王宮薬房。
リディアは、薬草の在庫を確認していた。
棚の前で、羊皮紙にメモを取る。
周囲では、下級薬師たちが作業をしている。
薬草を煎じる音。
乳鉢で薬草をすり潰す音。
静かな、日常。
その時。
悲鳴が、聞こえた。
「マリ! マリ!」
リディアは、振り向いた。
薬房の奥で、誰かが倒れている。
下級薬師の少女、マリだ。
リディアは、駆け寄った。
マリは、床に倒れていた。
顔が、真っ赤だ。
汗が、額から流れている。
体が、痙攣している。
「マリ! どうしたの!」
リディアは、マリの体を支えた。
マリは、うわ言を言っている。
「熱い……苦しい……」
リディアは、マリの額に手を当てた。
高熱だ。
そして、痙攣。
リディアは、前世の知識を総動員した。
これは——急性中毒症状だ。
リディアは、周囲を見回した。
「誰か、セレナ様を呼んで!」
下級薬師の一人が、駆け出した。
リディアは、マリの脈を取った。
速い。
不規則だ。
危険だ。
このままでは、マリは死ぬ。
リディアは、マリの口を開けた。
舌を確認する。
紫色に変色している。
やはり、中毒だ。
何かの、毒物を摂取した。
その時。
セレナが、薬房に入ってきた。
「何事?」
セレナは、マリを見下ろした。
リディアは、セレナに言った。
「セレナ様、マリが急病です! 解毒薬が必要です!」
セレナは、冷たく言った。
「急病? ただの魔力不足でしょう」
「いえ、これは中毒症状です!」
セレナは、眉をひそめた。
「中毒? 何を根拠に?」
「症状が、明らかに中毒です。高熱、痙攣、舌の変色——」
セレナは、鼻で笑った。
「リディア、あなた素人でしょう? これは魔力不足よ。放っておけば、自然に治る」
「ですが——」
「放っておけ、と言っているの」
セレナは、冷酷に言い放った。
そして、踵を返し、薬房を出て行った。
リディアは、愕然とした。
放っておけ。
マリを、見殺しにしろと? 
リディアは、唇を噛みしめた。
絶対に、許さない。
リディアは、立ち上がった。
「誰か、マリをベッドに運んで!」
下級薬師たちは、戸惑っていた。
「ですが、セレナ様が——」
「私が責任を取る! 早く!」
リディアの声に、下級薬師たちは動いた。
マリを、薬房の隅のベッドに運ぶ。
リディアは、薬棚に駆け寄った。
解毒薬。
前世の知識で、中毒の解毒法を思い出す。
活性炭——毒物を吸着する。
この世界では——黒い苔だ。
リディアは、黒い苔を取り出した。
そして、乳鉢ですり潰す。
水を加え、ペースト状にする。
リディアは、それをマリの口に流し込んだ。
「マリ、飲んで」
マリは、意識が朦朧としている。
だが、リディアが口を開けさせ、無理やり飲ませた。
次に、利尿作用のある薬草。
白い花だ。
リディアは、それを煎じた。
急いで、急いで。
リディアの手が、震えている。
だが、止まらなかった。
白い花の煎じ薬ができた。
リディアは、それもマリに飲ませた。
そして、待った。
下級薬師たちが、固唾を呑んで見守っている。
時間が、過ぎる。
10分。
20分。
マリの痙攣が、止まった。
顔色が、少しずつ良くなっている。
リディアは、マリの脈を取った。
落ち着いてきている。
リディアは、安堵した。
そして——。
マリが、目を開けた。
「リディア……様……?」
「マリ! よかった!」
リディアは、マリの手を握った。
マリは、涙を浮かべた。
「私……死ぬところ、でした……」
「もう大丈夫よ」
マリは、リディアの手を強く握った。
「命を……救ってくれた……ありがとうございます……」
マリは、泣いた。
リディアも、涙が込み上げた。
「よかった……本当によかった……」
周囲の下級薬師たちが、ざわめいた。
「リディア様が、マリを救った……」
「セレナ様は、放っておけと言ったのに……」
「リディア様、すごい……」
下級薬師たちが、リディアを見る目が変わった。
尊敬。
感謝。
リディアは、彼らの視線を感じた。
一人の下級薬師が、リディアに近づいた。
「リディア様、ありがとうございます。マリは、私たちの大切な仲間です」
他の下級薬師たちも、頭を下げた。
「ありがとうございます」
リディアは、彼らを見た。
そして、微笑んだ。
「私は、当たり前のことをしただけよ」
だが、心の中で、リディアは思った。
これが、第一歩だ。
味方を、作る第一歩。
数日後。
王宮の廊下を歩いていると、リディアは囁き声を聞いた。
「リディア様が、マリを救ったそうよ」
「本当に? セレナ様が見放したのに?」
