数日後。
リディアは、王宮の外、貴族街を歩いていた。
石畳の道。
両側には、豪華な屋敷が立ち並んでいる。
リディアは、一枚の名刺を手に持っていた。
カイル・ヴァレンティス侯爵の、名刺。
住所を確認しながら、歩く。
そして、ある屋敷の前で、立ち止まった。
重厚な、石造りの館。
高い、鉄の門。
門の向こうに、広い庭が見える。
だが、庭には花が少ない。
手入れはされているが、どこか寂しい雰囲気だ。
リディアは、門の前に立った。
深呼吸をする。
緊張が、全身を包む。
だが、リディアは引かなかった。
リディアは、門のベルを鳴らした。
しばらくして、門番が現れた。
「ご用件は?」
「リディア・アーシェンフェルトと申します。カイル侯爵様に、お呼ばれしております」
門番は、リディアを見た。
そして、頷いた。
「お待ちしておりました。どうぞ」
門が、開いた。
リディアは、中に入った。
庭を通り、玄関へ。
玄関の扉が開き、執事が現れた。
「リディア様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
執事は、リディアを中へ案内した。
館の中は、静かだった。
廊下は、冷たい石の床。
壁には、古い絵画が飾られている。
だが、どの絵も、暗い色調だ。
リディアは、執事の後を歩いた。
この屋敷は、冷酷な侯爵の評判通りの雰囲気だ。
威圧感がある。
まるで、訪問者を拒むかのような。
リディアは、唇を噛んだ。
だが、前回の人生で、リディアはこの屋敷を知っている。
この冷たい雰囲気の裏に、カイルの深い愛がある。
娘への、愛。
亡き妻への、悔恨。
リディアは、それを知っている。
執事が、ある扉の前で立ち止まった。
「こちらが、応接室でございます」
執事は、扉をノックした。
「リディア様が、お見えになりました」
「入れ」
カイルの声が、中から聞こえた。
執事が、扉を開けた。
リディアは、中に入った。
応接室は、質素だった。
豪華な装飾はない。
ただ、重厚な木製の家具が置かれているだけだ。
窓からは、庭が見える。
そして、部屋の奥、椅子に座っている男。
カイル・ヴァレンティス侯爵。
銀髪。
隻眼。
無表情で、リディアを見ている。
リディアは、深呼吸をした。
そして、カイルに向かって頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
カイルは、何も言わなかった。
ただ、手で椅子を指し示した。
リディアは、その椅子に座った。
カイルとの間に、木製のテーブルがある。
カイルは、リディアを見つめている。
その目は、鋭い。
まるで、リディアの全てを見透かすかのような。
リディアは、緊張を隠した。
そして、口を開いた。
「侯爵様、お嬢様の症状を、詳しく教えてください」
カイルは、眉をひそめた。
「お前、本気で娘を治すつもりか?」
「はい」
リディアは、カイルの目を見て答えた。
カイルは、冷たく笑った。
「8年間だ」
「……はい」
「8年間、どの薬師も治せなかった」
カイルの声が、低くなる。
「宮廷薬師長も、来た。有名な薬師たちも、来た。だが、誰も娘を救えなかった」
カイルは、リディアを睨んだ。
「お前に、何ができる?」
リディアは、拳を握った。
挑発的だ。
だが、リディアは理解している。
カイルは、絶望している。
何人もの薬師に裏切られ、娘の病は治らず、希望を失っている。
だから、リディアを試している。
リディアは、静かに答えた。
「私には、方法があります」
「方法?」
「はい。ですが、まずはお嬢様を診察させてください。症状を正確に把握しなければ、治療法を確定できません」
カイルは、しばらくリディアを見つめていた。
沈黙が、部屋を満たす。
リディアは、息を潜めた。
カイルは、何を考えているのか。
信じてくれるのか。
それとも、追い出されるのか。
リディアは、祈るような気持ちで待った。
そして——。
カイルは、立ち上がった。
「ついて来い」
リディアは、驚いた。
「はい!」
リディアは、急いで立ち上がった。
カイルは、部屋を出た。
リディアは、その後を追った。
廊下を歩く。
カイルは、無言だ。
リディアも、何も言わなかった。
ただ、カイルの背中を見つめながら、歩いた。
カイルは、ある扉の前で立ち止まった。
そして、リディアを見た。
「娘の部屋だ」
リディアは、頷いた。
カイルは、扉をノックした。
「エリス、客人だ」
返事はない。
カイルは、扉を開けた。
リディアは、息を呑んだ。
部屋の中が、見える。
そして、ベッドに横たわる、小さな姿が。
