうです」
「大林、お母さんか?」
「永田さん、やめてください。一気に年取った気がします」
「どおりで、目の下に隈があるし目尻の皴もあるような」
「怒りますよ」
「嘘、嘘。冗談。大林、仕事初めに先生を送っていけ。はい、会社の車のキー」
「佐藤先生すぐに車を店の前に回してきます」
旭の返事を聞かずに飛び出して行った。永田は笑いながら旭に声をかけた。
「彼女は私以上に先生の作品の大ファンのようです。先生の担当になりたいと交渉してきました。そんなことをしなくても彼女に担当を決めていたのに」
「そうなんですか」
「私は彼女に期待しています。彼女は先生を変える。新しい境地を開く」
「新しい境地?」
「そうです。先生は冷たい外見とは裏腹に内に秘めた情熱がある。私はそれを引き出せなかった。彼女は情熱に溢れている。他に伝染させるくらいの情熱を持っている」
旭のスマホが鳴った。ホケットから出すと見慣れない番号を見た。永田が横から番号を確認する。
「先生。大林からです」
旭は戸惑いながらスマホに出た。
「はい」
「先生、店の前で待っています」
「はい、今から行きます」
旭は立ち止まって、何もできなくなっていた。めまぐるしく動き出した運命に困惑していた。会いたいと思っていた気持ちが募っていたのに目の前に現れた途端、前世の悲劇が繰り返すのではないかと恐怖を感じた。フリーズした旭に永田が後ろから背中を軽く押した。
「さあ、行きましょう先生」
最寄りのパーキングから車を出した藍は、交差点から左折して店の前で止めた。暫くすると旭と永田が店の入口から、藍が待つ道路側に近寄ってくる。そして車のドアを開けた永田に急かされて、旭は後部座席に乗り込んだ。永田はアルコールが入っているせいか、上機嫌で旭に手を振っている。それに気付いた旭は、車の窓を開けて言った。
「永田さん、今日は早くに失礼して、すいません。それでは、お元気で」
「佐藤先生もお元気で、また会いに行きます」
「はい」
「大林君、安全運転で頼んだよ」
「はい、任せてください」
「じゃ、先生また」
旭が一礼すると、ゆっくりと車が動き出した。
旭は店で少しの滞在で、何もしていないのに疲れを滲ませた。車の中の狭い空間に藍の存在を大きく感じていたせいだ。藍がいるだけで前世の様々な出来事が浮かび上がる。車の揺れが心地いいせいで、夢かうつつか旭は瞼を閉じていた。
白藍の姫は旭のことを好意に思っていた。何をするにも旭を1番に呼び、何処にでも必ず連れて行った。今日は朝日を見に行くため一緒だった。朝早くから屋敷を出て小高い山道を歩いていた。木々の隙間から見える朝の薄水色の空が見え隠れしていた。
「旭、空を見よ。空は白藍色で綺麗だ。藍は白藍色が好きだ」
「だからいつも着物の色は白藍色を着ているのですね」
「そうだ。朝日の黄金色(こがねいろ)の太陽とよく似合う色だからだ」
「本当に太陽と白藍の空は綺麗です」
「そうか。旭はこの太陽のようだ。真っ直ぐに照らし暖かで優しく藍を見守ってくれる」
「姫様、旭は命を懸け、お守りします」
「ありがたい」
「旭は親方様に拾われて幸せです。旭の人生の漆黒の夜を姫様が金色(こんじき)の月のように照らし明るい道にしてくれました」
「そうか、旭も藍を好いてくれるか?」
「勿論です」
「では旭、今日から姫でなく白藍と呼んでいいぞ。旭だけに呼んでもらう名だ」
「でも親方様が」
「じゃ、2人の時は、必ず白藍と呼べ。命令だ」
「はい、姫様」
「旭、白藍だ」
「白藍」
「なんじゃ!」
笑いながら白藍の姫は旭に抱きついた。旭は小さく華奢な体を壊れないように優しく抱き締めた。
「先生、着きましたよ」
遠くから高く元気な声が聞こえる。白藍の姫の声だと思った。
「佐藤先生、着きましたよ。佐藤先生!」
我にかえた旭は車の中に居たことを思い出した。後ろを向いて旭に呼びかける藍が、運転席に見えた。
旭は藍の顔を見ると白藍の姫が、手の届く所にいる喜びを感じた。離したくない帰したくない欲望が湧いてくる。だが手にした途端、消えてしまうのではないかと臆病にもなった。
「先生のお宅は都心の一軒家なんですね。作家さんは、都心でもマンションの人が多くて」
「ボロ家だけど僕は、この古民家を気に入っている。祖父から受け継いだから大事にしたい」
「古民家って言っても大きなお屋敷ですよ。羨ましい」
「じゃ、一緒に住む?」
「もう先生。冗談やめてください。本気にしちゃいますから」
「本気だよ」
「先生そんなキャラでしたか。イメージ変わります」
「僕って、どんなイメージに思っているの?」
「えーと、クールでイケメンで何事にも動じない。それに落ち着いて爽やかで」
