爽やかな朝霧が、教会の尖塔を包み込んでいる。堂内の中庭を囲う石造りの回廊。そこには、赤や青、緑、黄といった色とりどりのドレスを身に纏った令嬢たちの姿。
その一角で、深青色のベルベッドのドレスを着た侯爵令嬢アンネリーゼは、周囲の華やかな雰囲気を楽しんでいた。
(……どの世界においても、結婚式は良いものね)
招待客の浮足立った雰囲気。祝い事のパーティらしいおめでたい空気。この場にいるだけで幸せな気分になる。
アンネリーゼは目を細めて微笑んだ。
(やっぱり結婚式が好き。前世でウエディングプランナーをやっていたからかな)
アンネリーゼには前世の記憶があった。自分は前世、早瀬千沙という名だった。日本という国で生まれ、結婚式の企画や運営をプロデュースするウエディングプランナーという職に就いていた。自分は元々、イベント事を企画することが好きだった。そして、結婚式という新郎新婦にとって一生に一度の大切な日のお手伝いをして、新郎新婦はもちろん、招待客の喜ぶ顔を見ることが好きだったのだ。それが仕事の原動力であり、やりがいだった。けれど、日々の膨大な仕事に忙殺される余り、生来の一生懸命な性格が災いして頑張りすぎてしまった。ある日、もうすぐ担当する結婚式を迎えるための準備に追われて早起きしたところ――突然胸が苦しくなって昏倒。自分はそのまま生涯を終えたのだ。
(そうして気付いてみたら、この異世界の侯爵令嬢アンネリーゼ・フォン・エルディナに生まれ変わっていたんだよね)
前世の世界とは違う異世界の人間に生まれ変わること。自分は異世界に転生したのだ。おそらく珍しいことに、前世の記憶を持ったまま。
アンネリーゼは、ここグランディール王国の侯爵家の令嬢だ。今年で齢二十二歳になる。緩く波打った亜麻色の髪、くるりと丸い菫色の瞳。自分で言うのもなんだけれど、可憐な容姿であると思う。加えて侯爵令嬢という申し分のない肩書き。自分はずいぶんと恵まれた人物に転生したと思う。何か意図があるのではないかと勘繰るくらいに。
それを裏付ける能力として、自分には生まれた時から聖獣が付いていた。主人を生涯守護するという強力な力を持った神の遣い。自分の場合は一角獣のユニコーンだ。前世ウエディングプランナーだったことを考えると、結婚式を祝福する者の象徴としてユニコーンが選ばれたのかもしれない。
聖獣を従える者はごく僅かで、自分はこの国に安寧と繁栄をもたらす者として重用されていた。
回廊の柱の陰に身を潜めていたことに気付かれたらしい。数人の令嬢がアンネリーゼを取り巻いた。
「アンネリーゼ様、ごきげんよう。まあ、なんて素敵なドレスなのでしょう」
「ありがとうございます。皆様のお召し物も良くお似合いですわ」
「まあ! ありがとうございます。本日の佳き日を皆様と迎えられて幸せですわ」
令嬢たちは、口元に羽扇を当てて優雅に笑う。
本日は、グランディール王国伯爵令嬢の結婚の儀だ。家同士の繋がりのある貴族の招待客が場に集っている。教会での誓約の後は祝宴が控えている。少しでも家柄の良い令息を捕まえようとする令嬢たちの戦場でもあった。
「お集まりの皆様。新郎新婦の儀式の準備が整いました。礼拝堂へお越しください」
伯爵家の執事の声掛けがあり、アンネリーゼは他の令嬢たちと共に堂内に足を踏み入れる。石造りの回廊には、青色を基調としたリボンが幾重にも掛けられ、純白の百合が飾られている。午後の西日を受けて、ステンドグラスの色彩が堂内を鮮やかに彩っていた。厳かな雰囲気の中、招待客たちは順に木製の長椅子に腰掛ける。
アンネリーゼも、自分に宛がわれている席に腰を下ろした。侯爵家の令嬢である自分の席は新婦側の前列だ。新婦のドレス姿がよく見えてありがたい。
(やはり、結婚式の楽しみの一つは新婦のドレス姿よね)
布地の色はもちろんのこと、デザインはどういったものだろう――アンネリーゼは口元に羽扇を当て、新郎新婦の入場を今か今かと待ちかねていた時だった。
「――華やかな席に不躾で申し訳ない。ここにアンネリーゼ・フォン・エルディナ侯爵令嬢はいるか!」
「……? 私ならここにおりますが」
入退場口の観音開きの扉が大きな音を立てて開かれる。そこに姿を現したのは、アンネリーゼが待ち望んでいた新郎新婦ではなかった。自分の婚約者であるこの国の第一王子――ルシアード・フォン・グランディールであった。
アンネリーゼは立ち上がり、ルシアードにドレスを持ち上げて挨拶をする。
「殿下。そのように声を荒げられていかがなさったのですか。殿下もご存知とは思いますが、ここは神聖な礼拝堂でございます。静かに祈りを捧げるべき場所ではないかと」
「そのようなことは分かっている。それよりもアンネ、僕はおまえに言い渡しに来たのだ」
「どのようなことを……でございますか?」
「アンネリーゼ・フォン・エルディナ侯爵令嬢。僕は、貴女との婚約破棄を申し入れる」
え――……?
華やかに響き渡っていたはずの鐘の音。アンネリーゼには、その響きが酷く遠くに聴こえるようだった。
***
「婚約破棄、でございますか……?」
「そうだ。身に覚えがあるだろう」
ルシアードは自信満々に胸を張っている。堂内の招待客たちは、突然のスキャンダルに言葉を失っている。ルシアードと自分の動向を見守るばかりだ。
アンネリーゼは内心溜め息を吐いた。このめでたい日に、何故このような無粋な真似をするのか。そもそも、婚約者に婚約破棄を申し入れられるような謂れはなかった。身に覚えなどあるはずもない。
アンネリーゼは気丈に口もとに扇を当てる。
「わたくしには殿下のおっしゃられている意味が分かりかねます。このような祝いの場で、正式な段階を踏むことなく不意打ちで婚約破棄を申し入れられるなど、いささか常識を欠いていらっしゃるのではありませんか?」
「常識を欠いているのはおまえのほうだ、アンネ。僕は昨日、おまえの妹から密告を受けたのだ。曰く、おまえが聖獣の力を国のためではなく、自分の領地のためだけに使っていると」
「…………は?」
思わず不敬にあたる反応をしてしまった。自分の聖獣はユニコーン。豊穣の力を持つ一角獣は、作物を豊作にする祝福を施すことができる。その恩恵もあって、王国は凶作に見舞われることなく、飢餓になることもなく、豊かな平和を保ってきた。もちろん、アンネリーゼがユニコーンの祝福の力を自分の家の領地のためだけに用いたことはない。まったくの出鱈目だ。それは、この国が豊かであることが証明しているではないか。
(……しかも、殿下にそのような嘘を吹き込んだのは妹?)
