ひとひら恋菓〜転生和菓子職人、王子に口説かれる〜

 一番最初に目が覚めるのは、いつだって砂糖の匂いだ。
窓の外はまだ白んでいて、通りには誰もいない。
その真ん中で、私はひとり、背伸びをして「ヒオラ菓房」の鍵を開ける。

 ――がちゃん、と金属の音がして、静かな朝がほどけていく。

 扉を押すと、昨日の夜のままの空気が迎えてくれた。
 木の床、磨ききれてないショーケース、拭いても拭いても取れないカウンターの傷。
 どれも、お父さんとお母さんと私の三人で作った、小さな世界の跡だ。
 十三歳の私は、今この店をひとりで切り盛りしている。

「おはよう、今日もよろしくね」

 誰もいない店に声をかけて、ランプに手を伸ばす。
 指先に魔力を集めて放つと、ぱち、と砂糖を焦がす前みたいな音がして、ほこりっぽい朝にほのかな甘い光が広がった。

 水瓶のふちに手をかざすと、水が糸みたいにつらなって浮かび上がる。
 それをボウルに落としながら、今日の段取りを頭で並べる。

 ――三色の小さな練り菓子。うすい桜色と、新芽みたいな緑と、白。

「まずは豆、だね」

 水に浸しておいた豆を鍋にあけ、火の加減を魔法でそっと調整する。
 くつくつとだけ煮立つ、ちょうどいい火加減。豆と水の、まだ何者でもない匂いが立ちのぼる。

 前の人生でも、朝いちばんにすることは変わらなかった。
 あのときはガス台と鍋とレシピ帳。今は魔法がある分、少しだけ楽になった。

 ……あ、そうだ。私は一応、転生者だった。
 前の世界で和菓子屋をやっていて、気づいたら別の世界の赤ちゃんになっていて。
 でも結局、砂糖と豆と粉を触っているときがいちばん落ち着く。

 違うのは、この世界には“魔法”があること。

 火を灯すのも水を汲むのも、掃除だって簡単な魔法で済んでしまう。
 お菓子づくりにも魔法を使う。砂糖の粒をふわっと軽くしたり、あんこのなめらかさだけをすくい取ったり。
 前の世界じゃ一晩かかった仕事が、ひと呪文で済むこともある。

 お菓子は私にとって人生そのものだから、二回目の人生でもお菓子屋さんをやっている。
 十三歳でも店をなんとか回しているのは、やっぱり私がお菓子を作るのが好きだからだ。

 豆がやわらかくなるころ、窓の外がすこしずつ金色に変わる。
 通りの屋根が朝日をはね返してきらきらする。エル=サナフ王国の朝は、いつも砂糖みたいにまぶしい。

 この国は「太陽の砂糖」で有名だ。
 砂精霊《レイス》が集まる白い砂漠から、光る結晶が毎日運ばれてくる。
 どこの家にも砂糖壺があって、毎日なにかしら甘いものを食べる――はず、なんだけど。

「……甘いだけじゃ、もったいないのに」

 この国のお菓子はきらきらしている。砂糖を山みたいに積んだブレッドケーキ、レイスを固めた宝石キャンディ。
 でもどれも、舌の上で同じふうに“どん”と来て、“ざらっ”と溶けていく。強くて、派手で、一瞬で消える甘さ。