「へえー、じゃ今の発言で、どう思った?」
「ちょっとチャラいかな。なんか気をつけろって感じ」
「何?それ、何に気をつけるの?」
「先生にハマってしまいそうで怖いので」
「僕はそんなに怖い?」
「じゃなくて、先生に夢中になることが怖い」
「大林さんは夢中になってくれないの?」
「編集者としては、先生の作品に夢中ですが、恋愛感情はありません。それに私には彼がいますし」
「そうか、彼がいるのか。でも結婚してないよね」
「結婚はしていませんが、私は先生より5才も上なんで、私は年上が対象で年下はタイプじゃあないんです」
「恋愛に年って関係ある?」
「え、先生はないんですか?」
「僕は好きになった人がタイプなんで」
「じゃあですよ。私がおばあちゃんでもその言葉いえますか?」
「いえるよ」
「先生からかわないで下さい。それうけませんよ」
藍は笑ってごまかした。
冷たい影のある印象が藍の感じる旭だ。実際に会って会話をしてみると印象とは正反対だった。それは積極的で熱を持った旭が新鮮に感じた。新しい作品が次々と書けるのは、意外な一面を持つからだと思ったのだ。藍は旭の新作に期待が止まらなかった。
「先生、連載作品の(明日のひかり)の最終話は締め切り間近ですが、進んでいますか?」
「上手く話を切り替えるね。永田さんが僕に薦めた編集者だ。もう出来ているから今見る?」
「いいんですか?まだ締め切りまで3日もあるのに」
「やっぱり3日後にメールで送るよ」
「いやいや、出来ているなら遠慮なくいただきます。今見ていいんですか」
「うん、それじゃ入って」
「はい、お邪魔します」
藍は車を旭の家のガレージに止めた。
旭の家の玄関は、広く田舎の祖母の家を思い出させた。キョロキョロ見回す藍の様子が、旭には面白くて、からかいたくなる。
「この家を気に入った?」
「はい、懐かしい感じがします」
「じゃ、一緒に住む」
「その冗談まだ続きますか?」
旭は藍の怒った顔が可愛くて笑ってしまった。白藍の姫の全身で表現する姿は変わっていない。生まれ変わっても性格は同じだと思った。実際、旭自体も変わらず、白藍の姫を愛しているのだからだ。
「何、笑っているんですか?」
「からかい甲斐がある」
「仕事モードになっているのでやめて下さい」
懐かしい膨れっ面を見て、また旭は笑った。藍の可愛い一面を見ると抱き締めたくなる衝動が起こる。それを押さえて、突き当りの部屋の書斎を指差した。
「えっと、こっちが書斎」
旭の後をついて行くと図書館みたいな書斎を見てびっくりした。参考資料の本や好みの小説を揃えていた。藍の好きな小説ばかりでテンションが上がっていた。
「先生ここは宝庫ですね。私の好きな本ばかりで、絶版の本もある。これ読みたかった」
「そう、好きな時に来て本を読むといい」
「本当ですか。嬉しい。あ、仕事忘れてるところでした。最終話の小説は?」
旭は奥にある机のパソコンの横からプリントアウトした原稿を取り出し渡した。受け取った藍は近くの椅子に座り読み始めた。そんな藍をパソコン越しに座って見ていた。ずっと見ていられると旭は思った。現に読み終わるまで目を離さなかった。
藍は夢中に読んでいたので、旭のことは気に留めていなかった。読み終わると興奮したように話しかけた。
「先生凄いです。悲劇だけで終わると思ったのに、次に繋がる望みがあります。この続きは?続編ありますか?この次は続編を連載しますか?」
「まあ、落ち着いて。この続きは書かない」
「えー!勿体ない」
「これは作者が決めていいよね」
「いいですけど続き読みたいです」
「ありがとう。この続きを書かないのは、読者に考えてほしい。決めつけずに自由な発想で想像していい。僕の作品だけど読者にも考えて自分だけの物語にしてほしいから、続編は読者の心が書くもの」
「凄い。先生の作品が人気なのは、そんなところなんです。私も好きです」
「もう一度言って」
「先生の作品が人気」
「じゃ、なくて。最後の言葉」
「私も好きです?」
「何で質問になるの」
「先生それ趣味悪いですよ。そこだけ抜き取って聞き出すの、親父っぽい」
「親父って!」
「冗談です。怒っています?案外、子供なんですね」
「子供かも」
旭は藍を立ち上がらせ本棚に寄せて逃げ道をふさいだ。ゆっくりと藍の唇に旭の唇が近づいた。時間が止まったように藍は動けなかった。
唇が触れないぎりぎりの位置で旭は止めた。そして何事もなかったように離れて仕事の話を始めた。
「書き直しは大丈夫?」
「はい、最高にいいです。これでいきましょう」
藍はまだドキドキして体全体が脈打つ感覚がある。まさかの展開。何かあったような無かったような夢と言っても疑わないほどだ。