アンネリーゼの妹セレスティアは、自分より二つ下の二十歳だ。外見は花のように愛らしいのだが、性格に少々難があった。我儘で傲慢なところがあるのだ。姉である自分が聖獣の加護を受けたことに比べ、セレスティアはその加護を得られなかった。聖獣を従えることが稀なのだから、致し方のないことなのだ。けれども、アンネリーゼは聖獣の加護を得ているおかげで幼少期から何かと重宝され、政略とはいえ殿下の婚約者に選ばれるに至った。それが原因で妹が不遇な扱いを受けることはなかったけれど――それでも妹にとっては、姉は気に喰わない存在だったのかもしれない。
(そもそも、セレスは小さい頃から殿下のことが好きだったから……)
王家と侯爵家は繋がりが強く、アンネリーゼとルシアードとセレスティアは幼い頃からよく一緒に学んだり遊んだりすることが多かった。セレスティアは、外見も良く身分も高いルシアードに自然と憧れていったのだと思う。けれどもルシアードの婚約者に選ばれたのは、己ではなく姉のアンネリーゼだった。セレスティアはきっと、自分の欲しいものは全て姉に奪われてしまうと、自分はきっと姉の陰で生きていくことしかできないのだと思い込んでしまったのかもしれない。特に自意識の高い妹なら尚更。そういった背景があり、姉妹仲は決して良くはなかった。自分は妹を大切にしてきたつもりだったけれど、彼女にとって自分は邪魔者でしかなかったのだ。
(だから、殿下にあることないことを吹き込んだのね。私を陥れるために)
……なんとなく状況が呑み込めてきた。それを裏付けるように、礼拝堂の出入り口にこれ見よがしにセレスティアが姿を現した。髪は亜麻色でアンネリーゼと同じ。けれども、妹の髪は背に流れるようなストレートだ。瞳の色は愛らしい薄桃色。
アンネリーゼと目が合うと、妹は桜色の唇を意地悪く持ち上げた。同情を買うようにルシアードの隣に寄り添う。
「ルシアード様……! わたくしのことを信じてくださってありがとうございます!」
「セレス! もちろんだ! 僕が君のことを信じないわけがないだろう」
妹はうっとりとルシアードを見上げている。彼もまた、妹の猫なで声に手玉に取られているようだ。
(……これは、ルシアード様とセレスは完全に恋人関係にありそう)
自分の知らない間に、二人は逢瀬でも重ねていたのだろう。いずれ国王となったルシアードの妻として、国の繁栄のために聖獣の力を役立てようと思っていたけれど。自分の思い違いであった。馬鹿正直にルシアードのことを信じていた自分が情けなくなる。
それでも一応は、妹の言い分を聞いておきたかった。何故自分が、国のためではなく自分の領地のためだけに聖獣の加護を使っていると思ったのか。
アンネリーゼは、事情を促す視線をセレスティアに向ける。妹は嬉々として笑む。
「お姉様。この場で告発させていただきます。お姉様は、聖獣ユニコーンの豊穣の加護をわたくし達侯爵家の領地にのみ用いておりました。作物が豊作となり、他の貴族たちの領地と経済格差が出るように。それにより、お姉様はルシアード様との婚約を取り付けた。わたくし達エルディナ侯爵家は、王家との婚約によりますます権力を得ますわ」
「……そのような依怙贔屓をしたつもりはないのだけれど。何か証拠でもあるの?」
「しらばくれても無駄ですわ。わたくし見ましたの。昼間、お姉様が領地の境にある麦畑で、胸に手を当てて祈っていらっしゃるのを。ユニコーンの姿は見えませんでしたけれど、お姉様を中心に虹色の光が辺りに広がったのです。それを合図に、作物の葉が一斉に輝きを取り戻したのですわ」
アンネリーゼは額を押さえる。まったく身に覚えがない。言いがかりにも程がある。
「……セレス。それは誤解だわ。私は、一度たりとも家の私有地のためだけに聖獣の力を用いたことはない。きっと、雨上がりの日か何かで、麦の葉にでも付いていた雨粒がキラキラと光って見えただとか――……そういった見間違いの類だと思うわ」
あり得るとしたら、そのような勘違いによるものだろう。自分は、聖獣の加護を国のために役立てられることに誇りを持っていた。国を裏切るような真似はしない。
(そもそも、ユニコーンの姿を見ていないのだから確証を持って言い切れるはずがない)
妹が出鱈目を言っていることは明白だ。彼女の表情や言い方も演技じみている。
反論を試みたアンネリーゼ。セレスティアはわざとらしく目を潤ませる。
「まあ! お姉様はわたくしが嘘を申しているとおっしゃいますの? そうですわよね、聖獣を従えているお姉様のご意見はいつだってわたくしより優先されてまいりましたもの」
「そういう意味で言ったのでは――」
「おお、可哀そうなセレス。アンネ、姉の立場にありながら実の妹の言葉を疑うのか? 淑女にあるまじき醜悪さだな」
「…………」
醜悪さ……。それが仮にも婚約者に向ける言葉だろうか。まるで刃のようだ。
ルシアードとセレスティアは、どんな手を使ってでもアンネリーゼを排除したいのだろう。自分たちが結ばれるために。
(確かに、私はセレスほど愛嬌はないけれど……)
それはそれとして。おそらくルシアードもまた、聖獣の加護を持つアンネリーゼのことを面白く思っていなかったのだろう。腹の内では。国に恒久の繁栄をもたらす聖獣使いは、時と場合によっては王族よりも重宝されるからだ。アンネリーゼのほうがルシアードよりも立場が上――そういった側面が、ルシアードに劣等感を抱かせてしまったのだろう。
(これは、何を言っても無駄かもしれないわ……)
アンネリーゼは嘆息する。どのような言い分も認めてくれないのならば、反論するだけ無駄というものだ。焼け石に水なのだから。それに、このような衆目の場で糾弾されては、濡れ衣とはいえアンネリーゼに良くない噂が立ってしまうだろう。伯爵令嬢の婚儀の日を台無しにしたと。
(だったら、この場は二人の意向に従っておいたほうがいいかもしれないわ。その後の身の振り方は、ゆっくり考えればいいのだから)
アンネリーゼは、諦めにも似た気持ちで思う。
ルシアードとセレスティアの次の言葉を待った。
***
ルシアードは、セレスティアを背に庇う。アンネリーゼと向き合った。
「……アンネ。僕自身としてはとても不本意だ。けれども、聖獣の力を私利私欲のために使う貴女を、いずれ王位を継ぐ僕の妻として迎えるわけにはいかない」
(よく言うわ。不本意なわけがないでしょうに)