 私は、違う甘さが好きだ。

 煮えた豆の火を止め、魔法陣をなぞると鍋がふわりと浮き上がり、ボウルの上にすべり込む。

「よいしょ……っと」

 鍋とボウルのあいだに透明な薄い膜をイメージして、そっと意識をすべらせる。
 ざーっと音はするのに、ボウルには“なめらかさ”だけが落ちていく。皮と筋は鍋に残る。

 こしあんのもとにレイスをほどいて振りかけると、甘さだけが粉雪みたいに降りていく。
 甘さは控えめでいい。豆そのものの味が分かるくらいで、十分だ。

「……うん。今日も、ちゃんと甘い」

 木べらを動かしながら呟くと、店の空気も少しだけほっとした気がした。

 あんを三つに分けて色と香りを変え、花びらみたいに成形してトレイに並べる。
 世界がまだ目を覚ます前に、ちいさな季節をいくつも作って並べる、この時間が好きだ。

 カウンターを拭き、ショーケースに今日の菓子を並べる。
 ガラス越しに見ると、さっきより少しだけ立派に見える。

 お父さんもお母さんも、もういない。
 でもヒオラ菓房の看板の下で泣きながら言った言葉だけは、はっきり覚えている。

『大丈夫。私がやるから。ここ、閉めないから』

 だから今日も、扉に“営業中”の札をかける。誰かひとりでも来てくれたら、それでいい。

「よし、今日もがんばろ」

 そう呟いたとき、遠くの空に珍しく雲がひとつ流れてきた。
 太陽の国にはめずらしい、雨の気配。――そんな、特別じゃない朝だった。



 昼前には、空は砂糖みたいな白から灰色に変わっていた。
 ぽつ、ぽつ、と窓ガラスを叩く音がして、やがて本格的な雨になる。

「うわ、降ってきちゃった」

 通りの人たちがひさしに駆け込み、客足はぴたりと途絶える。
 ショーケースの中の三色の菓子を見て、小さくため息をついた。

「雨の日割引とか、やったほうがいいのかなぁ……」

 独り言を落とした、そのとき――

 “カラン”。

 扉の鈴が鳴った。

「いらっしゃいま――」

 言いかけて、言葉が止まる。

 黒い外套のフードを深くかぶった青年が、そこに立っていた。
 裾からのぞくブーツはびしょ濡れで、石畳の雨をそのまま連れてきている。

「……悪い。雨宿りさせろ」

 低い声が、店の空気を震わせた。

「ど、どうぞ! ここ、あったかいので……タオル持ってきますね!」

 慌ててカウンターから飛び出した瞬間――足がつるりと滑った。

「わっ!」

 視界が傾く。カウンターの角が迫る。ぶつかる、と思ったとき――ぐい、と腕をつかまれた。

 強くじゃない、でも確実な力。

「……危ねえな」

 頭のすぐ近くで、落ち着いた声がする。

 見上げると、思ったよりずっと近くに青年の顔があった。
 濡れた髪が頬にはりついて、瞳は薄い灰色。雨の気配を閉じ込めたみたいな、冷たいのにやさしい色だ。

「いつまでそうしてるつもりだ」

「あっ、ご、ごめんなさい!」

 慌てて体を起こすと、彼は最後まで支えた手を離さず、そっと元の位置まで戻してくれた。

「走るなら足元見ろ」

 淡々とした言い方なのに、どこか気遣われている気がして、胸の奥がじんとする。

「あ、あの、よかったら何か甘いものでも。雨の日サービスで、飲み物はちょっとお安くします」

 すすめないわけにはいかない。お店なんだから。

 青年は店内をぐるりと見回し、カウンター席に腰をおろした。
 雨の匂いに、いい布と香油の匂いが混ざる。いつものお客さんとは、少し違う世界の人。

「甘いもんなんて」

 彼はぽつりと言った。

「どれも同じだろ。一番マシなのを出してくれ」

 胸のどこかを、ちくっと刺された気がした。
 甘いものは、どれも同じ。そんなわけ、ない。

「いっちばんマシなの、ですね」

 私はにっこり笑って、銀のトレーを手に取る。

「じゃあ今日のおすすめを。雨の日だから、ちょっとだけ特別です」

 三色の練り菓子を一つずつ並べる。桜色と、緑と、白。
 青年の前にそっと置くと、彼は砂糖ではなく、まず匂いを確かめるみたいに目を細めた。

「……砂糖の匂いが、きつくないな」

「はい。豆の甘さがちゃんと分かるようにしてます。口の中で、ちゃんと“ほどける”甘さです」

 青年は小さく息を吐き、桜色を指でつまんで口に運ぶ。
 噛む音はしない。舌の上で押しつぶすように、ゆっくり味わっている。

「どう、ですか?」

 気づけばカウンターに身を乗り出していて、彼の瞳がむっと細くなる。

「……近い」

「あっ、ご、ごめんなさい!」

 あわてて下がって、かかとを引っかけてまたよろける。

「言わんこっちゃない」

 ぶっきらぼうに言いながらも、青年は残りの二つも順番に口に運んでいく。
 ひとつ食べるたびに、瞳の奥の色がほんのわずか揺れた。

「……変な食感だな」

「変、ですか?」

「悪い意味じゃない。ねっとりしてるのに舌触りはなめらかで、甘さがあとから来る。……めんどくさい甘さだ」

「めんどくさい、ですか」

 思わず笑ってしまう。褒められているのか、けなされているのか、よく分からない。
 でも、その声はもう退屈そうじゃなかった。

「太陽の砂糖を、こんな使い方するやつ、初めて見た」

 ぽつりとこぼしてから、ふと私を見る。

「……もう一つ、食べてもいいか」
「も、もちろんです!」

 二皿目も、彼は一口も残さず平らげた。
 カップの底まで飲み干してから、ふ、と息を吐く。

「……甘いのに、うるさくないな」

 指先でカップのふちをなぞぶ仕草だけ、少し年下みたいに見えて、なんだかおかしい。

「ありがとうございます」

 立ち上がるとき、外套の裾がひらりと揺れ、中の布地が一瞬光った。
 旅人じゃない。いい仕立ての上着だ。

 彼は銀貨を数枚カウンターに置き、「おつりはいらない」と短く言う。

「……あの。お口に、合いましたか?」

 思わず呼び止めると、青年はショーケースを一度見てから、ゆっくり言った。

「……そうだな。“ちゃんと甘い”とは思った」

 それだけ言って扉へ向かう。まだ雨はしとしと降っている。
 フードをかぶり直し、扉を押す。カラン、と鈴が鳴った。

 その音に紛れて、カウンターの上で、かさりと紙の音がする。
 銀貨の横に、さっきの包み紙があった。ぴしっと四角く折られた、小さな印みたいな紙。

「……几帳面」

 思わずつぶやく。黒い外套の背中は、もう雨の向こうに溶けていった。

「変な人」

 でも、その“変な人”が去ったあとも、
 店の中にはさっきより少しだけ、あたたかいものが残っていた。



 それから数日。空はからりと晴れ、私はまたいつもの朝をくり返した。
 砂糖の匂いで目を覚まし、豆を煮て、あんを練って、菓子を並べる。
 近所のおじさん、常連の子どもたち、甘さに文句を言うおばさん。
 それが、私の日常。
 あの黒い外套の人は、もう来ないかもしれない――
 そう思いかけた昼下がり。
 “カラン”。
 客足が一度落ち着いた時間に、鈴がまた鳴いた。

「いらっしゃいま――」

 言葉がそのまま口の中で止まる。
 黒い外套。灰色の目。
 濡れてはいないけれど、やっぱりどこか雨の匂いを連れている青年。

「今日は雨振ってませんよ」

 彼は、少しだけ肩をすくめた。
「ここの菓子を、もう一回食べにきただけだ」

 ――そんな、何でもないみたいな言い方で。
 そのくせ、胸の奥がふっとあたたかくなるのを止められない。

「じゃあ、今日は昨日と違うのを作ったんですけど、どうですか?」

「じゃあそれを出してくれ」

 素っ気ない返事のくせに、ちゃんと昨日とは別の甘さを求めてくれている。
 それがほんの少し、嬉しい。

「どうぞ。“かくれんぼ羊羹”です」

「……名前のセンスは置いとくとして。何が隠れてるんだ」

 ツッコミの言葉がくると同時に、口元が勝手に緩んでしまう。
 昨日より半歩、彼との距離が縮まった気がした。

「外から見ると全部同じに見えるんですけど、中身が三種類なんです。あんこだけのと、果物が入ってるのと、太陽砂糖の結晶が入ってるのと」
「……噛んだ瞬間に、歯が折れたりはしないか」
「しません!」
「ならいい」
 
彼はひとつつまんで口に入れ、わずかに目を見開く。

「……これは」
「果物のほう、ですね」
「甘さが……変だ」
「変、ですか?」
「悪い意味じゃない。……さっきまでの甘さと違う甘さが、途中から出てくる」

 あ、それ。
 思わず笑みがこぼれた。

「それ、やりたかったんです。

 最初の甘さと、あとからの甘さが違うやつ」

「めんどくさいな、お前の甘さは」
「褒め言葉として受け取っておきます」

 彼は口元をほんの少しゆるめ、「勝手にしろ」と言って、もうひとつ手を伸ばした。



 そんなふうにして、彼は何度も店に来るようになった。
 最初は二、三日に一度、気づけばほとんど毎日。

「今日はどうだ」
「今日は、“ひなたぼっこ団子”です」
「名前のセンスは相変わらずだな」
「いいじゃないですか。太陽の国っぽくて」

 彼は文句を言っても、必ず完食する。
 「悪くない」「前よりマシ」「これくらいなら許せる」なんて素直じゃない言葉ばかりだけど、
 皿の上に一粒も残さない指先がいちばん正直だ。
 ある日、自信作のトレーを彼の前に差し出したときも、私はつい前のめりになってしまった。

「今日は、特に自信作で――」
「近い」

 静かな声。
 気づいたときには、彼の手が椅子ごと私をすっと押し戻していた。
 ぐい、じゃなく、本当に軽い力で、するりと元の位置に戻される。

「……触れたら、手が砂糖まみれになるだろ」
「え?」
「お前、いつも砂糖だの粉だの豆だの触ってるからな」
「あ、ああ……」

 そんなところまで見られていたのかと思うと、胸の奥がむずがゆい。

「だからって、そんなに嫌そうに言わなくても」
「嫌とは言ってない……ただ、気になるだけだ」
「気になる?」
「こっちの話だ」

 そっぽを向いた耳の先が、すこし赤く見えたのは――
 きっと、気のせいだと思う。



 彼が店にいるあいだ、
 通りの外がときどきざわつくことに気づいたのは、
 三度目くらいの来店の頃だった。

 外から、鎧の当たる小さな音がする。
 窓の外を、きちっと揃った足並みで通り過ぎる影。

 ちらりと覗くと、店の少し離れたところで、二人の兵士が突っ立っているのが見えた。
 槍を持って、まっすぐ前を向いたまま。
 でもときどき、ヒオラ菓房のほうをちらりと見る。

 ……なんだろう。
 他のお店には、あんなのいないのに。

「あの」

 思い切って、カウンター越しに聞いてみる。

「いつも、あの人たちと一緒に来てるんですか?」

 彼はカップから目を上げずに、「どの人たちだ」と聞き返した。

「ほら、外で固まってる、槍持ってる……」

 最後まで言い終わる前に、彼の視線が、すっと鋭くなった。

「見なくていい」
「え?」
「見なくていい。 お前が気にすることじゃない」

 そんなふうに言われてしまっては、これ以上追及できない。

「……はい」

 なんで隠すんだろう。本当に偉い人なのかもしれない。
どうしてうちのお店に来るんだろう。
 外の兵士たちは、彼がお店を出るとき、一瞬だけ姿勢を正して敬礼した。
 それを見て、「ああ、この人はやっぱり、ただの“変な人”じゃないんだ」思ったけど、 それよりも、今の私は、彼の「ちゃんと甘い」と言ってくれた舌を、次はどんな甘さで驚かせようかと、
考えることにした。



