夕暮れの公園は、
遠くで犬の鳴き声が響くだけで、
不気味なほど静まり返っていた。

そんな静けさを裂くように――

赤茶色のウルフカット。
琥珀色の瞳はどこか冷たく、鋭い。

けれど確かに――
あの日、雨の中で倒れていた“あの青年”だった。

美羽は息を呑んだ。

(……全然違う。
あの日の弱々しくて儚い感じじゃない……)

今目の前に立つ青年は、
まるで獣の影をまとっている。

青年――神楽怜は、
美羽の定期券を指先で挟み、
くるりと回してみせた。

「やっと見つけた。
ねぇ、天使さん……いや、美羽さん?」

その声に気配がない。
笑っているのに、目は笑っていなかった。

美羽は一歩、自然と後ずさった。

(怖い……!)

怜の纏う空気は、
黒薔薇とは全く違う、“闇の匂い”がした。

美羽は毅然とした声で言い返した。

「銀狼のトップの方が……私に、何の用ですか。
それより、定期券返してください。」

怜はゆっくり、ゆっくり近づいてきた。

足音はしない。
それが余計に恐ろしい。

「最近、噂になっている“黒薔薇の戦血姫”。
まさか、あの雨の日に出会った子が君だったとはね。」

くすり。

唇の端が、ゆっくり上がった。

「神が僕に味方してくれたみたいだ。
僕はあの日、君に助けられた瞬間――
“欲しい”と思ったんだよ。」

「……は?」

「君は黒薔薇なんかにいる器じゃない。
銀狼に来るべきだよ、美羽さん。」

怜の瞳は、美羽を捕らえたまま離さない。

「僕のお姫様になってほしい。」

その瞬間、背筋に鳥肌が立った。

「は?なるわけないでしょ。帰る。」

美羽は踵を返した。

けれど怜はすぐに、定期券をヒラヒラと見せつける。

「これいらないの?」

美羽はぐっとこらえて、

(……ママに怒られるけど……
さすがにコイツから取り返すくらいなら諦める……!)

「じゃあそれあげる。
私が銀狼に入らないかわりに、それ返さなくていい。」

怜の足がぴたりと止まった。

静かに、地面から音が吸い込まれた気がした。

「じゃぁ取引しよう、美羽さん。」

嫌な予感しかしなかった。

怜の琥珀の瞳が、薄く細まった。

「君が銀狼に来るなら、黒薔薇には手を出さない。
けど、君が来ないなら――」

微笑む。

その笑みは美しいのに、狂気を孕んでいた。

「黒薔薇のメンバー、全員半殺しにする。」

空気が凍った。

美羽は振り返って叫ぶ。

「な……っ、何言ってるの!?正気!?」

怜が肩をすくめる。

「もちろん本気だけど?」

美羽の肺がきゅっと縮まる。

怜は続ける。

「それか…北条椿を殺すのも、ありかな?」

世界から音が消えた。

美羽の心臓が、強く跳ねる。

「やめて!!!
なんてこと言うの!?
あなた、頭おかしいんじゃない!?」

怜は、楽しげに笑う。

「そんなに"北条椿"が大事なんだ?
ふーん、面白いね。
黒薔薇王のお気に入りの姫。」

その目には、美羽への執着が濃く宿っていた。

(ほんとに……ヤバいかも……!)

美羽は怜を睨みつけ、拳を握った。

「絶対に、そんなことさせない!!
私があなたを倒す!!
黒薔薇は、私が守る!!」

怜はひどく優しい声で囁いた。

「あはは。無理だよ、美羽さん。
でも……
その必死さ、いいね、すごく可愛い。」

そして――
美羽の怒りが爆発した。

(こんなやつ……倒す!!)

踏み込みの音。
風を裂く軌道。

けれど怜は、笑ったまま簡単に避けた。

「遅いね。」

美羽はすぐに足蹴りを繰り出したが――

ガシッ!

怜が美羽の足首を掴んだ。

身体のバランスが崩れる瞬間、
怜が美羽の腰を引き寄せ――

抱きしめた。

美羽の呼吸が止まる。

(な、なんで抱きつかれてるの私!?)

「ね、勝てないでしょ?」

怜が耳元で囁く。

声が低くて、
甘くて、
冷たくて――
身体が震えた。

「離してっ!!やだ!!」

美羽は必死に抵抗する。

怜の腕は、鉄のように強かった。

けれど――

怜の動きが、ふと止まった。

美羽の首元を見て、
怜の表情が冷えた。

「……へぇ。」

低い。

怒りを押し殺した声だった。

「北条椿と……
そういう関係なんだ?」

美羽の心臓が跳ねた。

怜の瞳が濁り、爛々と光る。

「椿くんは……手が早いね。」

その瞬間――怜は、美羽の首筋に顔を寄せ、

ガブッ!と噛みついた。

「きゃぁぁ!!あっ……!!」

美羽の悲鳴が公園に響いた。

熱い痛み。
涙が溢れる。

美羽は怜の頬を平手で叩いた。

パァン!

「最っ……低!!」

怜の目が妖しく光る。

「美羽さんが悪いんだよ。
僕のお姫様なんだから。」

そして、血のついた自分の唇を舐めながら微笑んだ。

「これで……君は僕のものだ。」

美羽は恐怖で息が詰まり、
身体を震わせながら逃げ出した。

怜の声が背中に刺さる。

「取引の件……忘れないでね?」

その声は、甘い毒のようだった。

美羽は全力で走り、自室に籠った。
ドアを閉めた瞬間、

膝から崩れ落ちた。

首筋がじんじん痛む。

「どうしよう……
どうしたら……いいの……?」

涙がぽたりと落ちた。

世界が、急に暗くなった気がした。