アンネリーゼは嘆息する。どんなに無理な言いがかりを付けてでも、彼らはアンネリーゼを排除したいのだろう。ルシアードとしては、アンネリーゼと婚約破棄をしたとしても、同じ侯爵家のセレスティアを娶ったとなれば大義名分は立つ。侯爵家と角が立つこともないだろう。両親がこの場を止めに来ないところを考えても、ルシアードによって既に裏で手を回されているのかもしれない。
(……そもそも、聖獣使いであった母は私が物心つく頃に他界してしまって。今いる母は父と再婚した私にとっては継母。セレスティアとは異母姉妹なんだもの。父は気の強い継母に頭が上がらないようだし、誰も私を助けてなんてくれないわよね)
実の母を亡くしてからというもの、アンネリーゼは家庭内で孤立していた。先に述べたように父は継母に頭が上がらない。継母はアンネリーゼよりも実の娘であるセレスティアを溺愛している。アンネリーゼは家で何かと所在が無く、居場所はなかったのだ。聖獣使いであるという能力だけが、アンネリーゼの価値だった。
――これ以上は、何を言っても無駄だろう。
アンネリーゼは、むしろこの場を早く収めるほうに頭を切り替える。
「……殿下。つまり――わたくしを、罪人として断罪なさるおつもりなのですね?」
「……よ、よく分かっているじゃないか。君は理解が早くて助かるよ」
アンネリーゼに潔く返されるとは思っていなかったのだろう。不意を突かれたのか、ルシアードのほうが狼狽している。礼拝堂は静まり返っている。皆、事の顛末に付いて来られていないようだった。
気を取り直したルシアード。威風堂々とした声を堂内に響かせる。
「アンネ。君の所業は王国の信頼を揺るがす重大な罪だ。よって、本日をもって君は私の婚約者の座を失う。また、侯爵家としての地位も……剥奪する」
「まあ、なんというお話……! お姉様が哀れでなりませんわ! 殿下、せめてお慈悲を」
「おお、なんという姉想いの優しいセレス。どのような慈悲を所望する?」
セレスティアが芝居がかった仕草でルシアードに縋りつく。二人の茶番を、アンネリーゼは半目で眺めていた。……慈悲。そんなもの不要であるのに。嫌な予感しかしない。
案の定、セレスティアが猫なで声で口を添える。
「お姉様をわたくしの側仕えにしてくださいませ。お姉様の聖獣はわたくしが責任を持って管理・監視いたしますわ」
「おお、それは良き案だな、セレス。僕は、いずれ君を新たな婚約者として迎えようと思っているんだ。未来の王妃となる君が、アンネと聖獣を見ていてくれるのならば安心だ」
(冗談じゃない! 私を管理下に置いて、体よく聖獣の力を利用しようとしているだけじゃない! ここにいては駄目。私の聖獣を守るためにも、すぐにここを立ち去らないと)
アンネリーゼは深く息を吸う。もうこの王国にも家族にも未練はなかった。
自分の居場所は、もうここにはないのだ。
「殿下、セレス。そのお話ですが、お受けすることはできません」
「まあ、お姉様、どうしてですの? わたくし、哀れなお姉様のせめてもの力になれたらと思いましたのに……」
セレスティアのわざとらしい物言い。アンネリーゼの心が急激に冷えてくる。
彼女には、姉に対する優しさなど欠片もないのだろう。いかにアンネリーゼを陥れるか、自分が優位に立つかしか頭にない。異母姉妹とはいえ、たったひとりの妹。自分としては、妹のことを気遣ってきたつもりだった。国の王太子と婚約することで、妹や、侯爵家を安泰させ、守ることができると思っていた。けれどもそれは、逆効果だったのだ……。
アンネリーゼは、ルシアードやセレスティアに決別する。
「哀れ……ですって? いいえ、わたくしにとってはようやく『自由』を得た瞬間です」
「……なに?」
「わたくしはずっと、陛下や国、そして殿下に仕えることこそが、聖獣使いであるわたくしの務めだと信じて来ました。けれども、わたくしが間違っていたようです。いつの世も、真実よりも都合が優先されるものですから」
言葉の端々に棘を込めて言う。婚礼式という祝福の場で、ここまでの仕打ちを受けたのだ。しかも前世の自分にとっては、ウエディングは自分の仕事にしていたくらいに大切なもの。好きなもの。それを台無しにされたこと、断じて許すわけにはいかなかった。
***
アンネリーゼは毅然と顎を上げる。
「わたくしは、これ以上あなた方の装飾品ではいられません」
「な、なんだと……!」
「本日をもちまして、エルディナ侯爵家の長女、アンネリーゼ・フォン・エルディナは、この国を去ります。お望みどおり――王家と関わりを断ちましょう」
「え――」
絶句しているルシアードと共に、セレスティアも青ざめる。まさかアンネリーゼが側仕えの提案を断るとは思っていなかったのだろう。そしてアンネリーゼ自ら国外追放を申し出ることも。アンネリーゼが国を去るとなれば、聖獣ユニコーンの加護もまた国から消失することになる。それは二人にとって不本意だったのだろう。
(それはそうよね。私が聖獣の力を私利私欲で用いているなんて、まったくの嘘っぱちなんだから)
けれども、後悔してももう遅い。アンネリーゼはもう、ルシアードのこともセレスティアのことも、この国ことも見限っていた。
もう言うことはないと、アンネリーゼはドレスの裾を持ち上げる。
「それでは皆様、ごきげんよう。この国に祝福があられますように」
「ア、アンネ! 待っ――」
アンネリーゼは、その場に居合わせた招待客たちに満面の笑みを向ける。狼狽しながら片手を伸ばしてきたルシアードのことはすらりと無視。
その時、アンネリーゼの新しい門出を祝福するかのように、一角獣の白馬が姿を現した。白金のたてがみ。黒曜石のごとき煌めく瞳。アンネリーゼの聖獣、ユニコーンだった。間近で見る聖獣の神々しい姿。招待客たちが息を呑む。
アンネリーゼは、美しいユニコーンにしなやかに手を伸ばす。
「――行きましょう、エルドラン。私たちの居場所は、もうここにはないみたいだから」
「……どこへ行くというの、お姉様?」
「私たちを必要としてくれる場所へ。セレス、ルシアード様とお幸せに」
精いっぱいの晴れやかな笑みをセレスティアに手向ける。この国と婚約者のために尽くしてきたつもりだったけれど、それが無意味だったことは悔しいし、悲しい。けれども、それはもう後悔しても仕方のないこと。これからのことに目を向けよう。もう振り返らない。今は前だけを見るのだ。
アンネリーゼは身を翻すと、自らの聖獣――ユニコーンの背に跨る。名はエルドラン。この世界の『守る者』を意味する言葉から名付けた。馬上の人となったアンネリーゼは、一度だけ場内を振り返る。何かを言おうとしているルシアードとセレスティア。呆然としている招待客たちの姿。アンネリーゼは顔を戻すと、エルドランのたてがみを軽く撫でる。エルドランはそれを合図に、礼拝堂の床石を蹴った。