それから、さらに何日かが過ぎた。

 私の一日は、少しだけ形を変えた。
 朝、砂糖の匂いで目を覚まして、豆を煮て、あんを練る。
 そこまでは同じ。

 違うのは、そのあとだ。

「今日は……どういう甘さにしようかな」

 木べらを動かしながら、つい声に出る。
 前は「今日、何が売れるかな」だったのに、
 最近は「今日、あの人、どんな顔するかな」になっている。

 あの人――黒い外套で、灰色の目で、甘いものなんて全部同じだろって言いながら、 めんどくさいって文句を言いつつ、ちゃんと皿を空にする人。

 名前も、まだ知らない。

「名前くらい、聞いてもいいよね……?」

 自分に言い訳しながら、
 私は“今日の甘さ”を少しだけやわらかくした。
 舌の上でゆっくりほどけて、あと味が静かに残る甘さ。
 待っている側の甘さ。



 でも、その日。
 待っている甘さに、肝心の相手は来なかった。

 昼前の鈴は、他のお客さんのためだけに鳴って、
 私が顔を上げるたびに、違う誰かが立っていた。

「……別に、いいんだけど」

 声に出しておくと、少しだけ本当にそう思える気がした。

 次の日も、来なかった。
 その次の日も。

 三日目の朝、私は観念して、いつも通りの甘さに鍋を戻した。

「……うん。今日は“みんな”の甘さにしよ」

 そう決めて開店した、その日の昼下がり。

 “カラン”。

 鈴が鳴った。

「いらっしゃいま――」

 顔を上げる。
 胸の奥で、「やっぱりね」と「まさか」がぶつかる。

 黒い外套。
 灰色の目。
 三日ぶりの人。

「……」

 目が合ったまま、数秒。
 私の口の中で、「お帰りなさいませ」がごちゃごちゃに絡まってほどけない。

「……なんだ、その顔」

 先に口を開いたのは、彼のほうだった。

「焦げたあんでも舐めたみたいな顔してるぞ」
「だって、3日も来てくれなかったから……」

 反射的に言い返したら、彼の口元が、かすかにゆるんだ。

「俺がこなくて、寂しかったのか?」

 私はその言葉に顔が真っ赤になり、 慌ててショーケースの方を向いた。

「きょ、今日は新作があるんです!」
「ほう」
「“おつかれさま羊羹”です」
「名前のセンスは相変わらずだな」

 でも、ちゃんと席に座ってくれる。

 私は、もう用意しておいた小さな羊羹を切って出した。
 普通のあんに、ほんの少しだけ塩を忍ばせたやつ。
 最初は甘くて、あとから、ほっとする味がする。

「お待たせしました。おつかれさま羊羹です」

 彼はひと切れ口に入れて、
 しばらく何も言わずに噛んだ。

 眉が、すこしだけほどける。
 喉が、こくりと鳴る。

「……なんだこれは」
「おつかれさま――」
「名前じゃない」

 カップのふちを指でなぞりながら、彼は続けた。

「最初に甘くて、あとから塩が戻って、
 ……それで、甘さだけ残る」
「疲れたときって、強すぎる甘さって、逆にしんどいじゃないですか。だから、“休む甘さ”にしてみました」
「……休む甘さ、ね」

 灰色の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「めんどくさい甘さだ」
「またそれですか」
「褒めてる」

 今度は、ちゃんとそう言ってくれた。

 胸の奥で、なにかがふわっと膨らむ。
 砂糖に空気を含ませていくときみたいに、静かに、でも確かに。

「じゃあ、また疲れたら来てください。“おつかれさまメニュー”、増やしときます」
「勝手に増やすな」

 口ではそう言いながら、彼は皿の上の羊羹を、きれいに平らげた。



 そんな日が、続いた。
 彼は来るたびに違う甘さを食べて、来るたびに、違う言い方で感想をくれた。

「これは子ども向けだ」
「これは年寄りに出せ」
「これは、泣いてるやつに食わせろ」

 聞いたことのない分類ばかりで、私はその全部を、小さなノートに書きとめた。

 名前のない甘さに、ひとつずつ、誰かの顔と気持ちが結びついていく。

 でも、ひとつだけ、空欄のままの項目がある。
――名前、知りたい。

「……あの」

 閉店前の静かな時間、私はカウンター越しに、思いきって口を開いた。

「よかったら、名前教えてもらってもいいですか?」

 カップのふちをなぞっていた彼の指が止まる。

「いつも来てくださってるから……心の中で“黒外套さん”って呼ぶの、そろそろ限界で」
「心の中で呼ぶな」
「えー……」

 冗談めかして笑うと、彼は視線を木目に落としたまま、しばらく黙りこんだ。

 ちょっと聞きすぎたかも、と息を詰めた頃。

「……レオルだ」
「レ、オル……さん?」

 思わず“さん”がつく。

「苗字は長い。覚えなくていい」
「じゃあ、レオルさん、ですね」

 私はエプロンの端をぎゅっとつまんで、ぺこりと頭を下げた。

「私、ユラ・ヒオラっていいます。
 ヒオラ菓房の――いちおう、店主です」
「……ユラ」

 彼はその名をなぞるように口にして、目を細める。

「変な名だな。菓子屋には、似合ってる」
「褒めてます?」
「褒めてる」

 ぶっきらぼうな声のわりに、耳たぶが少し赤い気がした。

「レオルさん専用ノート、作らなきゃ」
「やめろ、二度と来ないぞ」
「それは困ります!」

 慌てて両手を振ると、彼は、はじめて声を立てて笑った。



 名前を知ってから、もうひとつ、気になることが増えた。

 店の外で、彼をじっと見る兵士。
 通りすがりの人が、彼にだけ少し深く頭を下げる。
 外套の下からちらりと見える、高そうな布。

 そして、ある朝。

「ねえユラちゃん、聞いた?」

 パン屋のおばさんが、パン籠を抱えたまま乗り込んでくる。

「王城でね、今年、甘味魔法師の選び直しするんだって。
 五年に一度の“甘味選定会”。国一番の甘味決めるんだとさ」
「甘味……選定会?」
「そう。王妃様に甘いもん出して、選んでもらうやつ。
 うちなんかには関係ない世界だけどねぇ」

 そう言って笑うおばさんを見送りながら、
 私の胸の奥で、なにかが引っかかった。

 ――王妃様に、甘いもの。



 その日の昼、いつもの時間に鈴が鳴く。

「いらっしゃいませ――」
「――今日の甘さはなんだ」

 レオル。いつもの席。でも、どこか落ち着きがない。

「今日は、“ひと休み練り切り”です。甘さ控えめで、あと味だけ長く残るやつです」
「また、めんどくさそうだな」

 そう言いながら、ちゃんと一つ目を口に運ぶ。
 私は、いつもより少し真剣に、横顔を見守った。

「……なあ、ユラ」

 二つ目を食べ終えたところで、“さん”なしで名前を呼ばれる。

 心臓が一拍、変な跳ね方をした。

「はい?」
「一つ、頼みがある」

 声の調子がいつもと違って、私は無意識に姿勢をただした。

「お前の菓子を、“試験”に出す」
「試験……?」
「王城の“甘味魔法師選定会”。五年に一度の、面倒な儀式だ」

 さっき聞いた言葉が、頭の中でぴたりと重なる。

「な、なんで、私の……?」
「俺が決めた」

 即答だった。

「ちょ、ちょっと待ってください。そういうのって、すごい人たちが出るやつですよね? うちは町の小さな菓房で――」
「知ってる」

 言い訳を重ねるほど、灰色の目がまっすぐ刺さってくる。

「それでも、お前の甘さが必要なんだ」
「……どうして、ですか」

 彼は一度視線を落としてから、静かに言った。

「今の王宮の甘味は、強さばかりだ。砂精霊をこれでもかと叩きつける、舌を麻痺させる甘さ」
「……」
「甘さで殴りつけるみたいな菓子に、王妃様には、もううんざりしてる」

