春の朝は、どうしてこんなにも胸をそわそわさせるんだろう。
薄桃色の空気が街にとけこんで、街路樹の桜がひらひらと風に乗っていた。

 高校二年生になり、初めて椿くんと一緒に登校する朝。

「わ、やば……っ!」

 ほとんど跳ね起きるようにして布団から飛び出す。
スマホの画面には、起床予定時刻をとっくに過ぎた数字が表示されていた。

 鏡の前でばたばたとメイクを整えながら、胸がぎゅっと締まる。

(今日から“彼女”としての初登校なのに……寝坊って……終わった……)

 そう思いながらも、手鏡を覗いたとき。
まつげはいい感じに上向きだし、リップもうるっとしてるし、今日は制服のリボンも可愛い。
大丈夫、なんとかなる。なんとかしないと。

 美羽は息を弾ませながら、最寄り駅へと駆けだした。

 春の風がスカートの裾をさらっていく。
陽ざしは柔らかいはずなのに、心臓だけは夏みたいに熱い。

(待ち合わせして、椿くんと一緒に学校に行く……
 そんな当たり前みたいなことが、こんなに夢みたいだなんて……)

 駅前の角を曲がったとき、
ぱっと視界がひらけて、人ごみの向こう側に——

 彼がいた。

 壁に片肩を預け、赤いブレザーの上着を軽く脱ぎかけたまま、長い脚を組んで立つ姿。
春の風に揺れる黒い前髪。
光に縁取りされた横顔。

 北条椿。

 黒薔薇学園の“王”。
そして——いまは、私の彼氏。

(……いや、ほんとに……私の……彼氏……?)

 自分で思って、足が止まるほど顔が熱くなった。

 きらり、と椿のまつげが動いた。
どうやら、美羽の視線に気づいたらしい。

 ゆっくりとこちらへ目を向けると、
眉間にわずかにしわを寄せて、
椿はひとこと。

「……美羽。遅ぇ。」

 声が低くて、ふわっと耳をくすぐる。

「ご、ごめん椿くん!!ちょっと寝坊しちゃって……!」

 美羽は慌てて走り寄る。
恥ずかしさで胸がギュッとなったけれど、
それでも彼と目が合うだけで心臓が忙しくなる。

 椿は無言で一歩近づくと——
美羽の頭に、大きな手をぽんっと置いた。

「そうか。」

 いつもの不器用な優しさを混ぜた声で、
そのまま手ぐしで、くしゃりと撫でてくる。

「ちょっ……寝癖直したばっかりなのに!」

「寝癖でもなんでも可愛いんだから問題ねぇよ。」

 なんでもないみたいに言ったその一言で、
美羽の胸が一気に沸騰した。

(え、ちょ……ちょっと待って……
 何その自然な破壊力……!?)

 と思っている間に、椿はすっと手を伸ばし——

 美羽の手をつないだ。

「ほら。行くぞ。」

「えっ……わ……」

 指と指が絡む。
掌の温度が重なって、なにかがじわっと体に広がる。

 学校までの道はいつもと変わらないはずなのに、
今日は全部が光って見えた。
舗道も、空も、桜の影さえも。

(ど、どうしよう……初日からこれって……
 本当に……私の心臓もつ?
 無理じゃない??)

 美羽は顔が熱いまま、
隣を歩く椿をちらっと見る。

 すると椿が不意に視線を落としてきた。

「……そんな真っ赤にして、何考えてんだよ。」

「っ……な、なんでもないっ!」

「ふーん。俺と手つないだだけでこれか。」

「い、言わないでよ!!恥ずかしいから!!」

 椿の口元がかすかに緩む。
それは普段ほとんど見せない、ほんのわずかな微笑み。

 春の風がひゅうっと吹いて、
髪が揺れ、桜がゆらいだ。

 その全部の真ん中で、
椿の声がとても近くて。

「……そーいや美羽、」


「え?何、椿くん?」


「…おはよ。まだ言ってなかった。」


「っ——!!?」

 世界が一瞬止まる。

 心臓が胸の奥で跳ねて、
桜の花びらが視界の端を流れていく。

(こんなの……
 高校二年生の春、始まって早々……
 私、死んじゃう……)

 でも。

 椿の隣を歩ける幸せが、
胸をふわっと満たしていく。

こんな春が来るなんて、信じられない。
でも、私は今日から本当に——椿くんの彼女なんだ。

そう思えたら、
涙が出そうになるほど嬉しかった。