その途端、エルドランの加護の力なのか、礼拝堂のステンドグラスを通して虹色の光が堂内に差し込む。それは、立ち去っていくアンネリーゼの背を神々しいまでに縁取る。
その姿はきっと――聖獣の加護を私的に利用するような悪ではなく。聖獣に愛された清らかな存在だと、その場にいた者たちに思わせたに違いなかった。
***
聖獣ユニコーン――エルドランの背に跨ったアンネリーゼ。なるべく王都から離れようと、当てもなく馬で駆ける。王国の森林や村々といった見慣れた景色が次々と通り過ぎていく。一角獣の俊足に身を任せながら、アンネリーゼは晴れやかに問いかける。
「良いお天気! これからどこへ行きましょうか、エルドラン?」
『好きにしたらいいんじゃない? もう誰もアンネのことを縛るものはないんだから』
頭の中に、直接エルドランの声が掛けられる。これは念話と呼ばれる聖獣の能力の一つであるらしい。念話は特定の人物のみに聴こえるもので、周囲の人間には聞こえないそうだ。ちなみにエルドランは聖獣の中では年若い。そのため少年のような声をしている。
アンネリーゼは空を見上げる。まるで自分の自由を表すかのような快晴。
「……そうですね。それじゃあ、私たちのことがあまり知られていない所に行きたいです。たとえば、隣国のアルシェリア王国とか? 私はグランディール王国から出たことがないから、この機会に行ってみたいです」
『……隣国か。まあ、いいんじゃない。アンネの知識が役に立つと思うよ』
「どういう意味ですか?」
『ボクが他の聖獣から聞いた話によると、隣国は少子化に悩まされているようだよ。最近、気候変動があってね。気温が急激に大幅に上がったそうだ。その影響で作物の実りも悪くなった。栄養不足から出生率も下がっているらしいね』
「そうなんですか……。深刻な状況だったのですね。私、仮にも王太子の婚約者という立場にありながら隣国の情勢も知らないとは……お恥ずかしい限りです。あ、元婚約者ですけれど」
いたずらっぽく笑って見せる。エルドランが肩を竦める。
『そんなに気に病まなくてもいいんじゃない。自覚があるのなら、これから知っていけばいいだけだよ。キミの言うとおり、もうキミは王太子の婚約者でもなければ、侯爵家の令嬢でもないわけだしね』
「う……。国外追放ですから、家を勘当されたのも同然ですものね。つまり私は、今や何の肩書きもないただの娘ということですね」
『逆に言えば、何のしがらみもないと言えるよ。自由になったんだ。これから自分の知りたいことを知っていけばいいじゃない。ボクも付いているんだからさ』
「うう、ありがとう、エルドラン……! 私にはもうあなただけです!」
『ちょ、苦しいよ!』
アンネリーゼはエルドランの首にしがみつく。エルドランは呻きながらも、どこか嬉しそうだった。
アンネリーゼとエルドランは、じゃれ合いながら広がる草原を駆けてゆく。やがて二人は、グランディール王国とアルシェリア王国の国境にある城塞都市に到着した。
***
白い石壁に青い尖塔がそびえ立つ美しい城塞都市。国境付近の村で簡素な旅装に着替えたアンネリーゼは、エルドランと共に門前にある検閲所にやって来ていた。
槍を携えた門兵が、アンネリーゼを認めて声を掛ける。
「……お嬢さん。旅の目的は?」
「どこかのお屋敷で小間使いとして雇っていただこうと思いまして。グランディール王国よりやってまいりました」
「ふむ。聖獣の加護に守られた隣国から、情勢不安定な我が国へ移り住もうとは……奇特なお嬢さんだ。近頃は街も人手が足りないからな。入国を許可しよう」
「ありがとうございます。力を尽くします」
アンネリーゼは門兵に答え、颯爽と検閲所を潜った。ちなみにエルドランは霧のように姿を消している。聖獣は自分の意思で出たり消えたりすることが可能なのだ。アンネリーゼ自身にもエルドランの姿は見えない。けれど、存在は確かに近くに感じるため安心していた。きちんとアンネリーゼに付いてきているようだ。
検閲所を過ぎ、城下町に足を踏み入れたところで――アンネリーゼは息を呑んだ。石畳の通りに立ち並ぶ商店。そのどれも並べられている商品が少なかった。売り切れているわけではない。商品の陳列棚に埃が積もっているのだ。長らく売り物が並んでいないのだろう。また、通りにある花屋には色がなく、店員が枯れて落ちた花びらを箒で掃いている。結婚指輪を売る宝飾店にも客足はない。この国の人々には、着飾るものを買う余裕がないのだろう。
(なんてこと……。隣国がこんなにも大変な状況だったなんて)
アンネリーゼは、そっと拳を握る。自国で平和ボケしていた自分が恥ずかしい。これはある意味、自国を追放されて良かったのかもしれない。狭かった視野を少しでも広げることができたから。
(――……私に、何かできることはあるでしょうか)
もう誰にも必要とされていない身。この国にやって来たことも運命だろう。自分の特技で、この国の役に立つことはできないだろうか。
アンネリーゼは、石畳の商店街に並ぶ花屋と宝飾店に目をやる。前世でウエディングプランナーをしていた自分には悲しい光景だ。これから結婚式を挙げる新郎新婦の幸せな笑顔が溢れていてほしい場所なのに。
(……ウエディング。そう、私は結婚式が好き。結婚式は『未来を信じる儀式』。この国に活気を取り戻すために、ブライダル分野から力になることはできないかな)
アンネリーゼは顔を上げる。自分にできるとしたら、前世のウエディングプランナーの知識を活かすこと。聖獣エルドランの存在は、混乱を避けるために極力伏せなければならない。聖獣の加護以外でこの国のために自分にできることをしたい。それはきっと、この国の結婚式を盛り上げること。ひいては少子化対策に繋げることだ。
アンネリーゼは腕まくりをする。
「そうと決まれば、まずは商店街をまとめている会長さんに話を通して――」
「――そこの君。見慣れない顔だな。名を名乗ってもらおうか」
後方から声を掛けられ、アンネリーゼは足を止める。振り返ると、栗毛の馬上に一人の男の姿があった。歳は二十代半ばだろうか。落ち着いた黒髪に、切れ長の金茶色の瞳。髪と同色の、黒地に金の縁取りのされた軍服を纏っている。高貴な雰囲気の漂う美丈夫だった。この活気を失ってしまった商店街において、その存在感が際立っている。
(誰――……?)