 王妃様。
 自然に出てきたその呼び方に、胸のざわつきが強くなる。

「お前の甘さは、静かに届く。時間をかけて、あとから残る。
 ……そういう甘さを、あそこに一度ぶつけたい」

 “ぶつける”なんて言い方のくせに、声は穏やかだった。

「だから、試験を受けろ。王妃様に出す前の“見本”として、お前の菓子を選定会に出す」
「ま、待ってください。王妃様って、あの王妃様ですよね?
 国で一番偉い――」
「そうだな」
「そうだな、じゃないです、なんですかそれ!」

 頭がぐるぐるする。

「……あの、レオルさんは、どういう立場でそんなことを……」

 言いかけて、やっと自分の疑問に追いつく。
 兵士の敬礼。布の質。人々の視線――。

 レオルは、少しだけ目を細めた。

「言ってなかったな」

 カップを指でくるりと回し、こちらを見る。

「俺は、レオル=エル=サナフ。この国の第三王子だ」
「…………は?」

 どこかで砂糖壺がひっくり返った音がした気がした。

「さっき言った王妃様は第一王妃だ。俺の母――第二王妃は、もういない」

 さらっと言われても、頭が追いつかない。

「お、おうじ……さま……?」
「“様”はいらない」

 第三王子は、少し眉をひそめた。

「ここでは今まで通りでいい。……いや、ひとつだけ変えろ」
「ひとつ?」
「レオル“さん”もやめろ」
「え」
「呼び捨てでいい。城の連中以外に“様”も“殿下”もつけられると、菓子の味が変わる」
「そんなことで変わります?」
「変わる」

 変なところだけ、ほんとに頑固だ。

「……じゃあ、その……レオル」

 言ってみると、さっきより距離が近づいた気がした。
 レオルは視線をわずかにそらして、カウンターの木目を見る。

「試験は、受けたくなかったらそれでもいい――でも」

 灰色の目が、また私をとらえた。

「お前の甘さで、世界が変わるところを見たい……俺が、見てみたい。それに賞金も出る」

 その言葉に、胸の奥がじん、と揺れた。

 ヒオラ菓房は正直、ぎりぎりだ。
 太陽の砂糖をじゃんじゃん使った“強い甘さ”が主流の国で、
 私の作る“ゆっくり広がる甘さ”は派手じゃない。
 毎日欠かさず来てくれる常連さんはいるけれど、
 仕入れの砂糖は高いし、道具は古くなってきている。
 次の月もやっていけるかどうか、いつも不安だった。

 ――賞金があれば、店を立て直せる。
 ――でも、それ以上に。

 レオルが“必要だ”と言ってくれた。
 私の甘さに価値があると、まっすぐな目で言ってくれた。

 太陽の砂糖の国の片隅で、ちいさな菓房の甘さが王城の扉を叩こうとしている。
 それがどれほどおそろしいことか、たぶんまだ半分も分かっていない。

 それでも。

「……やります!」

 気づいたら、口が勝手にそう言っていた。

「お父さんとお母さんが残したヒオラ菓房の名前に恥をかかせない甘さ、ちゃんと持っていきます」

 そう言ったとき、レオル――第三王子は、はじめて“お客さんじゃない顔”で笑った気がした。



 その夜、私はほとんど眠れなかった。

 寝台に転がって天井を見上げる。
 胸の奥で、前の人生と今の人生が、変なふうに重なる。

 和菓子職人だった頃の私。
 店を継ぐ前に死んでしまった、あの世界の両親。
 この世界で、事故でいなくなったお父さんとお母さん。

「二回目の人生で、甘さで世界をちょっとでも変えられるなら……」

 怖さもある。けれど、それ以上に――見てみたい気持ちが、静かに勝っていた。



 試験の二日前、店を早めに閉めて、丘の上に登った。

 街を見下ろす小さな墓地の端っこ。
 「ヒオラ」と彫られた墓石が、夕焼けに赤く染まっている。

「お父さん、お母さん」

 しゃがんで、小さな包みをそっと置く。

 中身は今日いちばんうまくできた試作品。
 薄い花びらみたいな練り切りに、やわらかいこしあんを包んだ――私が「ひとひら花練り」と呼んでいる子だ。

「今度ね、これを王城に持っていくことにしたの」

 声にすると、夢みたいだった話が、少しだけ現実に寄る。

「王妃様に食べてもらえるかもしれないんだって……正直、すごく怖い……」

 「それでも、」と口元がゆるむ。
「“ヒオラ菓房の甘さです”って胸張って言えるの、これしかないから」

 ひとつだけ自分で食べ、残りはふたりの前に。

 やさしい甘さが舌に乗って溶けていく。
 前の世界で何度も確かめた味と、この世界の材料と魔法。
 その両方が、ひと口の中で混ざり合う。

「二回目の人生、ちゃんとおいしく生きるから。だから――ちょっとだけ、見ててね」

 手を合わせて目を閉じると、丘の風が砂糖を溶かすみたいに、
 胸のこわさを少しだけさらっていった。



 残りの日は、一瞬で過ぎた。

 店を開けて、いつも通りお客さんに菓子を出し、閉店後に、一人で最終調整をくり返す。

 最後に残したのは、「ひとひら花練り」ひとつ。

 最初にきちんと甘くて、
 あとから、花の香りだけが息に残る甘さ。

「……これで行こう」

 自分の舌と、前世の記憶と、この世界で覚えた感覚。
 全部まとめて賭けるなら、このひと口しかない。



 試験の前日、レオルが店に現れた。

「決まったか」
「はい。“ひとひら花練り”です」

 小さな皿を差し出すと、レオルは無言でつまみ、噛まずにゆっくり味わってのみ込む。

「……最初に、きちんと甘い」

 ぽつりと落ちた言葉に、息を詰める。

「甘さが引いたあと、香りだけ残る。
 舌じゃなくて、息に残る甘さだ。……めんどくさい」
「またそれですか」
「褒めてる」

 短く言って、灰色の目が少しだけやわらぐ。

「いい。これを出せ」
「……はい」

 その“はい”で、本当に後戻りできなくなった気がした。



 帰りぎわ、レオルがふと振り返る。

「試験の朝、城門まで迎えにいく……変な格好で来るなよ」
「変なって……」

 くすぐったさと心配されているような感覚が、胸の鍋で甘さと不安と一緒にくつくつ煮える。



 試験当日の朝。

 陽が高くなる前から、街中に甘い匂いが漂っていた。
 焼けた砂糖、焦げた砂糖、揚げ油。
 いろんな店の“勝負の甘さ”が風に混ざって流れてくる。

「ユラちゃん、ほら、裾もうちょい持ち上げて」
 
 背中で声がした。
 振り返ると、パン屋のおばさんが腕を組んでこちらを見ている。

「そんな顔してたら、甘さも逃げちゃうよ。もっとしゃんとしな」

 そう言うと、おばさんは私のワンピースの肩を軽く払ってくれた。

 今日は、いつもの粉まみれエプロンはお休み。
 代わりに着ているのは、
 淡い桜砂糖みたいな色のワンピース。
 胸元に小さな飾りリボンがひとつ、
 裾は動くたびにふわっと揺れる軽い布でできている。
 鏡で見たとき、自分でも「こんなの着ていいの?」と思ったくらい。