平気でいる旭を見て、からかわれたと思い腹立たしい。でも今怒ってもピントが外れているようで、大人だからと冷静なふりをした。いたずら好きな子供だと思うのがいい。旭は大学4年生だからと藍は心に言い聞かせた。
「原稿は大林さんの会社のパソコンにメールするよ」
「はい、お願いします」
「メールを確認して後から変更があったら教えてください」
「はい何かありましたら連絡します。あの次回の連載ですが、引き続きお願いします」
「ごめん。双川社(そうがわしゃ)からも依頼きている。大林さんの所は、また考えとく」
「先生、頼みますよ。永田から担当、引き継いで私で連載が止まると角栄社、クビになりますよ」
「しかたない。じゃぁ色仕掛けでくるの?」
「え、私に色気感じます?」
「感じない」
旭の担当の編集者が、女性の場合なら誘惑しょうと色仕掛けは、当たり前になっていた。仕事だからと相手にしないが、女性達は旭の容姿とミステリアスな性格に惹かれてしまう。
旭は滅多に手を出さない。だが容姿や性格がどことなく白藍の姫に似ていると若い男子の我慢は限界がくるらしい。思わず抱いてしまう。その後は似ても似つかないと気づき後悔する。収拾がつかず担当が代わると女性によってはストーカー化してしまう。
警察沙汰になった時は、懲りて手は出さないと決めた。しかし白藍の姫と同じ声、同じ顔、性格や仕草まで似ている。藍は白藍の姫に違いないと確信している。
今度こそ白藍の姫をみつけ出した。徐々に一途な気持ちが蘇った。
無邪気で明るい藍を前に、やっと出会えた運命に離したくないと心で叫んでいる。焦ってはいけないと気持ちを押えた。
「うーん。連載はやっぱ考えとく」
「えー、そんな、明日また来ますからね。いい返事を考えて下さい」
「分かった。また明日」
「冷たいですね。では、お邪魔しました」
旭はパソコンに向かって仕事を始めた。カタカタとキーボードをたたく音を聞きながら藍は書斎から出て行く。その後ろ姿を旭は見えなくなるまで目で追っていた。
藍は旭の家から出て車を返すために会社に向かった。旭の言動を思い返すと焦るし腹立たしい。
「もう思わせぶりで、ガツガツくると思ったら冷たい態度。まだ大学生の子供のくせに大人からかうなよ」
ふっと旭の途中でやめたキスを思い出した。大人の顔をして綺麗だった。ぼーっとしてしまったのが恥ずかしく思えてきた。それに近くにあった綺麗な顔が頭の中に繰り返し浮かんでいた。
「バカバカ、何考えてんの」
車の中で恥ずかしさで顔が赤くなっていた。誰もいないのに顔を隠したくなる。初めてこんな気持ちになるのが、不思議でしかたがなかった。
会社のビル地下の駐車場に車を置いて、キーを3階の事務所に返した。スマホの時間を見ると11時を過ぎていた。取りあえずメールをチェックした。遠西寺秀子からだ。旭のことを気にしていたので、心配ないと返信した。
藍は遅くなったと思い急いで駅に向かった。電車に乗っても旭の顔が思い浮かぶ。自宅近くの駅に着くと何も考えないように足早に帰えるようにした。
自宅マンションの前に来ると、体に溜まった熱をさますため、深呼吸してから扉の鍵を開けて静かに入った。
「お帰り」
「駿(しゅん)起こした。ごめん」
岡田が起きていたので少し驚いたが、また元の何もなかった表情にもどった。
藍は同級生の岡田駿(おかだ しゅん)と結婚を前提に付き合い。間もなくして同棲した。あれから五年経つ。
空気のような存在と例えれば聞こえがいい。だが考えてみると結婚していないのだから友達に逆戻りしたというべきか、いや最初から友達じゃなかったと藍は思った。
一方的に相手から付き合いたいと押してくる。押しに弱い藍は付き合ってしまった。それに同棲をすること事態に戸惑っていた。結婚を前提で遅かれ早かれ一緒に暮らすのだからと説得されて今に至った。
このままの気持ちで藍は結婚していいものかと考えていた。5年の月日は結婚から心が遠ざかっていた。それは時期を逃した気がしている。結婚は勢いだという人もいるが、慎重になり過ぎて、いつしか心を閉ざしてしまった。そして息切れのため勢いをなくしたらしい。
翌朝、藍は旭の家に直行した。角栄社には佐藤先生の原稿が擱筆(かくひつ)になると連絡すると、すんなり直行を許してくれた。擱筆とは簡単にいえば書いてくれないということだ。人気小説家が連載されないとなると本の売れ行きに影響がある。藍は焦っていた。
2人は運命の歯車に引き寄せられていく。