そうは思ったけれども、アンネリーゼは咄嗟に淑女の礼をしていた。
「……アンネと申します。隣国よりやってまいりました、旅の者です」
「ふむ? どこかで見た顔である気がするが……。まあいい。俺はシグルド・フォン・アルシェリア。この国の王太子だ」
「王太子殿下……」
アンネリーゼは目を見開く。少子化に悩む隣国の王太子。このような所にいるとは、地方巡回の最中ででもあったのだろうか。
これが、アンネリーゼとシグルドの最初の出会い。
アンネリーゼが前世の知識と聖獣の祝福をもってこの国を支える――その第一歩だった。
(完)
その一角で、深青色のベルベッドのドレスを着た侯爵令嬢アンネリーゼは、周囲の華やかな雰囲気を楽しんでいた。
(……どの世界においても、結婚式は良いものね)
招待客の浮足立った雰囲気。祝い事のパーティらしいおめでたい空気。この場にいるだけで幸せな気分になる。
アンネリーゼは目を細めて微笑んだ。
(やっぱり結婚式が好き。前世でウエディングプランナーをやっていたからかな)
アンネリーゼには前世の記憶があった。自分は前世、早瀬千沙という名だった。日本という国で生まれ、結婚式の企画や運営をプロデュースするウエディングプランナーという職に就いていた。自分は元々、イベント事を企画することが好きだった。そして、結婚式という新郎新婦にとって一生に一度の大切な日のお手伝いをして、新郎新婦はもちろん、招待客の喜ぶ顔を見ることが好きだったのだ。それが仕事の原動力であり、やりがいだった。けれど、日々の膨大な仕事に忙殺される余り、生来の一生懸命な性格が災いして頑張りすぎてしまった。ある日、もうすぐ担当する結婚式を迎えるための準備に追われて早起きしたところ――突然胸が苦しくなって昏倒。自分はそのまま生涯を終えたのだ。
(そうして気付いてみたら、この異世界の侯爵令嬢アンネリーゼ・フォン・エルディナに生まれ変わっていたんだよね)
前世の世界とは違う異世界の人間に生まれ変わること。自分は異世界に転生したのだ。おそらく珍しいことに、前世の記憶を持ったまま。
アンネリーゼは、ここグランディール王国の侯爵家の令嬢だ。今年で齢二十二歳になる。緩く波打った亜麻色の髪、くるりと丸い菫色の瞳。自分で言うのもなんだけれど、可憐な容姿であると思う。加えて侯爵令嬢という申し分のない肩書き。自分はずいぶんと恵まれた人物に転生したと思う。何か意図があるのではないかと勘繰るくらいに。
それを裏付ける能力として、自分には生まれた時から聖獣が付いていた。主人を生涯守護するという強力な力を持った神の遣い。自分の場合は一角獣のユニコーンだ。前世ウエディングプランナーだったことを考えると、結婚式を祝福する者の象徴としてユニコーンが選ばれたのかもしれない。
聖獣を従える者はごく僅かで、自分はこの国に安寧と繁栄をもたらす者として重用されていた。
回廊の柱の陰に身を潜めていたことに気付かれたらしい。数人の令嬢がアンネリーゼを取り巻いた。
「アンネリーゼ様、ごきげんよう。まあ、なんて素敵なドレスなのでしょう」
「ありがとうございます。皆様のお召し物も良くお似合いですわ」
「まあ! ありがとうございます。本日の佳き日を皆様と迎えられて幸せですわ」
令嬢たちは、口元に羽扇を当てて優雅に笑う。
本日は、グランディール王国伯爵令嬢の結婚の儀だ。家同士の繋がりのある貴族の招待客が場に集っている。教会での誓約の後は祝宴が控えている。少しでも家柄の良い令息を捕まえようとする令嬢たちの戦場でもあった。
「お集まりの皆様。新郎新婦の儀式の準備が整いました。礼拝堂へお越しください」
伯爵家の執事の声掛けがあり、アンネリーゼは他の令嬢たちと共に堂内に足を踏み入れる。石造りの回廊には、青色を基調としたリボンが幾重にも掛けられ、純白の百合が飾られている。午後の西日を受けて、ステンドグラスの色彩が堂内を鮮やかに彩っていた。厳かな雰囲気の中、招待客たちは順に木製の長椅子に腰掛ける。
アンネリーゼも、自分に宛がわれている席に腰を下ろした。侯爵家の令嬢である自分の席は新婦側の前列だ。新婦のドレス姿がよく見えてありがたい。
(やはり、結婚式の楽しみの一つは新婦のドレス姿よね)
布地の色はもちろんのこと、デザインはどういったものだろう――アンネリーゼは口元に羽扇を当て、新郎新婦の入場を今か今かと待ちかねていた時だった。
「――華やかな席に不躾で申し訳ない。ここにアンネリーゼ・フォン・エルディナ侯爵令嬢はいるか!」
「……? 私ならここにおりますが」
入退場口の観音開きの扉が大きな音を立てて開かれる。そこに姿を現したのは、アンネリーゼが待ち望んでいた新郎新婦ではなかった。自分の婚約者であるこの国の第一王子――ルシアード・フォン・グランディールであった。
アンネリーゼは立ち上がり、ルシアードにドレスを持ち上げて挨拶をする。
「殿下。そのように声を荒げられていかがなさったのですか。殿下もご存知とは思いますが、ここは神聖な礼拝堂でございます。静かに祈りを捧げるべき場所ではないかと」
「そのようなことは分かっている。それよりもアンネ、僕はおまえに言い渡しに来たのだ」
「どのようなことを……でございますか?」
「アンネリーゼ・フォン・エルディナ侯爵令嬢。僕は、貴女との婚約破棄を申し入れる」
え――……?
華やかに響き渡っていたはずの鐘の音。アンネリーゼには、その響きが酷く遠くに聴こえるようだった。
***
「婚約破棄、でございますか……?」
「そうだ。身に覚えがあるだろう」
ルシアードは自信満々に胸を張っている。堂内の招待客たちは、突然のスキャンダルに言葉を失っている。ルシアードと自分の動向を見守るばかりだ。
アンネリーゼは内心溜め息を吐いた。このめでたい日に、何故このような無粋な真似をするのか。そもそも、婚約者に婚約破棄を申し入れられるような謂れはなかった。身に覚えなどあるはずもない。
アンネリーゼは気丈に口もとに扇を当てる。
「わたくしには殿下のおっしゃられている意味が分かりかねます。このような祝いの場で、正式な段階を踏むことなく不意打ちで婚約破棄を申し入れられるなど、いささか常識を欠いていらっしゃるのではありませんか?」
「常識を欠いているのはおまえのほうだ、アンネ。僕は昨日、おまえの妹から密告を受けたのだ。曰く、おまえが聖獣の力を国のためではなく、自分の領地のためだけに使っていると」
「…………は?」
思わず不敬にあたる反応をしてしまった。自分の聖獣はユニコーン。豊穣の力を持つ一角獣は、作物を豊作にする祝福を施すことができる。その恩恵もあって、王国は凶作に見舞われることなく、飢餓になることもなく、豊かな平和を保ってきた。もちろん、アンネリーゼがユニコーンの祝福の力を自分の家の領地のためだけに用いたことはない。まったくの出鱈目だ。それは、この国が豊かであることが証明しているではないか。
(……しかも、殿下にそのような嘘を吹き込んだのは妹?)
