「せ、責任は取る!」
「……はい?」
私、アシュリー・モートンは言われた言葉に首を傾げた。思い詰めた表情をして変な姿勢をしている目の前の相手は、友人としてそれなりに付き合いのある男性だ。隣領の紋章がついた、黒い騎士の制服。普段は綺麗にするよう気をつけているそれが、雨上がりの泥で汚れるのにも構わず、地面に手足をついて頭を垂れている。短く整えられた黒髪も、もう少し頭を下げたら地面に着いてしまうだろう。とても、二十七歳の大の男――普通なら妻を迎え、子供でもいそうな年齢の男がやることではない。
「うー?」
腕の中の赤ちゃんは、そんな光景を不思議そうに見ていた。そういえば、この子がこの家に来てから初めて見る他人は、彼かもしれない。
「アシュトン卿、顔を上げてくださいな」
普段しない改まった呼び方に、彼の背がびくりと跳ねた。普段はそれなりに整っている顔も、しおれた犬のような表情と泥で台無し。こんな顔でも、「美貌の騎士様」とはしゃいでいた近くの村の子は顔が整っていると言うのだろうか。何を誤解されていて何の責任を取ろうとしているのかは、少し考えればわかった。
だって腕の中のこの子、どう見ても私の目の色と彼の髪の色をしているのだもの。それでつい、クラウスの顔を思い出して「クリス」という名で呼んでいるのだし。ちなみに身に覚えは全くありません。私は今も清らかな乙女です。二十五と、女としてはいい年だけれど。
「この子は――クリスは、あなたの子ではありません。私の子でもないです。拾い子なの」
とりあえず泥を拭いて中に入って、と招き入れる。本当は布の一枚でも渡せればいいのだけれど、今、乾いている布は、この子のおむつしかなかった。さすがにそんなもので、他人を拭かせるわけにはいかない。洗濯をまとめてできて、気分のいい日だったのに。
それは今から十日前の朝。私がいつものように、朝の水汲みをしようと家を出た時。ふにゃふにゃと泣く声が聞こえたのは、そんな霧の朝のことだった。
「猫の子でもいる、の、かし……!?」
最初は、寝ぼけているのかと思った。夢の類かと思って一度目を擦っても、相変わらず、それはふにゃふにゃと泣いている。
「ど、どこの子で……?」
それは黒い髪に、青い目をした、おくるみにくるまれた子供だった。蓋のない編み籠に入れられていて、本来なら母親に抱かれているはずのそれは、家の扉の横にちょこんと置かれている。私が普通に扉を開け閉めする分には、籠を蹴飛ばしたりしない位置だった。子供は、まだ赤ちゃんと言ってもいいだろう。魔物避けの香が焚いてあるとはいえ、よく無事でいたものだ。周りに人の音はしない。誰が子供をここに置いていったにしろ、それは夜の間のことだろう。
おそるおそる抱き上げると、その子は私の腕の中でくたくたと揺れて、それから泣いた。おくるみは湿っていて、霧の間、もしかしたらずっと置かれていたのかもしれないと思うと血の気が引く。
赤ちゃんの世話なんて、子守の賃仕事をした程度の経験しかない。それでもなんとか抱きしめて軽くゆすると、かわいい顔で笑ってみせた。
「なんだか、私と同じような目をしているわね」
ただ青と呼ぶには少し、緑がかった湖色の瞳。その色は私に似ているが、子供を産んだ覚えは全くない。子供を産んで置いて行くような親族の心当たりも、まったくなかった。もう誰もいない、天涯孤独の身の上なのだから。白く透き通った肌に、ふわふわの黒髪をしていた。
「ちょっとごめんねー」
水汲みを中止して、すぐに赤子を家に入れる。手がかりでもあればと思ったけれど、上等な布のおくるみは無地で、何の模様もついていなかった。どこも怪我もしていない、元気な男の子。本来なら近くの村の、子供を育てたことのある女達に預けるのが正解だろう。でも、この子は私が家の壁に掲げている女神の印の前に置かれていた。……誰かが、女神に縋る思いで置いて行ったのだ。それがわかるだけに、他人の手に渡しにくい。
「それならせめて、勝手に置いていかないで赤ちゃんをよろしくお願いしますの一言くらい……ああ、ごめんごめん!」
ふにゃふにゃと泣いている赤ちゃんはお腹が空いているようだったので、私が飲むつもりでいたミルクを飲ませてあげることにした。目一杯綺麗そうな布をミルクに浸して捻り、赤ちゃんの口に当てがう。ちうちうと吸う音を聞きながら手がかりを探していると、数枚の銀貨と綺麗なペンダントを見つけた。それ以外は、名前を示すものも何もなかった。
「――というわけで、これがそのペンダントよ」