道が開けたと思ったが、そこには険しい崖があり下に広い川が流れている。もう追い詰められて行く当てもない。思い切って旭は白藍の姫を抱き、崖から飛び遥か下の川に墜落した。落下途中に矢が雨の如く降り注ぐ。白藍の姫を体で包み込むように抱いていたため旭だけが背中に矢をうける。痛さの余りうめき声があがる。
「うわあー」
寝汗をかき、うなされて目が覚める。これは旭の前世で最終の記憶であり最愛の人と別離した瞬間であった。
幼い頃から同じ夢を見ては悲しみが蘇る。旭は前世を忘れられない特殊な体質で、愛する白藍の姫を今生で探し出したかった。
旭は現在22才で高校生のときから売れっ子の小説家だ。デビューしたばかりのときは、小さな賞から大きな賞まで総なめで話題の作家だった。今でも新刊が出ると飛ぶように売れていて、ベストセラーは当たり前でドラマ化や映画化になるほどだ。
簡単に書いているように見えるが小説を書くには取材や資料集めをして、それを読み解き、そしてアイデアを駆使しなければいけない。旭は努力をおしまず全力で作品に向かっていた。何故なら有名になりたかったからだ。
それは藍姫が逆にみつけてくれるかもしれないという、ささやかな希望を持っていた。だが藍姫が前世を覚えている訳でもない。それはあり得ないことだった。
旭の始まりは乱世の時代。坂原家の正門に、赤子が捨てられていた。
薄汚れ擦り切れた生地にくるまれ、泣きもせずスヤスヤと眠っていた。それは春も過ぎ初夏の訪れがきていたせいか、暖かい陽だまりの中に気持ちよさそうにみえた。
そこへ当主の忠直(ただなお)が馬に乗り出かけるため正門をでた。すると馬の足どりがおかしかった。忠直は馬から降りて足元を見た。正門の中央に赤子が寝かされていたのに気付き、思わず抱きかかえたのだ。
「何と凛々しく美しい赤子だ。こんな所に捨てられ可哀そうに」
従者の風次が後を追ってくると忠直が赤子を抱いているのを見て馬を降りた。
「親方様、捨て子ですか」
「そのようだ」
「この時代珍しくないもの。貧しくてここに捨て置いたのでしょう。放って置いてはどうですか」
「だが、不憫でしかたない。そうじゃ藍姫の遊び相手として育てよう」
赤子に朝日が眩しく差し込むと、目をさまして瞼を一度開けたが、また強くつぶり手足をバタバタと動かした。その愛らしい子に忠直は笑いかける。
「おうおう、眩しいのう。そうだ。お前を旭と名付けよう」
忠直は藍姫が産まれたばかりで赤子を見ると、姫と重なり放ておけなかったのだ。
そこで旭が幼いときは姫の遊び相手として、そして大人になれば当主の従者として育てることにした。それは旭だけが知っている。遠い遠い昔の出来事だった。
現在において旭という名を現世で取り戻したときから、この時代こそが白藍の姫と再び出会えると確信している。小説家の旭は必ず会えると強く思っていた。
旭の担当の永田は今日で定年退職のため角栄社(かくえいしゃ)を辞める。人柄の良い永田は誰からも愛されている存在だ。だから今日の送別会の出席者は結構な人数だ。大御所の作家たちまでいるのが、永田の編集者としての長さや実力も分かる。
永田にとって旭は最後の担当だった。現場に携わりたいと出世は副編集長まで、作家第一と考え熱意を持って仕事に打ち込んでいた。そんな永田を旭は尊敬していた。まだ担当でいて欲しいと懇願したいと思っているくらいだ。
旭は永田に最後の挨拶にいった。
「おう、来てくれましたか、ありがとうございます。孤高の天才、佐藤旭先生」
「やめてよ。永田さん。あなたがいたから僕は作家になれた。感謝しています」
「何を言うんだ。それは先生の実力だ。惜しいな。まだまだ担当でいたかったな」
「マジで、まだ個人的に担当でいてくれませんか?」
「名残惜しいが、これからは若い担当に譲って、私は先生のファンとして本を愛読させてもらいます」
「じゃ、気がむいたら遊びに来て下さい」
「それは嬉しい。本気にしますよ」
「いつでも、どうぞ」
旭は近くにあったビールのピッチャーを持ち永田のグラスについだ。
そこへ大御所の時代小説作家の遠西寺秀子(とうざいじ ひでこ)が現れた。秀子は64才で38年の作家歴、それに芥川賞作家だ。
「永ちゃんお疲れ様。とうとう定年か」
「遠西寺先生、来てくれましたか、ありがとうございます」
旭に気付き秀子は嬉しそうに近づいてきた。
「あれ、彼は超売れっ子の佐藤旭先生?」
「はい、初めまして、佐藤です」
「あの私、遠西寺です」
「ええ、知っています。遠西寺先生、いつも小説読ませてもらっています」
「こちらちこそ佐藤先生の本、愛読しているわよ。幅広い分野の物が書けて素晴らしいわ。どう時代小説も書いてみない?」
「ありがとうございます。興味があるので書いてみたいですね」
秀子は喜んで右手を出し握手を求めた。旭はそれに答え軽く手を握ると秀子は強く握りかえした。