「ええ。リディア様の薬で、マリは回復したんですって」
リディアは、足を止めた。
使用人たちが、廊下の隅で話している。
彼女たちは、リディアに気づいていない。
「リディア様、すごいわね」
「ええ。実は、とても優秀な薬師なのかもしれないわ」
リディアは、静かに歩き続けた。
噂が、広がっている。
マリが、リディアの治療技術を語ったのだろう。
リディアは、微笑んだ。
これでいい。
少しずつ、リディアの評判が上がっていく。
リディアは、薬房へ向かった。
薬房に入ると、マリが迎えてくれた。
「リディア様!」
マリは、元気そうだ。
顔色も良い。
「マリ、体の調子はどう?」
「はい! おかげさまで、すっかり元気です!」
マリは、嬉しそうに微笑んだ。
「本当に、ありがとうございました。リディア様のおかげで、命を救われました」
「よかったわ」
マリは、リディアに近づいた。
そして、小声で言った。
「リディア様、実は……皆、リディア様のことを話しているんです」
「皆?」
「はい。使用人たちや、下級薬師たち。リディア様がどんなに優秀な薬師か、って」
リディアは、頷いた。
「そう」
「それに……」
マリは、さらに声を潜めた。
「貴族の方々も、興味を持ち始めているみたいです」
リディアは、眉をひそめた。
「貴族?」
「はい。私、聞いたんです。ある貴族夫人が、リディア様に診てもらいたいって」
リディアは、息を呑んだ。
貴族が、リディアに? 
その日の午後。
リディアは、ある貴族夫人の部屋に招かれた。
部屋は、豪華だ。
金色の装飾が、至る所に施されている。
貴族夫人は、ソファに座っていた。
中年の、上品な女性だ。
「リディア様、お越しいただき、ありがとうございます」
リディアは、頭を下げた。
「お招きいただき、光栄です」
夫人は、リディアに座るよう促した。
リディアは、ソファに座った。
夫人は、真剣な顔で言った。
「実は、娘のことで、ご相談したいのです」
「お嬢様が?」
「はい。娘は、幼い頃から持病を抱えています。頭痛と、めまい。どの薬師も、治せませんでした」
夫人の目が、潤んだ。
「ですが、リディア様がマリを救ったと聞いて……もしかしたら、娘も救っていただけるのではないかと」
リディアは、頷いた。
「お嬢様を、診察させていただけますか?」
「ぜひ、お願いします」
夫人は、娘を呼んだ。
若い娘が、部屋に入ってきた。
15歳くらいだろうか。
顔色が、悪い。
リディアは、娘に近づいた。
「失礼します」
リディアは、娘の脈を取った。
そして、前世の知識で診断する。
血行不良。
栄養不足。
リディアは、娘に質問した。
「食欲は、ありますか?」
「いいえ……あまり……」
「めまいは、いつ起こりますか?」
「立ち上がった時や、階段を上る時です……」
リディアは、診断を確定した。
貧血だ。
この世界では、魔力不足と診断されているのだろう。
だが、実際は鉄分不足による貧血だ。
リディアは、夫人に言った。
「お嬢様は、貧血です」
「貧血……?」
「はい。鉄分が不足しているのです。適切な食事と、補助薬で治ります」
夫人は、目を見開いた。
「本当ですか!」
リディアは、頷いた。
「はい。私が、薬を処方します」
リディアは、薬房に戻り、鉄分を多く含む薬草を調合した。
赤い実と、緑の葉。
そして、それを夫人に渡した。
「これを、毎日お嬢様に飲ませてください」
夫人は、感激した。
「ありがとうございます、リディア様!」
数週間後。
夫人から、手紙が届いた。
「娘が回復しました。頭痛もめまいも、なくなりました。本当に、ありがとうございます」
リディアは、手紙を読んで微笑んだ。
噂は、さらに広がった。
貴族たちの間で、リディアの名前が囁かれるようになった。
「リディア・アーシェンフェルトは、優秀な薬師らしい」
「セレナ様とは、違う方法で治療するそうよ」
リディアは、それを聞いて、心の中で呟いた。
小さな信頼の、積み重ね。
それが、リディアの武器だ。
ある日。
リディアは、カイル邸を訪れた。
エリスに、薬を届けるためだ。
カイルが、応接室でリディアを待っていた。
リディアは、カイルに頭を下げた。
「カイル様」
カイルは、リディアを見た。
そして、珍しく口を開いた。
「お前の評判が、上がっている」
リディアは、驚いた。
「評判……?」
「ああ。王宮で、お前が何人かの病人を救ったと聞いた」
カイルは、わずかに頷いた。
「悪くない」
リディアは、胸が温かくなった。
カイルが、褒めてくれた。
リディアは、微笑んだ。
「ありがとうございます」