アンネリーゼの妹セレスティアは、自分より二つ下の二十歳だ。外見は花のように愛らしいのだが、性格に少々難があった。我儘で傲慢なところがあるのだ。姉である自分が聖獣の加護を受けたことに比べ、セレスティアはその加護を得られなかった。聖獣を従えることが稀なのだから、致し方のないことなのだ。けれども、アンネリーゼは聖獣の加護を得ているおかげで幼少期から何かと重宝され、政略とはいえ殿下の婚約者に選ばれるに至った。それが原因で妹が不遇な扱いを受けることはなかったけれど――それでも妹にとっては、姉は気に喰わない存在だったのかもしれない。
(そもそも、セレスは小さい頃から殿下のことが好きだったから……)
王家と侯爵家は繋がりが強く、アンネリーゼとルシアードとセレスティアは幼い頃からよく一緒に学んだり遊んだりすることが多かった。セレスティアは、外見も良く身分も高いルシアードに自然と憧れていったのだと思う。けれどもルシアードの婚約者に選ばれたのは、己ではなく姉のアンネリーゼだった。セレスティアはきっと、自分の欲しいものは全て姉に奪われてしまうと、自分はきっと姉の陰で生きていくことしかできないのだと思い込んでしまったのかもしれない。特に自意識の高い妹なら尚更。そういった背景があり、姉妹仲は決して良くはなかった。自分は妹を大切にしてきたつもりだったけれど、彼女にとって自分は邪魔者でしかなかったのだ。
(だから、殿下にあることないことを吹き込んだのね。私を陥れるために)
……なんとなく状況が呑み込めてきた。それを裏付けるように、礼拝堂の出入り口にこれ見よがしにセレスティアが姿を現した。髪は亜麻色でアンネリーゼと同じ。けれども、妹の髪は背に流れるようなストレートだ。瞳の色は愛らしい薄桃色。
アンネリーゼと目が合うと、妹は桜色の唇を意地悪く持ち上げた。同情を買うようにルシアードの隣に寄り添う。
「ルシアード様……! わたくしのことを信じてくださってありがとうございます!」
「セレス! もちろんだ! 僕が君のことを信じないわけがないだろう」
妹はうっとりとルシアードを見上げている。彼もまた、妹の猫なで声に手玉に取られているようだ。
(……これは、ルシアード様とセレスは完全に恋人関係にありそう)
自分の知らない間に、二人は逢瀬でも重ねていたのだろう。いずれ国王となったルシアードの妻として、国の繁栄のために聖獣の力を役立てようと思っていたけれど。自分の思い違いであった。馬鹿正直にルシアードのことを信じていた自分が情けなくなる。
それでも一応は、妹の言い分を聞いておきたかった。何故自分が、国のためではなく自分の領地のためだけに聖獣の加護を使っていると思ったのか。
アンネリーゼは、事情を促す視線をセレスティアに向ける。妹は嬉々として笑む。
「お姉様。この場で告発させていただきます。お姉様は、聖獣ユニコーンの豊穣の加護をわたくし達侯爵家の領地にのみ用いておりました。作物が豊作となり、他の貴族たちの領地と経済格差が出るように。それにより、お姉様はルシアード様との婚約を取り付けた。わたくし達エルディナ侯爵家は、王家との婚約によりますます権力を得ますわ」
「……そのような依怙贔屓をしたつもりはないのだけれど。何か証拠でもあるの?」
「しらばくれても無駄ですわ。わたくし見ましたの。昼間、お姉様が領地の境にある麦畑で、胸に手を当てて祈っていらっしゃるのを。ユニコーンの姿は見えませんでしたけれど、お姉様を中心に虹色の光が辺りに広がったのです。それを合図に、作物の葉が一斉に輝きを取り戻したのですわ」
アンネリーゼは額を押さえる。まったく身に覚えがない。言いがかりにも程がある。
「……セレス。それは誤解だわ。私は、一度たりとも家の私有地のためだけに聖獣の力を用いたことはない。きっと、雨上がりの日か何かで、麦の葉にでも付いていた雨粒がキラキラと光って見えただとか――……そういった見間違いの類だと思うわ」
あり得るとしたら、そのような勘違いによるものだろう。自分は、聖獣の加護を国のために役立てられることに誇りを持っていた。国を裏切るような真似はしない。
(そもそも、ユニコーンの姿を見ていないのだから確証を持って言い切れるはずがない)
妹が出鱈目を言っていることは明白だ。彼女の表情や言い方も演技じみている。
反論を試みたアンネリーゼ。セレスティアはわざとらしく目を潤ませる。
「まあ! お姉様はわたくしが嘘を申しているとおっしゃいますの? そうですわよね、聖獣を従えているお姉様のご意見はいつだってわたくしより優先されてまいりましたもの」
「そういう意味で言ったのでは――」
「おお、可哀そうなセレス。アンネ、姉の立場にありながら実の妹の言葉を疑うのか? 淑女にあるまじき醜悪さだな」
「…………」
醜悪さ……。それが仮にも婚約者に向ける言葉だろうか。まるで刃のようだ。
ルシアードとセレスティアは、どんな手を使ってでもアンネリーゼを排除したいのだろう。自分たちが結ばれるために。
(確かに、私はセレスほど愛嬌はないけれど……)
それはそれとして。おそらくルシアードもまた、聖獣の加護を持つアンネリーゼのことを面白く思っていなかったのだろう。腹の内では。国に恒久の繁栄をもたらす聖獣使いは、時と場合によっては王族よりも重宝されるからだ。アンネリーゼのほうがルシアードよりも立場が上――そういった側面が、ルシアードに劣等感を抱かせてしまったのだろう。
(これは、何を言っても無駄かもしれないわ……)
アンネリーゼは嘆息する。どのような言い分も認めてくれないのならば、反論するだけ無駄というものだ。焼け石に水なのだから。それに、このような衆目の場で糾弾されては、濡れ衣とはいえアンネリーゼに良くない噂が立ってしまうだろう。伯爵令嬢の婚儀の日を台無しにしたと。
(だったら、この場は二人の意向に従っておいたほうがいいかもしれないわ。その後の身の振り方は、ゆっくり考えればいいのだから)
アンネリーゼは、諦めにも似た気持ちで思う。
ルシアードとセレスティアの次の言葉を待った。
***
ルシアードは、セレスティアを背に庇う。アンネリーゼと向き合った。
「……アンネ。僕自身としてはとても不本意だ。けれども、聖獣の力を私利私欲のために使う貴女を、いずれ王位を継ぐ僕の妻として迎えるわけにはいかない」
(よく言うわ。不本意なわけがないでしょうに)
アンネリーゼは嘆息する。どんなに無理な言いがかりを付けてでも、彼らはアンネリーゼを排除したいのだろう。ルシアードとしては、アンネリーゼと婚約破棄をしたとしても、同じ侯爵家のセレスティアを娶ったとなれば大義名分は立つ。侯爵家と角が立つこともないだろう。両親がこの場を止めに来ないところを考えても、ルシアードによって既に裏で手を回されているのかもしれない。