「いつでも言ってね。なんでも協力するわ。それにしても男前ね」
「さすが時代小説作家。イケメンとはいわないか」
「永ちゃん、からかわないでよ」
「いやいや、佐藤先生は評判だから、顔までいいのは非の打ち所がないね」
「旭って名前もいいわ」
「ありがとうございます。僕もこの名前は気にいっています」
「光差し輝くような広大な名前ね」
「遠西寺先生にそう言ってもらえると嬉しいです。それにこの名前があると待ち望んでいた者が現れるような気がして、ただ夢見ています」
「まあ、それは誰かしら?興味深いわね」
「今の聞き流して下さい」
「若いから夢が膨らむね」
「永ちゃんがいうと何か、いやらしい」
「何だよ。それ」
永田と秀子は顔を見合わせて笑った。その拍子に永田のビールのグラスに手が当たりこぼれてしまった。旭が横にいたのでビールがシャツの脇腹あたりにかかた。それを見ていた秀子がおしぼりを集め旭のシャツを拭いた。
「まあ、大丈夫?」
「佐藤先生すいません。酔ったみたいです」
「もう永ちゃんたら」
「大丈夫です。ちょっとトイレへ」
「そうね。すぐに洗った方がいいわ」
旭はトイレにいって手を洗いシャツの裾をだしてハンカチを濡らし拭いた。するとノックする音がした。
「先生、大丈夫ですか?タオル借りてきました」
聞き憶えのある声がする。旭は思わず扉を開けた。そこには白藍の姫が立っていた。聡明で気高く、それでいて人懐っこい笑顔がそこにあった。
旭は手を伸ばし白藍の姫の頬を触った。
「これは夢なのか?」
こんな近くに白藍の姫がいる。旭は幻かと疑った。
それと同時に過去の記憶が頭の中に流れだした。幼子だったときの白藍の姫とその祖母との会話が蘇ったのだった。
旭は赤子のころ白藍の姫と同じ乳母に育てられていた。まるで兄弟のようでもあったが、幼いながらも身の程をわきまえていた。
旭と白藍の姫は庭を駆け回り、落ちている枝を振り回して遊んでいた。白藍の姫は祖母をみつけると走り寄り膝に抱きついた。
「藍と旭は、ほんにやんちゃだこと。赤子のときは二人ともおとなしゅうて良い子だったのに」
白藍の姫は興味津々に祖母に旭の赤子のときのことを聞いた。
「おばあ様、旭はどんな赤子だったの。今みたいに可愛いい?」
「ほんに可愛い赤子で、乳母のいうには発育も早く泣きもせず手がかからなかったそうだ」
「大方様、旭は可愛いは嫌でございます。男として藍姫様を守るのに可愛いでは守れないのです」
「まあまあ、男らしいのう」
「藍は旭が可愛いし美しいと思う。旭は藍の者じゃ。ずっと一緒にいてくれるか?」
「はい、藍姫様。旭は藍姫様とずっと一緒です」
藍姫は旭に抱きついた。二人を見て祖母は目を細めて微笑んだ。
思い出の中にいた旭は虚ろな瞳が、いま目覚めたように、しっかりと瞼を開き藍をみつめた。頬にあてられた手を、藍は優しく外しタオルを渡した。受けとったタオルを持ったまま、旭は藍から目が離せないでいる。
「白藍、やっと逢えた。待っていました」
「あの佐藤先生。私は大林藍(おおばやし あい)と申します」
藍は名刺を旭に渡した。名刺には角栄社とあり、大林藍の名前が書かれていた。その藍という字に旭は反応した。
「やはり白藍に違いない」
「あの佐藤先生、しらあいとは何ですか」
藍の質問に答える前に永田が、バタバタと音をたてて騒がしく走ってきた。そして険しい表情で声を掛けてきた。
「佐藤先生が帰って来ないので大林を行かせたが、何か不備がありましたか?心配で私も来てしまいました」
「いいえ、別に何も」
「そですか。そうそう佐藤先生、大林を紹介します。新しく先生の担当になりました」
「新しい担当?」
「そうです。大林は優秀ですよ。最近は遠西寺先生の担当で評判いいんです。私の後は彼女が適任かと」
「やめてください。優秀だなんてハードルを上げないでください。先生が幻滅したら嫌なので」
「自信持て。遠西寺先生からは大絶賛だぞ」
「それがハードル上げているんです」
「そうか?本当のことだけどな」
「あの、お取込み中すいませんが、本当に彼女が僕の担当なんですか」
「大林藍です。お願いします。前担当の永田以上に先生を全力でバックアップします」
「ありがとう。期待しています」
「はい」
藍の笑顔は白藍の姫と同じ顔で、その面影が重なる。旭は白藍の姫が同じ顔で現れるのは知っていた。それは旭自身も同じ容姿だからだ。
だが現実に目の前にすると前世の切なさと愛おしさが溢れて抱きしめたい衝動が抑えきれない。それを押さえるために顔をそむけて拳を握り締めた。
「佐藤先生、どうしました?」
「徹夜が続いて疲れて」
