夏休み。


蝉の声が世界を埋めつくすように鳴り響いていた。
夏休みの朝。
目覚めた瞬間から胸が、ふわふわと浮き立っている。

(今日……椿くんと初めての夏休みデート!!)

“デート”という単語を思い出すたび、
胃の奥が甘く痺れるような、くすぐったいような感覚になる。

服を選ぶ時間だけで二十分悩んで、
鏡の前で何度も確認して、
前髪を整えて、深呼吸して……

「……よしっ。」

家を出た瞬間、
家の前の道路に寄りかかるように立っている椿が目に入った。

Tシャツに黒い細身のパンツ。
手にはコンビニのペットボトル。
夏の光に輪郭ごとさらわれそうなくらい、絵になっている。

「お、おはよう、椿くん!」

「……遅ぇ。何分待たせんだよ。」

言葉は不満げなのに、
その声はどこか甘えているようで――耳が熱くなる。

「ご、ごめんね、準備に時間かかって……」

椿はじっと美羽を見た。
数秒、視線が絡んで離れない。

「……似合ってる。」

「えっ……?」

「だから、似合ってるっつってんだろ。もう言わねえ。」

そっぽを向きながら言う椿の耳は、ほんのり赤かった。

夏休み初日は、そんなふうに始まった。

*

電車に揺られて着いたのは、海辺のショッピングモールだった。
ガラス張りの天井から光が差し込んで、
床に反射する青い光がゆらゆら揺れている。

(うわぁ……夏って感じ)

歩くたび、椿との距離が気になって仕方ない。

「美羽。」

「ん?」

「……手。」

「え?」

椿が不機嫌そうな顔をしている。

「迷子になるだろ。……繋いどけ。」

「あっ……うん!」

ぎゅ。

椿の指が、美羽の指を絡め取る。
指と指の隙間に、熱が溶けて流れ込むようだった。

(なにこれ……手繋ぐだけで心臓苦しい……)

横目で見ると、椿も視線をそらしていて、
微妙に耳が赤い。

歩きながら、
楽器店を見たり、カフェに寄ったり、写真を撮ったり。

カフェで出てきたレモネードを飲む美羽を見て、椿がぼそっと言う。

「ストロー噛む癖あんの、なおせよ。」

「え!?してた!?ごめん!」

「……別にいいけど。」

(いいんだ……どっち……!?)

そんな細かいやり取りの一つ一つが、
胸をぎゅっとかき乱す。

*

昼過ぎ、映画館の暗がりで、
となりの椿の存在があまりに近い。

横顔のライン、肩幅、手の甲、
少し触れたら崩れてしまいそうな距離。

映画のクライマックスに合わせて爆音が響くたび、
心の中の何かがハラハラする。

すると椿が、ぽつりと言った。

「さっきから落ち着きねぇな。」

「だ、だってっ……映画が迫力あって……!」

「……怖いなら言えよ?」

「こ、怖くないし!?」

「……嘘つけ。手震えてんぞ。」

そう言って、美羽の手をそっと包んだ。

暗闇の中で繋ぐ手は、世界に二人しかいないみたいで――
映画の内容なんてほぼ頭に入らなかった。

*

映画を出ると、外は茜色。

海風がふっと髪を揺らした。
夏の夕暮れは、世界を少しだけドラマチックにする。

「……ちょっと歩くか」

椿に連れられて、海沿いの道へ。

歩道の端では、波が光を受けてきらきら反射している。

美羽は、夕日に照らされる椿の横顔に見惚れてしまう。

「椿くん……」

「ん?」

「その……今日、すごく楽しい!…来てよかった。」

「……知ってる。」

「え?」

「顔に書いてあんだよ。お前はすぐ全部顔に出るからな。」

「で、でも……椿くんは……」

言いかけた瞬間、椿が立ち止まった。

風の音が一瞬だけ消える。

「美羽。」

ただ名前を呼ばれただけで、胸が跳ねた。

「ずっと考えてた。」

椿の瞳が、真っ直ぐ美羽を捉えて離さない。

「秋人のあれも……正直ムカついたし。
お前が誰かに奪われるとか、考えるだけで気に食わねぇ。」

「……椿くん」

ゆっくり近づく。
夕日で赤く染まった影が一つに重なる。

「でも俺、もっと……お前にちゃんと伝えねぇとなって思った。」

風が、二人の間をかすめた。

「俺は、お前が好きだ。
誰に何言われようが、一生変わらねぇくらい好きだ。」

美羽の呼吸がひゅっと止まりかけた。

「椿くん……」

「……返事は?」

言葉にならない胸の震えのまま、
美羽はそっと椿の胸のあたりに手を触れた。

「私も……椿くんが好き。
もっと……もっと好きになってるよ……」

椿の瞳が揺れる。

次の瞬間、
腕がきゅっと美羽の腰を引き寄せた。

「……言ったな」

唇が触れるギリギリの距離で、
椿が小さく笑った。