(……そもそも、聖獣使いであった母は私が物心つく頃に他界してしまって。今いる母は父と再婚した私にとっては継母。セレスティアとは異母姉妹なんだもの。父は気の強い継母に頭が上がらないようだし、誰も私を助けてなんてくれないわよね)
実の母を亡くしてからというもの、アンネリーゼは家庭内で孤立していた。先に述べたように父は継母に頭が上がらない。継母はアンネリーゼよりも実の娘であるセレスティアを溺愛している。アンネリーゼは家で何かと所在が無く、居場所はなかったのだ。聖獣使いであるという能力だけが、アンネリーゼの価値だった。
――これ以上は、何を言っても無駄だろう。
アンネリーゼは、むしろこの場を早く収めるほうに頭を切り替える。
「……殿下。つまり――わたくしを、罪人として断罪なさるおつもりなのですね?」
「……よ、よく分かっているじゃないか。君は理解が早くて助かるよ」
アンネリーゼに潔く返されるとは思っていなかったのだろう。不意を突かれたのか、ルシアードのほうが狼狽している。礼拝堂は静まり返っている。皆、事の顛末に付いて来られていないようだった。
気を取り直したルシアード。威風堂々とした声を堂内に響かせる。
「アンネ。君の所業は王国の信頼を揺るがす重大な罪だ。よって、本日をもって君は私の婚約者の座を失う。また、侯爵家としての地位も……剥奪する」
「まあ、なんというお話……! お姉様が哀れでなりませんわ! 殿下、せめてお慈悲を」
「おお、なんという姉想いの優しいセレス。どのような慈悲を所望する?」
セレスティアが芝居がかった仕草でルシアードに縋りつく。二人の茶番を、アンネリーゼは半目で眺めていた。……慈悲。そんなもの不要であるのに。嫌な予感しかしない。
案の定、セレスティアが猫なで声で口を添える。
「お姉様をわたくしの側仕えにしてくださいませ。お姉様の聖獣はわたくしが責任を持って管理・監視いたしますわ」
「おお、それは良き案だな、セレス。僕は、いずれ君を新たな婚約者として迎えようと思っているんだ。未来の王妃となる君が、アンネと聖獣を見ていてくれるのならば安心だ」
(冗談じゃない! 私を管理下に置いて、体よく聖獣の力を利用しようとしているだけじゃない! ここにいては駄目。私の聖獣を守るためにも、すぐにここを立ち去らないと)
アンネリーゼは深く息を吸う。もうこの王国にも家族にも未練はなかった。
自分の居場所は、もうここにはないのだ。
「殿下、セレス。そのお話ですが、お受けすることはできません」
「まあ、お姉様、どうしてですの? わたくし、哀れなお姉様のせめてもの力になれたらと思いましたのに……」
セレスティアのわざとらしい物言い。アンネリーゼの心が急激に冷えてくる。
彼女には、姉に対する優しさなど欠片もないのだろう。いかにアンネリーゼを陥れるか、自分が優位に立つかしか頭にない。異母姉妹とはいえ、たったひとりの妹。自分としては、妹のことを気遣ってきたつもりだった。国の王太子と婚約することで、妹や、侯爵家を安泰させ、守ることができると思っていた。けれどもそれは、逆効果だったのだ……。
アンネリーゼは、ルシアードやセレスティアに決別する。
「哀れ……ですって? いいえ、わたくしにとってはようやく『自由』を得た瞬間です」
「……なに?」
「わたくしはずっと、陛下や国、そして殿下に仕えることこそが、聖獣使いであるわたくしの務めだと信じて来ました。けれども、わたくしが間違っていたようです。いつの世も、真実よりも都合が優先されるものですから」
言葉の端々に棘を込めて言う。婚礼式という祝福の場で、ここまでの仕打ちを受けたのだ。しかも前世の自分にとっては、ウエディングは自分の仕事にしていたくらいに大切なもの。好きなもの。それを台無しにされたこと、断じて許すわけにはいかなかった。
***
アンネリーゼは毅然と顎を上げる。
「わたくしは、これ以上あなた方の装飾品ではいられません」
「な、なんだと……!」
「本日をもちまして、エルディナ侯爵家の長女、アンネリーゼ・フォン・エルディナは、この国を去ります。お望みどおり――王家と関わりを断ちましょう」
「え――」
絶句しているルシアードと共に、セレスティアも青ざめる。まさかアンネリーゼが側仕えの提案を断るとは思っていなかったのだろう。そしてアンネリーゼ自ら国外追放を申し出ることも。アンネリーゼが国を去るとなれば、聖獣ユニコーンの加護もまた国から消失することになる。それは二人にとって不本意だったのだろう。
(それはそうよね。私が聖獣の力を私利私欲で用いているなんて、まったくの嘘っぱちなんだから)
けれども、後悔してももう遅い。アンネリーゼはもう、ルシアードのこともセレスティアのことも、この国ことも見限っていた。
もう言うことはないと、アンネリーゼはドレスの裾を持ち上げる。
「それでは皆様、ごきげんよう。この国に祝福があられますように」
「ア、アンネ! 待っ――」
アンネリーゼは、その場に居合わせた招待客たちに満面の笑みを向ける。狼狽しながら片手を伸ばしてきたルシアードのことはすらりと無視。
その時、アンネリーゼの新しい門出を祝福するかのように、一角獣の白馬が姿を現した。白金のたてがみ。黒曜石のごとき煌めく瞳。アンネリーゼの聖獣、ユニコーンだった。間近で見る聖獣の神々しい姿。招待客たちが息を呑む。
アンネリーゼは、美しいユニコーンにしなやかに手を伸ばす。
「――行きましょう、エルドラン。私たちの居場所は、もうここにはないみたいだから」
「……どこへ行くというの、お姉様?」
「私たちを必要としてくれる場所へ。セレス、ルシアード様とお幸せに」
精いっぱいの晴れやかな笑みをセレスティアに手向ける。この国と婚約者のために尽くしてきたつもりだったけれど、それが無意味だったことは悔しいし、悲しい。けれども、それはもう後悔しても仕方のないこと。これからのことに目を向けよう。もう振り返らない。今は前だけを見るのだ。
アンネリーゼは身を翻すと、自らの聖獣――ユニコーンの背に跨る。名はエルドラン。この世界の『守る者』を意味する言葉から名付けた。馬上の人となったアンネリーゼは、一度だけ場内を振り返る。何かを言おうとしているルシアードとセレスティア。呆然としている招待客たちの姿。アンネリーゼは顔を戻すと、エルドランのたてがみを軽く撫でる。エルドランはそれを合図に、礼拝堂の床石を蹴った。
その途端、エルドランの加護の力なのか、礼拝堂のステンドグラスを通して虹色の光が堂内に差し込む。それは、立ち去っていくアンネリーゼの背を神々しいまでに縁取る。