「大丈夫ですか?」
旭の顔を覗き込む藍が目に入った。心配そうに額に手をおいて熱があるか確かめた。
「えっ」
「良かった。熱はなさそうです」
「大林、お母さんか?」
「永田さん、やめてください。一気に年取った気がします」
「どおりで、目の下に隈があるし目尻の皴もあるような」
「怒りますよ」
「嘘、嘘。冗談。大林、仕事初めに先生を送っていけ。はい、会社の車のキー」
「佐藤先生すぐに車を店の前に回してきます」
旭の返事を聞かずに飛び出して行った。永田は笑いながら旭に声をかけた。
「彼女は私以上に先生の作品の大ファンのようです。先生の担当になりたいと交渉してきました。そんなことをしなくても彼女に担当を決めていたのに」
「そうなんですか」
「私は彼女に期待しています。彼女は先生を変える。新しい境地を開く」
「新しい境地?」
「そうです。先生は冷たい外見とは裏腹に内に秘めた情熱がある。私はそれを引き出せなかった。彼女は情熱に溢れている。他に伝染させるくらいの情熱を持っている」
旭のスマホが鳴った。ホケットから出すと見慣れない番号を見た。永田が横から番号を確認する。
「先生。大林からです」
旭は戸惑いながらスマホに出た。
「はい」
「先生、店の前で待っています」
「はい、今から行きます」
旭は立ち止まって、何もできなくなっていた。めまぐるしく動き出した運命に困惑していた。会いたいと思っていた気持ちが募っていたのに目の前に現れた途端、前世の悲劇が繰り返すのではないかと恐怖を感じた。フリーズした旭に永田が後ろから背中を軽く押した。
「さあ、行きましょう先生」
最寄りのパーキングから車を出した藍は、交差点から左折して店の前で止めた。暫くすると旭と永田が店の入口から、藍が待つ道路側に近寄ってくる。そして車のドアを開けた永田に急かされて、旭は後部座席に乗り込んだ。永田はアルコールが入っているせいか、上機嫌で旭に手を振っている。それに気付いた旭は、車の窓を開けて言った。
「永田さん、今日は早くに失礼して、すいません。それでは、お元気で」
「佐藤先生もお元気で、また会いに行きます」
「はい」
「大林君、安全運転で頼んだよ」
「はい、任せてください」
「じゃ、先生また」
旭が一礼すると、ゆっくりと車が動き出した。
旭は店で少しの滞在で、何もしていないのに疲れを滲ませた。車の中の狭い空間に藍の存在を大きく感じていたせいだ。藍がいるだけで前世の様々な出来事が浮かび上がる。車の揺れが心地いいせいで、夢かうつつか旭は瞼を閉じていた。
白藍の姫は旭のことを好意に思っていた。何をするにも旭を1番に呼び、何処にでも必ず連れて行った。今日は朝日を見に行くため一緒だった。朝早くから屋敷を出て小高い山道を歩いていた。木々の隙間から見える朝の薄水色の空が見え隠れしていた。
「旭、空を見よ。空は白藍色で綺麗だ。藍は白藍色が好きだ」
「だからいつも着物の色は白藍色を着ているのですね」
「そうだ。朝日の黄金色(こがねいろ)の太陽とよく似合う色だからだ」
「本当に太陽と白藍の空は綺麗です」
「そうか。旭はこの太陽のようだ。真っ直ぐに照らし暖かで優しく藍を見守ってくれる」
「姫様、旭は命を懸け、お守りします」
「ありがたい」
「旭は親方様に拾われて幸せです。旭の人生の漆黒の夜を姫様が金色(こんじき)の月のように照らし明るい道にしてくれました」
「そうか、旭も藍を好いてくれるか?」
「勿論です」
「では旭、今日から姫でなく白藍と呼んでいいぞ。旭だけに呼んでもらう名だ」
「でも親方様が」
「じゃ、2人の時は、必ず白藍と呼べ。命令だ」
「はい、姫様」
「旭、白藍だ」
「白藍」
「なんじゃ!」
笑いながら白藍の姫は旭に抱きついた。旭は小さく華奢な体を壊れないように優しく抱き締めた。
「先生、着きましたよ」
遠くから高く元気な声が聞こえる。白藍の姫の声だと思った。
「佐藤先生、着きましたよ。佐藤先生!」
我にかえた旭は車の中に居たことを思い出した。後ろを向いて旭に呼びかける藍が、運転席に見えた。
旭は藍の顔を見ると白藍の姫が、手の届く所にいる喜びを感じた。離したくない帰したくない欲望が湧いてくる。だが手にした途端、消えてしまうのではないかと臆病にもなった。
「先生のお宅は都心の一軒家なんですね。作家さんは、都心でもマンションの人が多くて」
「ボロ家だけど僕は、この古民家を気に入っている。祖父から受け継いだから大事にしたい」
「古民家って言っても大きなお屋敷ですよ。羨ましい」
「じゃ、一緒に住む?」
「もう先生。冗談やめてください。本気にしちゃいますから」
「本気だよ」
「先生そんなキャラでしたか。イメージ変わります」