「……似合ってるよ、ユラちゃん」

 おばさんがふっと優しい顔になる。

「王妃様に会うんだろ? そりゃ緊張して当然さ。
 でもね、あんたの甘さは、胸張って出せる甘さだよ。
 何度も食べてる私が言うんだ。間違いない」

「おばさん……」

「しっかりおし。
 あんたの甘さが、今日、どこまで届くのか見せてやりな」

 こみ上げるものをごまかすように、私は深呼吸した。

「……はい。行ってきます」

 おばさんに背を押されるように、
 私は借り物のワンピースの裾をぎゅっと握りしめ、
 王城の門の前に立った。

 太陽の砂糖の国で、
 今日だけは――ほんの少しだけ、私も晴れやかでいたかった。

「……緊張しすぎて、甘さ分かんなくなりそう」

 苦笑したとき、背中から声が降ってきた。

  王城に向かう時間が近づいたころ、
 ヒオラ菓房の前に――見慣れない影が止まった。

 馬車だった。
 深い群青色の外套をまとった御者が手綱を引き、
 扉の紋章には、太陽を象った王家の印。

「え、え、え……?」

 私が固まっていると、馬車の扉が内側から開く。

「遅い」

 低い声とともに姿を見せたのは、
 黒い外套じゃないレオルだった。

 深い青の礼服。
 胸元に輝く太陽の紋章。
 髪を軽く整えたその姿は、どう見ても“常連さん”ではない。

「……似合ってる」

 思わず漏れた私の声に、レオルはほんの少しだけ目をそらす。

「お前もな。いつもの粉まみれよりは、だいぶマシだ」

「ひどっ」

「事実だろ」

 口ではそう言うくせに、
 その視線は一瞬だけ、ふっと柔らかくなっていた。

「乗れ。試験で遅れたら困る」

「馬車……出してくれたの?」

「俺が迎えに来なきゃ、緊張してどっかに逃げると思っただけだ」

「逃げません!」

「じゃあ乗れ。……震えてるぞ」

「ふ、震えてません!」

 レオルが私の手首をそっと取って、馬車へと導いた瞬間。
 心臓の音が、ぐっと跳ねた。

 馬車の中は、砂糖の国らしく甘い香りがほのかに漂っていた。

「……大丈夫だ」

 レオルが隣で、ほとんど聞こえない声で言う。

「お前の甘さなら、誰に出しても恥じゃない。
 ――王妃にも、世界にも」

 顔を見られたくなくて、私は窓のほうに視線を逃がす。

 馬車が動き出すと同時に、通りの視線が集まった。
 兵士たちはきっちり敬礼し、ほかの参加者らしい人たちが小声で「殿下だ」とささやく。

 王城が近づくにつれて、胸の中がざわざわとうるさくなる。
 そんなとき。

「ユラ」
「……なに?」
「そんなに固くなるな」

 ぽつりと落ちた声音が、妙に胸の奥まで響いた。
 レオルは息を整えるように小さく間を置き、
 普段よりずっと柔らかい声で続けた。

「俺がついてる。失敗したら、俺が全部引き受ける」

 その一言で、背筋の強張りがふっとほどける。
 ほっとした瞬間に、頬が熱を帯びたのを自分でも分かった。

 馬車が王城の前で止まり、ゆっくりと巨大な門が揺れながら開いていく。 馬車が王城の前で止まる。
 巨大な門が、ゆっくりと開いていく。

「行くぞ、ユラ」
「……うん」

 太陽の砂糖の国の中心へ、ヒオラ菓房のちいさな甘さが、一歩踏み出した。

 それがどれだけ人生を変えるのか。
 この時の私は――まだ、何も知らなかった。



 王城の門が、ぎぎ、と音を立てて開いた。

「ここから先は、俺は入れない」

 馬車を降りたところで、レオルが立ち止まる。
 衣装の襟を軽く直しながら、少しだけ視線をそらした。

「……え、来ないんですか?」

「城の甘味選定は“本人だけ”って決まりだ。
 俺がついてったら、お前の点が変な意味で伸びるだろ」

「そんな……急に一人なんて……」

 声が小さくなる。
 城の白い壁はあまりにも高く、門の影はやけに冷たい。

 レオルは一度だけ短く息を吐き、それから私の肩に手を置いた。

「落ち着けーーさっきも言っただろ。お前の甘さは、誰に出しても恥じゃないって」

 胸が、少しだけ熱くなる。

「お前なら大丈夫だ、ユラ」

 顔を上げた私を、レオルの灰色の目がまっすぐ受け止める。

「緊張したら、いつもの台所を思い出せ。あそこで砂糖を測って、豆を練ってたお前なら――負けねぇよ」

「……レオル」
「ほら、行け」

 軽く背中を押される。
 私は喉の奥で息を吸い、ぐっと握りしめた拳をゆるめる。

「……行ってきます」
「行ってこい。――ちゃんと甘いの、ぶつけてこい」

 レオルの声を背に受けながら、私は一人で門をくぐった。


 
 城の中は、外よりも白くて静かだった。
 高い天井、磨かれた床。
 足音が大きく響き、私はワンピースの裾をそっとつまむ。

(大丈夫……大丈夫。私なら、できる)

 レオルが言ってくれた言葉を胸の奥で繰り返しながら、
 私は王城の奥へと歩き出した。



 予選会場は、王城の大広間だった。

 まっすぐ伸びる通路の先に調理台が並び、ユラはそのいちばん端――壁際の、もっとも目立たない席に通された。

 調理台の奥には料理長、侍女長が並ぶ審査席。その後方には段状の観客席が広がり、城の料理人や侍女たちがざわめいていた。

 高い天井から光が降り、各台には同じ分量の材料が整然と置かれている。

 参加者の多くはギルドや貴族の華やかな服。町の仕立て屋のワンピース姿で立つユラは、ひときわ小さく見えた。

 観客席から、小さな声が落ちてくる。

「城下の店だって?」「場違いでは?」

 胸がきゅっと縮まる。
それでも両手を握り、ゆっくり息を吸った。

(大丈夫。私は――私の甘さを作ればいい)

 ワンピースの上に、持参した白いエプロンを静かに結ぶ。
 城下の店でいつも使っているもの。
 ひもをぎゅっと締めると、背筋がすっと伸びた。

(うん。これで、いつもの私になれる)

 調理台に向き直ったとき、試験官の声が響く。

「調味料は全員同じ。制限時間は一刻」 

司会役の声が響く。

「ここで作った甘味を料理長と侍女長が審査し、今夜の舞踏会で王妃様に献上する三品を決める」

 喉がきゅっと鳴った。

「おや?」

 向かいの台の中年男が、ねっとりした声で笑う。

「見学かと思ったら、出場者か。城の甘味は力勝負だぞ、お嬢ちゃん」
「が……頑張ります 」
「ひと口で舌を黙らせる甘さ。それが王家の菓子だ。おままごとしに来たなら、帰りな。ここはお遊びじゃないんだ」

 胸がきゅっと縮む。

(やっぱり、場違い……)

 緊張で頭が真っ白になっていく、お父さん、お母さん……やっぱり私だめかも……。
 その時、遠くの客席にいるレオルが大きな声で
「ユラーーお前がいちばんおいしいと思う甘さだけ信じろ!」