その姿はきっと――聖獣の加護を私的に利用するような悪ではなく。聖獣に愛された清らかな存在だと、その場にいた者たちに思わせたに違いなかった。
***
聖獣ユニコーン――エルドランの背に跨ったアンネリーゼ。なるべく王都から離れようと、当てもなく馬で駆ける。王国の森林や村々といった見慣れた景色が次々と通り過ぎていく。一角獣の俊足に身を任せながら、アンネリーゼは晴れやかに問いかける。
「良いお天気! これからどこへ行きましょうか、エルドラン?」
『好きにしたらいいんじゃない? もう誰もアンネのことを縛るものはないんだから』
頭の中に、直接エルドランの声が掛けられる。これは念話と呼ばれる聖獣の能力の一つであるらしい。念話は特定の人物のみに聴こえるもので、周囲の人間には聞こえないそうだ。ちなみにエルドランは聖獣の中では年若い。そのため少年のような声をしている。
アンネリーゼは空を見上げる。まるで自分の自由を表すかのような快晴。
「……そうですね。それじゃあ、私たちのことがあまり知られていない所に行きたいです。たとえば、隣国のアルシェリア王国とか? 私はグランディール王国から出たことがないから、この機会に行ってみたいです」
『……隣国か。まあ、いいんじゃない。アンネの知識が役に立つと思うよ』
「どういう意味ですか?」
『ボクが他の聖獣から聞いた話によると、隣国は少子化に悩まされているようだよ。最近、気候変動があってね。気温が急激に大幅に上がったそうだ。その影響で作物の実りも悪くなった。栄養不足から出生率も下がっているらしいね』
「そうなんですか……。深刻な状況だったのですね。私、仮にも王太子の婚約者という立場にありながら隣国の情勢も知らないとは……お恥ずかしい限りです。あ、元婚約者ですけれど」
いたずらっぽく笑って見せる。エルドランが肩を竦める。
『そんなに気に病まなくてもいいんじゃない。自覚があるのなら、これから知っていけばいいだけだよ。キミの言うとおり、もうキミは王太子の婚約者でもなければ、侯爵家の令嬢でもないわけだしね』
「う……。国外追放ですから、家を勘当されたのも同然ですものね。つまり私は、今や何の肩書きもないただの娘ということですね」
『逆に言えば、何のしがらみもないと言えるよ。自由になったんだ。これから自分の知りたいことを知っていけばいいじゃない。ボクも付いているんだからさ』
「うう、ありがとう、エルドラン……! 私にはもうあなただけです!」
『ちょ、苦しいよ!』
アンネリーゼはエルドランの首にしがみつく。エルドランは呻きながらも、どこか嬉しそうだった。
アンネリーゼとエルドランは、じゃれ合いながら広がる草原を駆けてゆく。やがて二人は、グランディール王国とアルシェリア王国の国境にある城塞都市に到着した。
***
白い石壁に青い尖塔がそびえ立つ美しい城塞都市。国境付近の村で簡素な旅装に着替えたアンネリーゼは、エルドランと共に門前にある検閲所にやって来ていた。
槍を携えた門兵が、アンネリーゼを認めて声を掛ける。
「……お嬢さん。旅の目的は?」
「どこかのお屋敷で小間使いとして雇っていただこうと思いまして。グランディール王国よりやってまいりました」
「ふむ。聖獣の加護に守られた隣国から、情勢不安定な我が国へ移り住もうとは……奇特なお嬢さんだ。近頃は街も人手が足りないからな。入国を許可しよう」
「ありがとうございます。力を尽くします」
アンネリーゼは門兵に答え、颯爽と検閲所を潜った。ちなみにエルドランは霧のように姿を消している。聖獣は自分の意思で出たり消えたりすることが可能なのだ。アンネリーゼ自身にもエルドランの姿は見えない。けれど、存在は確かに近くに感じるため安心していた。きちんとアンネリーゼに付いてきているようだ。
検閲所を過ぎ、城下町に足を踏み入れたところで――アンネリーゼは息を呑んだ。石畳の通りに立ち並ぶ商店。そのどれも並べられている商品が少なかった。売り切れているわけではない。商品の陳列棚に埃が積もっているのだ。長らく売り物が並んでいないのだろう。また、通りにある花屋には色がなく、店員が枯れて落ちた花びらを箒で掃いている。結婚指輪を売る宝飾店にも客足はない。この国の人々には、着飾るものを買う余裕がないのだろう。
(なんてこと……。隣国がこんなにも大変な状況だったなんて)
アンネリーゼは、そっと拳を握る。自国で平和ボケしていた自分が恥ずかしい。これはある意味、自国を追放されて良かったのかもしれない。狭かった視野を少しでも広げることができたから。
(――……私に、何かできることはあるでしょうか)
もう誰にも必要とされていない身。この国にやって来たことも運命だろう。自分の特技で、この国の役に立つことはできないだろうか。
アンネリーゼは、石畳の商店街に並ぶ花屋と宝飾店に目をやる。前世でウエディングプランナーをしていた自分には悲しい光景だ。これから結婚式を挙げる新郎新婦の幸せな笑顔が溢れていてほしい場所なのに。
(……ウエディング。そう、私は結婚式が好き。結婚式は『未来を信じる儀式』。この国に活気を取り戻すために、ブライダル分野から力になることはできないかな)
アンネリーゼは顔を上げる。自分にできるとしたら、前世のウエディングプランナーの知識を活かすこと。聖獣エルドランの存在は、混乱を避けるために極力伏せなければならない。聖獣の加護以外でこの国のために自分にできることをしたい。それはきっと、この国の結婚式を盛り上げること。ひいては少子化対策に繋げることだ。
アンネリーゼは腕まくりをする。
「そうと決まれば、まずは商店街をまとめている会長さんに話を通して――」
「――そこの君。見慣れない顔だな。名を名乗ってもらおうか」
後方から声を掛けられ、アンネリーゼは足を止める。振り返ると、栗毛の馬上に一人の男の姿があった。歳は二十代半ばだろうか。落ち着いた黒髪に、切れ長の金茶色の瞳。髪と同色の、黒地に金の縁取りのされた軍服を纏っている。高貴な雰囲気の漂う美丈夫だった。この活気を失ってしまった商店街において、その存在感が際立っている。
(誰――……?)
そうは思ったけれども、アンネリーゼは咄嗟に淑女の礼をしていた。
「……アンネと申します。隣国よりやってまいりました、旅の者です」
「ふむ? どこかで見た顔である気がするが……。まあいい。俺はシグルド・フォン・アルシェリア。この国の王太子だ」
「王太子殿下……」
アンネリーゼは目を見開く。少子化に悩む隣国の王太子。このような所にいるとは、地方巡回の最中ででもあったのだろうか。
これが、アンネリーゼとシグルドの最初の出会い。
アンネリーゼが前世の知識と聖獣の祝福をもってこの国を支える――その第一歩だった。
(完)