「僕って、どんなイメージに思っているの?」
「えーと、クールでイケメンで何事にも動じない。それに落ち着いて爽やかで」
「へえー、じゃ今の発言で、どう思った?」
「ちょっとチャラいかな。なんか気をつけろって感じ」
「何?それ、何に気をつけるの?」
「先生にハマってしまいそうで怖いので」
「僕はそんなに怖い?」
「じゃなくて、先生に夢中になることが怖い」
「大林さんは夢中になってくれないの?」
「編集者としては、先生の作品に夢中ですが、恋愛感情はありません。それに私には彼がいますし」
「そうか、彼がいるのか。でも結婚してないよね」
「結婚はしていませんが、私は先生より5才も上なんで、私は年上が対象で年下はタイプじゃあないんです」
「恋愛に年って関係ある?」
「え、先生はないんですか?」
「僕は好きになった人がタイプなんで」
「じゃあですよ。私がおばあちゃんでもその言葉いえますか?」
「いえるよ」
「先生からかわないで下さい。それうけませんよ」
藍は笑ってごまかした。
冷たい影のある印象が藍の感じる旭だ。実際に会って会話をしてみると印象とは正反対だった。それは積極的で熱を持った旭が新鮮に感じた。新しい作品が次々と書けるのは、意外な一面を持つからだと思ったのだ。藍は旭の新作に期待が止まらなかった。
「先生、連載作品の(明日のひかり)の最終話は締め切り間近ですが、進んでいますか?」
「上手く話を切り替えるね。永田さんが僕に薦めた編集者だ。もう出来ているから今見る?」
「いいんですか?まだ締め切りまで3日もあるのに」
「やっぱり3日後にメールで送るよ」
「いやいや、出来ているなら遠慮なくいただきます。今見ていいんですか」
「うん、それじゃ入って」
「はい、お邪魔します」
藍は車を旭の家のガレージに止めた。
旭の家の玄関は、広く田舎の祖母の家を思い出させた。キョロキョロ見回す藍の様子が、旭には面白くて、からかいたくなる。
「この家を気に入った?」
「はい、懐かしい感じがします」
「じゃ、一緒に住む」
「その冗談まだ続きますか?」
旭は藍の怒った顔が可愛くて笑ってしまった。白藍の姫の全身で表現する姿は変わっていない。生まれ変わっても性格は同じだと思った。実際、旭自体も変わらず、白藍の姫を愛しているのだからだ。
「何、笑っているんですか?」
「からかい甲斐がある」
「仕事モードになっているのでやめて下さい」
懐かしい膨れっ面を見て、また旭は笑った。藍の可愛い一面を見ると抱き締めたくなる衝動が起こる。それを押さえて、突き当りの部屋の書斎を指差した。
「えっと、こっちが書斎」
旭の後をついて行くと図書館みたいな書斎を見てびっくりした。参考資料の本や好みの小説を揃えていた。藍の好きな小説ばかりでテンションが上がっていた。
「先生ここは宝庫ですね。私の好きな本ばかりで、絶版の本もある。これ読みたかった」
「そう、好きな時に来て本を読むといい」
「本当ですか。嬉しい。あ、仕事忘れてるところでした。最終話の小説は?」
旭は奥にある机のパソコンの横からプリントアウトした原稿を取り出し渡した。受け取った藍は近くの椅子に座り読み始めた。そんな藍をパソコン越しに座って見ていた。ずっと見ていられると旭は思った。現に読み終わるまで目を離さなかった。
藍は夢中に読んでいたので、旭のことは気に留めていなかった。読み終わると興奮したように話しかけた。
「先生凄いです。悲劇だけで終わると思ったのに、次に繋がる望みがあります。この続きは?続編ありますか?この次は続編を連載しますか?」
「まあ、落ち着いて。この続きは書かない」
「えー!勿体ない」
「これは作者が決めていいよね」
「いいですけど続き読みたいです」
「ありがとう。この続きを書かないのは、読者に考えてほしい。決めつけずに自由な発想で想像していい。僕の作品だけど読者にも考えて自分だけの物語にしてほしいから、続編は読者の心が書くもの」
「凄い。先生の作品が人気なのは、そんなところなんです。私も好きです」
「もう一度言って」
「先生の作品が人気」
「じゃ、なくて。最後の言葉」
「私も好きです?」
「何で質問になるの」
「先生それ趣味悪いですよ。そこだけ抜き取って聞き出すの、親父っぽい」
「親父って!」
「冗談です。怒っています?案外、子供なんですね」
「子供かも」
旭は藍を立ち上がらせ本棚に寄せて逃げ道をふさいだ。ゆっくりと藍の唇に旭の唇が近づいた。時間が止まったように藍は動けなかった。
唇が触れないぎりぎりの位置で旭は止めた。そして何事もなかったように離れて仕事の話を始めた。
「書き直しは大丈夫?」