 私はその言葉で大きく頷いて、作業に取り掛かった。
 まず、小さな箱に触れる。
 中には下ごしらえ済みのあんと、花びらの型紙。

 ここまで連れてきてくれた手の感覚だけは、信じられる。



「始め!」

 号令と同時に、砂精霊が一斉に呼び出される。

 白い砂糖が雨みたいに降り、炎が高く立ちのぼる。
 派手な光の中で、私の魔法陣だけがやけに小さく見えた。

 湯の温度を合わせ、あんに砂糖をひとつまみ。
 豆の色と香りを見ながら、魔力でそっと練る。

 “甘さで殴る”んじゃなくて、
 中身そのものをちゃんと甘くしてあげる感覚。

 生地をまとめて、花びらの形にちぎる。
 指先の感覚を魔力で少しだけ研ぎ澄まし、
 ひとひらずつ、息を詰めるように包んでいく。

 周りの光と音は、いつの間にか遠のいていた。

「……よし」

 台の上に並んだのは、小さな花の練り切りが一皿。
 数も見た目も、他の誰より地味だ。

 でも、これ以上さわれば壊れる。

「そこまで!」

 号令と同時に、私は手を止めた。



 審査は淡々と進んだ。

 飴の塔、蜜だらけのパイ、砂糖の層だらけのケーキ。
 料理長と侍女長はひと口ずつ味見し、「甘いが重い」「喉が渇く」と小さく言葉を交わす。

 やがて、私の番。

 侍女長が花練りをひとつ、料理長も続けてひとつ。
 静かに噛み、のみ込む。

「……いかがでしょうか」

 自分の声が少し震えた。

 料理長が、ふう、と息を吐く。

「喉が、楽だな」
「はい?」
「甘いのに、喉が渇かない。あとに香りだけ残る」

 侍女長が目を細める。

「忙しい王妃様には、こういう“ひと休み”の甘さが必要かもしれませんね」
「丁寧だ。数は少ないが――候補に残そう」

 その一言で、膝から力が抜けそうになった。



 結果発表。

「今夜の舞踏会で王妃様に甘味を献上する者――王城付き菓子魔法師グラト。北方シュガーギルド代表のシュナイゼル。城下ヒオラ菓房のユラ」

 自分の名前が呼ばれた瞬間、世界が一瞬白くなる。

 反射的にレオルを見ると、腕を組んだまま、口元だけがわずかに上がっていた。

 ――当たり前だ。

 声には出していないのに、そう聞こえた気がした。



 舞踏会の前、控え室に運ばれた布を見て、私は固まった。

「これ……ドレス?」

「殿下のご指示です。“砂糖をかけすぎるな”と仰せでした」

 淡いクリーム色の、菓子みたいな色のドレス。
 豪華すぎないぶん、かえって緊張する。髪もまとめてもらい、鏡を見ると、知らない女の子が立っていた。

「準備できたか?」

扉のほうから声。振り向くと、礼服姿のレオルが立っていた。

レオルは耳を真っ赤にしながら「……まぁ、似合ってる」
 目線を下に下げた。

「あ、ありがとうございます」

 私も自然と顔が赤くなった。心臓がひとつ、小さく跳ねた。



 夜の大広間は、光と音であふれていた。
 私は隅の小さなテーブルの前に立つ。私の作った「ひとひら花練り」が並んでいる。

「緊張してるか」
「してないって言ったら嘘です」
「なら、それでいい」

 レオルが低く言う。

「この場の全員に気に入られようとするな。一人でいい。誰か一人の舌と記憶に残れば、それで十分だ」
「……誰か一人」

 何か言いかけて、彼は視線をそらした。

 楽団の音が止み、声が響く。

「王妃様、ご入場!」

 扉が開き第一王妃が階段から降りてくる。
 その瞬間一斉に私含めその場にいた人は扉を方を見た。
 王妃様がテーブルの前に座ったと同時に、作った甘味が運ばれてくる。

「今宵の甘味は、選ばれた三品です」

 甘味は王妃様が座っているテーブルの上に並べられた。

 司会役が、グラトの飴塔、北方の蜜ケーキ、城下ヒオラ菓房の花練りを紹介する。
 「城下?」「ヒオラ菓房?」ざわめきが走る。

 王妃は静かに手を上げた。

「それぞれを皆にも配ってください。私だけの舌にしておくのは惜しいでしょう」

 皿が配られ、私のひとかけらも人々の手に渡っていく。
 王妃は自分の前から花練りをひとつつまみ、口に運んだ。

 噛んで、飲み込んで――目を少しだけ見開く。

「……ああ。やはり“喉が渇かない甘さ”ですね」

 あちこちから小さな声が漏れる。

「軽いのにちゃんと甘い」「花の匂いがする」

 重かった空気が、すこしやわらぐのが分かった。

「ユラ・ヒオラ」

 名を呼ばれ、私は前へ出る。

「はい」
「あなたの甘さは、今日の私の舌に、休む場所を作ってくれました。――ありがとうーーこのような味は食べたことがありません」

 たったそれだけで、胸の奥が熱くなる。
 横目で見ると、レオルが目を細めていた。誇らしそうで、少しだけ切なそうな顔。
王妃様はしばらく黙ってから、私を見る。

「もし貴女が良ければ、今ある店を畳み、王家専属菓子魔法師として仕えませんか? 今よりも質のいい環境を揃えることを約束しましょう」

 “畳む”という一言に、足元が冷たくなる。
 世界が、少し傾いた気がした。

「城と店、両方を持つことは許されません。ここでは、そういう決まりなのです」

 カウンター。朝の匂い。墓前で誓った言葉。
 全部が一度に押し寄せて、喉が詰まる。

 レオルが一歩前へ出た。

「陛下」
「レオル?」
「答えを今すぐ出させる必要はないと思います。今日は、ユラの甘さがここまで届いたってことだけ、認めてやってください」

 王妃は目を細めた。

「……いいでしょう。選ぶのは、今日でなくとも構いません」

 もう一度、私を見る。

「どちらを選ぶにせよ、あなたの甘さは、今日の私の舌が覚えました」
「……ありがとうございます」

 楽団の音が戻ってきても、胸のざわめきはおさまらない。

 隣でレオルが小さく囁く。

「どっちを選んでもいい」
「簡単に言わないでください」
「簡単じゃないのは分かってる。だから――」

 彼は視線をそらしながら言った。

「どっちを選んでも、お前の甘さが好きなやつが、ここに一人いる。それだけは忘れんな」

 告白なんて言葉からは遠い、短い一言。
 でも、今の私には、それがいちばん甘かった。



 その甘さが胸に残ったまま、舞踏会は続いた。

「さっきの菓子、私は好きでしたわよ」

 人の波から少し外れたところで、若い貴族の女性が声をかけてきた。

「甘いのに、喉が疲れないっていうか……母が作ってくれたおやつを思い出しました」
「……ありがとうございます」

 胸のあたりが、少しあたたかくなる。

「でもまあ、王宮の看板には弱いだろうな」

 グラト がグラスを揺らしながら言う。

「お上品で、かわいらしくて。貴婦人方には評判がいいでしょうがね。城の甘味とは“太陽の砂糖”そのものだ。抑える意味がどこにある?」
「……抑える、意味」
「そうだ。せっかく豊かな砂糖があるのに、わざわざ薄めるとは。甘味に遠慮などいらんのですよ」

 周りの男たちがくすくす笑う。

 さっきまでの王妃の言葉が、手のひらから砂糖みたいにこぼれ落ちていく。

(太陽の砂糖を抑える意味――)

