図書室での甘い混乱の余韻が、まだ胸のどこかで続いていた。

本棚の影で押し寄せた熱、耳元に落ちた椿の低い声、
それから……あの、首元の痕。

(……思い出しただけで、また顔が熱くなる……っ)

美羽はレポート課題を提出すると、
一刻も早くこの火照りから逃げるように図書委員の部屋を出た。

廊下に出た瞬間――

「おーい、美羽ちゃん!」

ひょいっと手を上げながら近づいてくる男子が一人。

悠真だ。

瞬間、さっきのキスがフラッシュバックし
美羽の心臓は跳ね上がる。

「え!?あっ……悠真くん?ど、どうしたの?」

「あれ?美羽ちゃん、もう風邪治ったの?
昨日すっごい椿が焦って帰ってたからさ~
お見舞い行ったんだろうな~って思って♪」

ニコニコしている悠真。
その笑顔が逆にこわい。

(や、やめて……椿くんの話題、今は刺激が強すぎる……!)

美羽は必死に平静を装う。

「う、うん!治った!心配してくれてたんだね、ありがとう!」

「それより~」
悠真は人懐こい笑顔のまま続けた。

「椿探してるんだけど、見当たらなくてさ。
美羽ちゃん、知らない?」

瞬間、背中に冷や汗がつっと落ちた。

(ヤバ……ついさっきまで一緒に図書室にいたなんて、言えない!!)

「えっ!?し、知らないよ!
こっちには来てなかったと思うけど? ね!?あはははは……!」

歯切れ悪い笑い。

悠真は目を細め、
完全に「嘘ついてる人を見る目」で美羽を見つめた。

「ふーん……?」

疑ってる。
確実に疑ってる!!

美羽は慌てて話題を逸らす。

「え、えっと!椿くんに連絡してみたら?
ほら、悠真くんならすぐ捕まるよ!」

そう言って悠真の横を通り過ぎようとした、その瞬間。

すれ違いざま、悠真がぽつりとつぶやいた。

「はぁぁ……美羽ちゃんにまで隠されるなんて、僕ちょっと寂しいなぁ~」

「えっ!?!?」

振り返った美羽に、悠真はにじり寄り――
口角を上げてニヤッと笑った。

そして、美羽の耳元で囁く。

「ねぇ、美羽ちゃん……見えてるよ?」

「…………え、な、なにが……?」

(や、やめて……嫌な予感しかしない……)

悠真は指先で、美羽の首元をトントンと指した。

「その……キスマーク。
椿でしょ?ちゃんと隠さないと、みんなに見られちゃうよ?」

「っっ!!???」

美羽の脳内で爆発音が鳴り響いた。

(バ、バレたぁぁああああああ!!
よりによって悠真くんにぃぃぃ!!)

美羽は顔を真っ赤にして悠真をにらむが、
悠真はぺろっと舌を出して教室に戻っていった。

「じゃあね~美羽ちゃん、青春だねぇ♡」

「~~~~~っ!!!!!」

その場に立ち尽くした美羽は、
心臓を押さえながら天を仰いだ。

(ど、どうしよ……絶対、絶対明日には黒薔薇に広まるじゃん……!!
もう生きていけない……!!)

 



課題提出後。

椿と一緒に帰る途中も、美羽はむすっとしたままだった。

椿はそんな美羽を横目に、ふっと笑う。

「なんだよその顔。そんな怒るなよ?」

「怒るに決まってるでしょ!?
よりにもよって悠真くんに見つかったんだよ!?
すっごく恥ずかしかったんだから!!」

「ははっ、だから言ったろ?
“治ったら覚悟しとけ”って。」

「その覚悟がこれだとは思ってなかったよ!!」

怒る美羽を見て、椿は目を細める。

「……可愛いな。」

「っっ!!」

(もう、なんなの!?なんなのこの人!!)

美羽のドキドキは限界突破寸前だった。

椿は立ち止まり、美羽に向き直る。

夕暮れのオレンジが、椿の横顔を柔らかく照らす。

「……美羽。」

「……な、何よ!?」

椿は、まっすぐに言った。

「俺はずっと、美羽が好きだ。」

美羽の顔が一瞬で真っ赤に染まる。

奇襲すぎる言葉に、声が上手く出なかった。

「も、もう……わかったってば……!」

震える声で返すと、椿は満足そうに笑った。

美羽は心臓を押さえる。

(ほんとに……いつだってずるいんだから……。)



駅で椿と別れ、家へ向かう道の途中。

公園の前を通った時――

「あっ……定期券!!」

思い出してしまった。

(そうだ、落としたままなんだ……!)

美羽は慌てて公園へ入り、
昨日のベンチへ駆け寄った。

しゃがみこみ、草の間やベンチの裏まで探す。

「ない……やっぱりどこにもない……。
うぅ、ママに怒られる……。」

肩を落としながら立ち上がったその時。

背後から――
ふいに低い声が降ってきた。

「…探し物は、これかな?天使さん?」

美羽は振り向いた。

そこに立っていたのは、
赤茶色のウルフカット、
琥珀色の透き通った瞳を持つイケメンだった。

グレーのブレザーを着て、
片手に――美羽の定期券を持っていた。

ん……?

この声……
どこかで……。

「え!それ!私のです!!
拾ってくれたんですか!?ありがとうございます!」

美羽は急いで駆け寄る。

だがその男子は、返す素振りを見せない。

ただニヤリと笑って、
美羽の顔をじっと見つめている。

嫌な寒気が背筋を這った。

「え……えっと……返してもらえますか……?」

近づく美羽に、彼は首を傾ける。

「ひどいなぁ。
僕のこと……覚えてないの?天使さん。いや、"雨宮美羽"さん?」

「……っ!?」

“天使さん”。

その呼び方で、一気に記憶が繋がった。

雨の中、公園で出会った、あの青年――!

美羽は揺れる声で言った。

「な、なんで……私の名前……知ってるの……?」

青年は笑みを深くし、
低く静かに名乗った。

「僕の名前は――神楽 怜(カグラ レイ)。
銀華狼芽学園高校、2年。
銀狼の……王って言えば、わかるかな?」

その瞳に宿る光――
それは、獣のような執着の色。

美羽の心臓が跳ね上がった。

(この人……
この人が……銀狼のトップ……!?)

夕暮れの公園に吹く風が、
まるで新たな嵐の始まりを告げるように冷たかった。