「はい、最高にいいです。これでいきましょう」
藍はまだドキドキして体全体が脈打つ感覚がある。まさかの展開。何かあったような無かったような夢と言っても疑わないほどだ。
平気でいる旭を見て、からかわれたと思い腹立たしい。でも今怒ってもピントが外れているようで、大人だからと冷静なふりをした。いたずら好きな子供だと思うのがいい。旭は大学4年生だからと藍は心に言い聞かせた。
「原稿は大林さんの会社のパソコンにメールするよ」
「はい、お願いします」
「メールを確認して後から変更があったら教えてください」
「はい何かありましたら連絡します。あの次回の連載ですが、引き続きお願いします」
「ごめん。双川社(そうがわしゃ)からも依頼きている。大林さんの所は、また考えとく」
「先生、頼みますよ。永田から担当、引き継いで私で連載が止まると角栄社、クビになりますよ」
「しかたない。じゃぁ色仕掛けでくるの?」
「え、私に色気感じます?」
「感じない」
旭の担当の編集者が、女性の場合なら誘惑しょうと色仕掛けは、当たり前になっていた。仕事だからと相手にしないが、女性達は旭の容姿とミステリアスな性格に惹かれてしまう。
旭は滅多に手を出さない。だが容姿や性格がどことなく白藍の姫に似ていると若い男子の我慢は限界がくるらしい。思わず抱いてしまう。その後は似ても似つかないと気づき後悔する。収拾がつかず担当が代わると女性によってはストーカー化してしまう。
警察沙汰になった時は、懲りて手は出さないと決めた。しかし白藍の姫と同じ声、同じ顔、性格や仕草まで似ている。藍は白藍の姫に違いないと確信している。
今度こそ白藍の姫をみつけ出した。徐々に一途な気持ちが蘇った。
無邪気で明るい藍を前に、やっと出会えた運命に離したくないと心で叫んでいる。焦ってはいけないと気持ちを押えた。
「うーん。連載はやっぱ考えとく」
「えー、そんな、明日また来ますからね。いい返事を考えて下さい」
「分かった。また明日」
「冷たいですね。では、お邪魔しました」
旭はパソコンに向かって仕事を始めた。カタカタとキーボードをたたく音を聞きながら藍は書斎から出て行く。その後ろ姿を旭は見えなくなるまで目で追っていた。
藍は旭の家から出て車を返すために会社に向かった。旭の言動を思い返すと焦るし腹立たしい。
「もう思わせぶりで、ガツガツくると思ったら冷たい態度。まだ大学生の子供のくせに大人からかうなよ」
ふっと旭の途中でやめたキスを思い出した。大人の顔をして綺麗だった。ぼーっとしてしまったのが恥ずかしく思えてきた。それに近くにあった綺麗な顔が頭の中に繰り返し浮かんでいた。
「バカバカ、何考えてんの」
車の中で恥ずかしさで顔が赤くなっていた。誰もいないのに顔を隠したくなる。初めてこんな気持ちになるのが、不思議でしかたがなかった。
会社のビル地下の駐車場に車を置いて、キーを3階の事務所に返した。スマホの時間を見ると11時を過ぎていた。取りあえずメールをチェックした。遠西寺秀子からだ。旭のことを気にしていたので、心配ないと返信した。
藍は遅くなったと思い急いで駅に向かった。電車に乗っても旭の顔が思い浮かぶ。自宅近くの駅に着くと何も考えないように足早に帰えるようにした。
自宅マンションの前に来ると、体に溜まった熱をさますため、深呼吸してから扉の鍵を開けて静かに入った。
「お帰り」
「駿(しゅん)起こした。ごめん」
岡田が起きていたので少し驚いたが、また元の何もなかった表情にもどった。
藍は同級生の岡田駿(おかだ しゅん)と結婚を前提に付き合い。間もなくして同棲した。あれから五年経つ。
空気のような存在と例えれば聞こえがいい。だが考えてみると結婚していないのだから友達に逆戻りしたというべきか、いや最初から友達じゃなかったと藍は思った。
一方的に相手から付き合いたいと押してくる。押しに弱い藍は付き合ってしまった。それに同棲をすること事態に戸惑っていた。結婚を前提で遅かれ早かれ一緒に暮らすのだからと説得されて今に至った。
このままの気持ちで藍は結婚していいものかと考えていた。5年の月日は結婚から心が遠ざかっていた。それは時期を逃した気がしている。結婚は勢いだという人もいるが、慎重になり過ぎて、いつしか心を閉ざしてしまった。そして息切れのため勢いをなくしたらしい。
翌朝、藍は旭の家に直行した。角栄社には佐藤先生の原稿が擱筆(かくひつ)になると連絡すると、すんなり直行を許してくれた。擱筆とは簡単にいえば書いてくれないということだ。人気小説家が連載されないとなると本の売れ行きに影響がある。藍は焦っていた。
2人は運命の歯車に引き寄せられていく。