 そんなこと、うまく説明したことなんてなかった。

「……ユラ」

 人の影が揺れ、視界がふっと暗くなる。肩に重みがかかった。

 レオルのマントだった。

「ちょっ……?」
「今泣いたら、さっきの菓子が台無しだ」

 耳元で、小さく囁く。

「王妃の舌がうまいって言った。俺も食った。それで十分だろ。あとは好きに言わせとけ」

 さっきまで笑い声が刺さっていた空気が、マント一枚隔てただけで遠のいていく。

「……別に、泣いてません」
「泣きそうな顔だ」
「見ないでください」

 言い返す余裕もなくて、私はマントの端をぎゅっと握った。

 店を閉じる未来が、頭の隅でぐるぐる回る。
 城と店、そのどちらかを選ばなきゃいけないかもしれない現実が、じわじわ近づいてくる。

 その真ん中で、レオルのマントだけが、
 私の居場所を、ひとつ分だけ確保してくれていた。

 やがてレオルがマントを外す。

「外に出るか。空気が悪い」

「殿下、お戻りにならないと――」と誰かが慌てるのを、
 彼は片手でひらひらと追い払った。

「ちょっと風に当たってくる。……文句はあとで聞く」

 そう言って、半ば強引に私の腕を取った。



 バルコニーに出ると、夜風が一気に頬を撫でた。

 街の灯りが遠くでちらちらしている。扉一枚隔てただけで、舞踏会のざわめきも甘い匂いも、ぐっと遠くなった。

「……変な感じ」
「何が」
「中は甘い匂いでいっぱいだったのに、こっちは何も匂わない」
「何もないほうが、たまに欲しくなるんだよ」

 レオルは欄干にもたれて、下の景色を見下ろしている。

「……なあ、ユラ」
「はい」
「俺が“甘いもんなんてどれも同じだろ”って言ってた理由、なんだと思う?」

「え、それは……ただの偏食じゃないんですか?」
「偏食って言うと、少しマシに聞こえるな」

 レオルは苦笑した。

「俺の舌は、ちょっとおかしい。強い甘さが、苦く感じる」
「……苦く」
「砂糖の量が増えるほど、“苦い砂”を噛んでるみたいになる。
 太陽の砂糖がこの国の誇りだって分かってても、舌が勝手に嫌がる」
「それで、甘いものが嫌いに?」
「嫌いになれたら楽だったな」

 彼は空を見上げた。

「母上が生きてたころ、城の菓子が全部苦く感じるって話したら、笑われた。で、自分で作った菓子を食わせてきた」

 そこで、声が少しやわらぐ。

「砂糖は控えめで、豆とか果物の甘さをそのまま使うやり方でさ。それだけが、ちゃんと甘かった」
「……ちゃんと、甘い」
「だから甘いもの全部が嫌いだったわけじゃない。“城の甘さ”が合わなかっただけだ」

 “だけ”と言うには、あまりにも重い話だった。

「母上が倒れた日のことは、今でも妙に細かく覚えてる」

 レオルの目が少し細くなる。

「台所に甘い匂いが残っててさ。作りかけの生地と、置きっぱなしの木べらと……まだ冷めきってない鍋」

 その情景が、ここに並べられたみたいで、私は息を飲んだ。

「その日から、甘い匂いを嗅ぐと、どうしてもあの日の台所を思い出す。楽しむどころじゃなくなった」

 ――甘いもんなんて、全部同じだろ。

 あのときの言葉が、今はまるで違う重さで響く。

「向き合うのが、怖かったんだと思う」

 レオルは小さく息を吐いた。

「甘さそのものが特別すぎて。母上の味にもう二度と届かないって分かってるから。だったら“全部同じだ”って雑に扱ってたほうが、まだ楽だろ」
「……楽、ですか」
「少なくとも、“失った味”と比べなくて済む」

 夜風がふっと強く吹いた。

「じゃあ、レオル」
「ん」
「私の菓子を食べたときは、どうだったんですか」

 聞くのが怖い。でも、聞かないほうがもっと怖い。

 レオルは少し黙ってから、口の端を上げた。

「……“ちゃんと甘い”って思って、ムカついた」
「ムカついた?」
「母上の菓子みたいに喉が渇かなくてさ。舌が“これなら食ってもいい”って勝手に言った。なのに、作ってるのは別の誰かだろ」

 視線が、こちらをかすめる。

「失くしたものに似てる甘さを別のやつが出してきたら、ムカつくに決まってる」

 冗談めかした声の奥で、何かがきしむ。

「でも、同時に思った」
「……?」
「“やっと甘いって言えるもんに、また会えた”ってな」

 心臓が痛いくらい鳴る。嬉しさと一緒に、胸の奥に小さな棘が生まれる。

(私の甘さは、レオルにとって“あのとき”の代わり、なのかな)

 失われた味の穴に、たまたま似た形でおさまっているだけ。
 私自身じゃなく、「失われた味」を求めているだけじゃないか――そんな考えがじわじわ広がる。

「ユラ?」

「……もし」

 言葉が転がり出た。

「もし、私の甘さが、お母様の思い出を別の甘さで覆ってしまうことになったら……どうする?」

 誰かを救えるかもしれない甘さが、同時に“別の何か”で思い出を埋めてしまうことになるかもしれない。

 それは、勝手じゃないのか。

 レオルは少し考えてから、ゆっくり言った。

「母上の味は母上の味だ。あの台所で、あの手が作った甘さは、もう二度と出てこない」

 夜空を見上げたまま続ける。

「お前の甘さは、お前の味だ。あの日の菓子を思い出すことはあっても、それは重なるだけで、消えるわけじゃない」
「重なる……?」
「そうだ」

 ようやくこちらを見る。

「失くしたものを別のもので埋めるんじゃなくて、上に薄く、甘い膜が一枚増える感じ」
「……なんですか、それ」
「説明が下手なのは認める」

 少し笑ってから、また真顔に戻る。

「とにかく、母上の味は母上の味で、俺の中にずっとある。
 そこに、お前の甘さが重なってきた。ムカついたけど――悪くなかった」

 “悪くなかった”のところで、かすかに照れた気配が混じる。

「だから勝手に心配するな。代わりなんかじゃなくて、“別の甘さ”としてちゃんと残ってる」

 風が、さっきより少しあたたかく感じた。

 胸の中の棘が全部消えたわけじゃない。
 でも、呼吸はさっきより楽になっている。

「……ずるいです」
「またか」
「そんな言い方されたら、“城に残るのも悪くないかな”って思っちゃうじゃないですか」

 自分で言って、自分で真っ赤になる。

 レオルは一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。

「それなら、もうちょっとだけ、ずるくしとくか」
「え?」
「ヒオラ菓房を捨てろなんて、俺は一言も言ってない。決まりがあるなら、変えればいい」
「そんな簡単に言わないでください」
「簡単じゃないのは分かってる。でも、“甘さ”で世界を変えるってそういうことだろ」

 彼の言う“世界”は、きっと国や城みたいな大きなもの。
 私の“世界”は、ヒオラ菓房のカウンターと、両親の墓と、今日の舞踏会くらい。

 そのふたつが、少しずつ重なりはじめている。

「俺は、見たいだけだ」
「……何を、ですか」
「お前の甘さで、この国がどう変わるか。それから――」

 一拍置いて、声が低くなる。

「この国の甘さがどう変わるか。そして……お前の作る甘さが、どこまで広がっていくのか」
 
その視線をまともに受け止められなくて、私はあわてて夜空を見上げた。

 星の光は、太陽の砂糖みたいにまぶしくはない。
 でも、ちゃんとそこにある。

 私の甘さも、きっとそのくらいでいい――
 そんなことを、ふと思った。



 王城から戻ったあとの数日は、目まぐるしく過ぎていった。

 「王妃様のお気に入りらしい」「喉が渇かない甘味ってここ?」
 そんな噂といっしょに、ヒオラ菓房の鈴は、朝から晩までよく鳴いた。

 けれど、どれだけ忙しくしても、胸のざらつきは消えない。

 ――第三王子はいずれ隣国の姫と政略結婚。
 ――今は味覚の噂のために、あの子の店に通っているだけ。

 城の廊下で聞いた声が、頭の隅でこびりついていた。

(レオルにとって大事なのは、“甘さ”を取り戻すこと。
 私は、そのきっかけなだけ――)



 それでも、レオルは変わらず店に来た。

「今日のは?」

 鈴が鳴き、いつもの声がする。私はいつもの笑顔を作った。

「今日は、新作です。“おもいで包み”っていうんです」

 小さな丸い菓子。ほんの少し塩を利かせた白あんに、細かく刻んだ果実。

「また妙な名前を」
「放っておいてください」

 私は皿に触れながら、小さく笑った。

「……母が作ってくれたお菓子を思い出すんです。
 忙しい日でも、ひとつだけならって出してくれて……
 甘さそのものより、一緒に食べた時間が“味”になって残ってて」
 ――太陽の砂糖を抑える意味がどこにある?