カイルは、再び無表情に戻った。
「だが、油断するな。まだ、娘は完治していない」
「はい。わかっています」
リディアは、決意を新たにした。
小さな信頼の、積み重ね。
それが、やがて大きな力になる。
リディアは、自信を取り戻していた。
カイル邸。
リディアは、エリスの部屋に入った。
いつものように、薬を持ってきた。
だが、今日は違った。
エリスが、ベッドに座っていた。
横たわっているのではなく、座っている。
リディアは、驚いた。
「エリスちゃん!」
エリスは、リディアを見て微笑んだ。
「リディア先生!」
エリスの声が、明るい。
以前よりも、元気だ。
リディアは、エリスに近づいた。
「エリスちゃん、体の調子はどう?」
「うん! すごくいいの!」
エリスは、嬉しそうに言った。
「今日ね、ベッドから起きられたの!」
リディアは、胸が熱くなった。
「本当! よかった!」
エリスは、リディアの手を取った。
「リディア先生のおかげだよ!」
その時。
部屋の扉が、開いた。
カイルが、入ってきた。
カイルは、エリスを見た。
そして、立ち止まった。
目を、見開いている。
エリスは、カイルに向かって言った。
「パパ! 見て! 私、ベッドから起きられたの!」
カイルは、動かなかった。
ただ、エリスを見つめている。
エリスは、さらに言った。
「パパ、お散歩に行きたい! 庭を、一緒に歩きたいの!」
エリスの顔が、笑顔で輝いている。
カイルは、息を呑んだ。
そして、ゆっくりとエリスに近づいた。
エリスの前に、膝をついた。
カイルは、エリスの顔を見つめた。
その目には、驚愕と、喜びが混在していた。
カイルは、言葉を失っていた。
ただ、震える手で、エリスの頬に触れた。
「エリス……」
カイルの声が、震えている。
「本当に……お前……」
エリスは、カイルに抱きついた。
「パパ! 私、元気になったよ!」
カイルは、エリスを抱きしめた。
強く。
まるで、二度と離さないかのように。
カイルの肩が、震えている。
リディアは、その光景を見て、涙が込み上げた。
8年間。
8年間、エリスはベッドに臥せっていた。
8年間、カイルは娘の笑顔を見ることができなかった。
だが、今——。
エリスは、笑っている。
カイルは、娘を抱きしめている。
リディアは、静かに部屋の隅に下がった。
この瞬間は、二人だけのものだ。
しばらくして、カイルはエリスを離した。
そして、リディアの方を向いた。
カイルは、立ち上がり、リディアに近づいた。
「リディア」
カイルの声が、低い。
だが、温かい。
リディアは、カイルを見上げた。
「はい」
カイルは、リディアの目を見た。
「まだ……完治では、ないのか?」
リディアは、頷いた。
「はい。まだ完治ではありません。ですが、順調です」
カイルは、深く息を吐いた。
そして、リディアの手を取った。
リディアは、驚いた。
カイルの手が、リディアの手を包んでいる。
温かい。
カイルは、真剣な眼差しでリディアを見た。
「お前には、感謝しきれない」
リディアは、息を呑んだ。
「カイル様……」
「8年間だ」
カイルの声が、震えた。
「8年間、俺は娘の笑顔を見ることができなかった」
カイルは、エリスを見た。
「だが、お前が来てから、娘は変わった」
カイルは、再びリディアを見た。
「お前は、俺の娘を救ってくれた」
リディアは、戸惑った。
カイルの手の温かさ。
カイルの眼差しの、優しさ。
リディアは、頬が熱くなるのを感じた。
「私は……私がやるべきことを、しただけです」
リディアは、小さく答えた。
カイルは、リディアの手を強く握った。
「いや、お前は奇跡を起こした」
カイルの目が、リディアを見つめている。
「俺は、お前に一生、恩を返しきれない」
リディアは、心臓が高鳴るのを感じた。
だが、その時。
「リディア先生!」
エリスが、ベッドから呼びかけた。
リディアは、カイルから手を離し、エリスの方へ行った。
「何? エリスちゃん」
エリスは、リディアの手を取った。
そして、甘えるように言った。
「リディア先生、ずっと一緒にいてね」
リディアは、微笑んだ。
「ええ、もちろんよ」
エリスは、嬉しそうに笑った。
「約束だよ!」
「約束よ」
リディアは、エリスの頭を撫でた。
カイルは、その光景を見ていた。
無表情だが、その目には、温かさが宿っていた。
リディアは、カイルを見た。
カイルも、リディアを見た。
二人の視線が、交わった。
リディアは、胸が熱くなった。
これが、居場所。
リディアが、求めていた居場所。
リディアは、微笑んだ。