部屋の中は、明るかった。
窓から、柔らかな日差しが差し込んでいる。
だが、部屋には、病の気配が漂っていた。
薬草の匂い。
消毒の匂い。
そして、静寂。
リディアは、部屋の中に入った。
ベッドが、部屋の中央に置かれている。
白い、天蓋付きのベッド。
そして、そこに横たわる、小さな姿。
リディアは、息を呑んだ。
エリス。
カイルの、一人娘。
リディアは、エリスを見つめた。
銀色の髪が、枕に広がっている。
青白い顔。
頬は、こけている。
細い体。
毛布の上から見ても、その小ささがわかる。
だが——。
エリスの瞳は、澄んでいた。
青い、透き通るような瞳。
エリスは、リディアを見た。
そして、小さく微笑んだ。
「あなたが、新しい薬師さん?」
エリスの声は、か細い。
だが、優しい。
リディアは、ベッドに近づいた。
「はい。リディアと言います」
「リディア……」
エリスは、リディアの名前を繰り返した。
「綺麗な名前ね」
リディアは、微笑んだ。
「ありがとう。あなたは、エリスちゃんね」
「うん」
エリスは、頷いた。
リディアは、エリスの横に座った。
そして、静かに言った。
「エリスちゃん、手を貸してくれる?」
エリスは、小さな手を差し出した。
リディアは、その手を取った。
冷たい。
そして、細い。
リディアは、エリスの脈を取った。
前世の知識を使う。
脈拍を数える。
弱い。
不規則だ。
リディアは、エリスの額に手を当てた。
体温を確認する。
微熱がある。
だが、高熱ではない。
リディアは、エリスの目を見た。
「エリスちゃん、体のどこが一番辛い?」
エリスは、少し考えた。
「えっとね……全部、かな」
エリスは、困ったように笑った。
「いつも、体がだるいの。それに、時々、頭が痛くなるの」
リディアは、頷いた。
「息は苦しい?」
「うん。時々ね」
「食欲は?」
「あんまり、ないの」
リディアは、エリスの症状を確認していった。
前回の人生と、同じだ。
魔力過多による、自己免疫暴走。
エリスの体は、魔力を制御できず、自分自身を攻撃している。
だが、治療法はある。
リディアは、それを知っている。
リディアは、エリスの手を優しく握った。
「エリスちゃん、大丈夫。私が、必ず治してあげる」
エリスは、目を見開いた。
「本当?」
「本当よ」
エリスは、涙を浮かべた。
「ありがとう……リディア先生」
リディアは、エリスの頭を撫でた。
「先生だなんて、そんな」
「でも、リディア先生は、優しいもの」
エリスは、微笑んだ。
そして、ベッドの奥を見た。
カイルが、扉の近くに立っている。
無表情だ。
だが、その目は、エリスを見つめている。
エリスは、カイルに向かって言った。
「パパ、リディア先生、いい人だよ」
カイルは、何も言わなかった。
ただ、わずかに頷いた。
エリスは、リディアに囁いた。
「パパはね、いつも怖い顔してるけど、本当は優しいの」
リディアは、微笑んだ。
「そうなのね」
「うん。パパは、私のこと、すごく心配してくれるの」
エリスの目が、優しく輝いた。
「だから、私、早く元気になりたいの。パパを、安心させてあげたいの」
リディアは、胸が熱くなった。
エリスは、こんなに幼いのに、父親を思いやっている。
リディアは、エリスの手を握った。
「大丈夫。必ず、元気にしてあげる」
エリスは、微笑んだ。
「ありがとう、リディア先生」
リディアは、立ち上がった。
そして、カイルの方を向いた。
カイルは、無表情のまま、リディアを見ている。
リディアは、深呼吸をした。
そして、言った。
「侯爵様、診断結果を報告します」
カイルは、頷いた。
リディアは、続けた。
「エリス様の病は、魔力過多による自己免疫暴走です」
カイルは、眉をひそめた。
「魔力過多……?」
「はい。エリス様の体は、魔力を制御できていません。そのため、体が自分自身を攻撃しているのです」
カイルは、息を呑んだ。
「それは……治るのか?」
リディアは、カイルの目を見て、はっきりと答えた。
「はい。治療可能です」
カイルは、目を見開いた。
「本当か?」
「はい。時間はかかりますが、私の方法なら、必ず治せます」
リディアは、自信を持って言った。
カイルは、しばらくリディアを見つめていた。
その目には、驚き、疑念、そして——わずかな希望が浮かんでいた。
カイルは、小さく呟いた。
「本当に……治せるのか……」
リディアは、頷いた。
「はい。お任せください」
カイルは、エリスの方を見た。
エリスは、ベッドで微笑んでいる。
カイルは、再びリディアを見た。
そして、静かに言った。
「頼む」