「だから甘さって……量じゃなくて、
 “忘れたくない記憶をいっしょに包んで残すためのもの”だと思うんです」

 自分のために、ようやく言葉にした答えだった。

 レオルは黙って“おもいで包み”をつまみ、噛んで、飲み込む。

「……ああ。やっぱり、ちゃんと甘いな」
「砂糖、そんなに使ってないですよ」
「そういう意味じゃねぇよ」

 灰色の目が、まっすぐこちらに向く。

「城の甘味は、“強い”か“高い”か“派手”か、だ。お前のは……めんどくさい」

「またそれですか」
「褒めてる。一口で終わらない。あとから、じわじわ思い出がついてくる感じが、正直むかつくくらいだ」
「むかつくって失礼じゃないです?」
「前にも言ったろ。“失くした味”に似たもんを、別のやつに出されるとむかつくって」

 胸の奥がきゅっと鳴る。

「……じゃあ、やっぱり私は、レオルのお母様の代わりなんじゃないですか」

 気づけば、言葉がこぼれていた。

「失った味を埋めるためだけに、私を見てるなら、それってずるいと思います」

 レオルは一瞬だけ目を細める。
 むっとしたふりをしながら、どこか照れている声。

「とにかく。母上は母上、お前はお前だ。代わりなんかじゃない」

 胸に刺さっていた棘が、すこしだけ緩んだ気がした。

「じゃあ、どうしてそんなに――」
「通ってるかって?」

 レオルが先に言う。

「最初はただの興味だった。“軽いのにちゃんと甘い”変な菓子を見つけたからな」
「変なって」
「褒めてる。でも、今は違う。城の菓子もギルドの菓子も、国中どこ探しても“ここ”の味にはならない」

 皿の上の“おもいで包み”を、指でかるくつつく。

「国中の甘味がどうなろうと、正直どうでもいい。太陽の砂糖で塔を積もうが湖を凍らせようが、勝手にやってろって感じだ」
「王子のセリフじゃないですよ」
「第三王子だ。多少捻くれててもバレない」

 それから、ほんの少しだけ目をそらす。

「……でも、わざわざ足を運んで食いたい甘さは、そう多くない。
 今のところ、それがあるのは、ここだけだ」

 心臓が、またうるさく鳴り出す。

「だから」

 レオルは、まっすぐに言った。

「世界のどこにも行くなよ。ここで作ってろ。俺が、食いに来るから」

 噂でも、城の都合でもない。
 ただ“自分の舌のために”と言われた一言が、想像以上に胸に響いてしまう。

「……ずるいです」

 思わず漏れた声は、少し震えていた。

「そんなふうに言われたら、ここを……いえ、その……」

 言葉がまとまらず、指先がじんと熱くなる。

 ——これ以上、好きになったら困るから。
 ——だから距離を置こうとしてたのに。

 胸の奥でだけ、そっとつぶやく。
 口には出さない。ただ、心が勝手に膨らんでいく。

「距離、置こうとしてたのか」

 レオルの問いに、ユラはほんの小さく頷いた。

「……少しだけ、です」

 噂を聞いて、“これ以上踏み込んじゃいけない”って思った。
 その線を引いたのは自分なのに——
 今、彼の言葉ひとつで簡単にぐしゃっと崩れてしまう。
 城の専属を断ったこと。廊下で聞いた噂で、勝手に線を引いたこと。
 全部見透かされた気がして、俯く。

「勝手に線引くな」

 小さくため息。

「俺にとっては、“味覚の噂”なんかどうでもいい。もう分かってるからだ。何が甘くて、何が苦いか」

 ふ、と笑う。

「甘いもんなんてどれも同じだろ、って言ってた頃より、よっぽど面倒くさい舌になった」
「それ、私のせいですか」
「そうだよ」

 即答。少し嬉しい。

「……分かりました」

 私は、両手をカウンターの上に置いた。

「じゃあ、私はここで甘さを続けます。レオルが“ちゃんと甘い”って言ってくれる限り」
「言い続けてやるよ」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃねぇよ。だから約束だ」

 その言い方は、“告白”なんて言葉より、よっぽど甘く聞こえた。



 それから数日後の午後の客足が落ちついたころ、店の鈴が小さく鳴いた。

「いらっしゃいませ――」

 顔を上げた瞬間、息が止まった。

 今日のレオルは、常連の青年ではなく、
 “第三王子”の顔をしていた。
 整えられた髪、深い色の上着。
 手には、小さな箱。

「……差し入れですか?」
「違う」

 短く答えて、静かに箱を置く。
 ふたが開かれ、光がこぼれた。

 精巧な細工の指輪。
 内側には、甘味の紋章が刻まれている。

「これって……」
「……見たらわかるだろ」

レオルは、わずかに視線を外しながら続けた。
 心臓がうるさすぎて、息が浅くなる。
 レオルがその手を取り、指輪を箱から取り出した。
その手つきは驚くほど丁寧で、いつもの乱暴な言い方とは似ても似つかなくて――

「動くなよ」

 その小さな囁きに、胸が一気に熱くなる。

 彼は、私の薬指に指輪をゆっくり通した。
 指先が触れるたび、くすぐったいような感覚が走る。
 かちり、と小さく収まった瞬間。

「……似合ってる」

 ひどく不器用で、優しい声だった。

 私の視界がふっと滲む。
 涙じゃない、けれどたぶん涙の手前。

 彼は、まだつないだままの手を軽く持ち上げた。

「……これから先の“甘さ”は、全部俺に背負わせろ」
「私の甘さも?」
「全部だ」
「ヒオラ菓房の甘さも?」
「当たり前だ」
「レオルの“甘さの未来”も?」
「……お前と作るって、もう決めた」

 ユラは、指輪の光を見つめながら、くしゃっと笑った。

「……ずるいくらい甘いです、それ」

「甘味師の前で甘いって言われるのは……悪くねぇ」

 私たちの笑い声が重なり、
 太陽の砂糖の国の片隅で、ひとひらの甘い未来が、そっと形を結んだ。



 太陽の砂糖の国は、すぐには変わらない。
 相変わらず強い甘さを求める人は多く、城には今も派手な飴塔が並ぶ。
 それでも、「喉が渇かない甘さ」「思い出を包む甘さ」を求める声は、少しずつ増えていた。
 ある夕方。
 新作の恋菓を皿に並べ、カウンター越しに差し出す。

「今日のひとひら、試食お願いします」
「仕方ないな」
 レオルはひとつ口に入れ、噛んでから、目を細める。

「……ちゃんと甘い」
「よかった」

 鈴が鳴き、新しいお客さんが入ってくる。
 太陽の砂糖の国の片隅で、ひとひらの恋菓から始まった甘さは、
 これからも少しずつ形を変えていく。
 その真ん中に、ヒオラ菓房と、私と、ちょっとめんどくさい甘党の第三王子がいる未来を――そっと思い描きながら。