クラウス・アシュトン卿は私が差し出したペンダントを「拝見する」と言って受け取り、驚いた顔をした。クラウスは大体のことが顔に出る実直な男で、それまでもわかりやすく怪しんでいる顔をしていた。しかし、私が出したペンダントは、森に暮らす平民の薬師がおいそれと手に入れられるようなものではない。彼は、それがわからない男ではなかった。
細かい鎖はすべて銀色に光っていて、真ん中には艶々とした石のようなものを組み合わせて、青と白で女神の印を描いたものがぶら下がっている。私も癒し手として、掲げているものと同じ印だ。クラウスの大きい手の中で、パキッ、と小さく石は音を立てる。
「壊したの!?」
「壊してない、ここが開く構造になっていたんだ。……まずいぞ」
開いた中には、別の印が二つ刻まれていた。右の印はどこかで見たことはあるけれど、思い出せない。左側の印は、白百合の花だった。
「トゥルーラの国章に、白百合だ」
「でもトゥルーラ王国って、十年前に滅んでしまったんじゃ……」
優れた薬と医師の技を持っていたという王国は十年前、戦争で滅んだと聞いている。
「だが、王族の一部は逃げ延びたとされている。この白百合をシンボルマークとしていた王女も、確か、生死がわかっていない人の一人だ。アシュリー、この子と首飾りを見た人は?」
「い、いないけど……」
ここしばらくは怪我人や急病人の知らせもなくて、クリスの世話にかかりきりでいられた。近くの村の人々に、声をかけられた記憶もない。
「ならいい」
そう言って咳払いをしたクラウスは、私の前で片膝をついた。大柄な男が、体を小さくして私に跪く。今度の姿勢は、私にも意味がわかった。
「俺の子を育てていてくれていたとは、申し訳ない。責任は取るから、俺と結婚してください」
「今の話聞いてた?」
「頷いて、俺の家に来てくれ。そうでなければ……きっと君とその子は、殺される」
「え……?」
クラウスの顔は真剣だった。こんな真面目な顔をする彼は、数年の付き合いだけれど見たことがない。冗談を言うような男でもないから、殺される、という言葉は彼にとって本気なのだろう。
それでも、私にはわからなかった。クラウスがプロポーズをしてきた理由も、この子と私が殺されるかもしれないと言ってきた理由も。
「確かにあなたは私の友達で、よくお茶を飲みに来てくれたものね。でもあなた、いつも日が暮れる前には、ここを出て行っていたでしょう? といか、殺されるって何?」
「世間体のために一度帰ったふりをして、夜遅くに再訪していたじゃないか」
「クラウス? 話聞いてる? この子は生後半年よ。でも半年前だって、私、思いっきりお腹を締める服装してたわよね? 先月だって赤ちゃんはいなかったわよね?」
私の言葉に、彼は目を泳がせていた。本当に、この人は嘘が苦手なのだ。クラウスは自分自身だって、この子が私達の間に生まれた子だと信じていない。
「君の不名誉にはなってしまうのだけれど、その分、大事にするから」
「あう」
クリスが、クラウスの方に手を伸ばした。興味があるらしい。大丈夫かしら、と心配しながらクリスを近づけてやると、クラウスはいとも簡単に、しかも私より確実に慣れた手つきでクリスを抱き上げた。
「よく笑う、いい子だな。アシュリー、この子のためにも来てくれないか」
確かに色合いだけ見れば、私達三人は、本当の親子のように見えるだろう。でも、だって、と渋る私の横で、クラウスはテキパキと荷造りをしていた。
「ま、待って、うちの貴重な一張羅を乱暴にしないで、自分でやるから!」
「大事なものは全部持っていくんだ。重いものなら俺の馬にも乗せるから。急いでくれ」
やけに急かされても、殺されると言われても、現実味のないまま。私はなんとか失ったら困るものをまとめた。全財産である硬貨と、数冊の薬草についての本、私の個人的な書き付け、干していた薬草の在庫、クリスのミルク壺。いつもお祈りしていた女神像、調剤道具、クリスの持っていた首飾り、それから私の着替えとクリスのおくるみ。最後に、お気に入りのティーポットカバー。
「急いでここを離れて、こっちの――ヴィッテルスバッハの領都に行くんだ。俺の剣にかけて、お前達には手出しをさせない」
「あの、村の人に挨拶を……」
「その時間はない」
こんなに強引なクラウスは初めてで、私は自分の馬のサティーに荷物を積み、サティーとその仔馬のレティーの手綱を持ったクラウスによって、彼の馬に乗せられていた。腕の中には何も知らず、すやすやと眠っているクリス。
「クラウス?」
「急ぐぞ。ちゃんとフードを被っておくんだ」
彼は私の家に何か透明な石を置いて、それに魔法をかけた。生憎と平民の私は魔法がほとんど使えないので、それがどんなものかはわからない。それから馬達と私達にも何かの魔法をかけ、私に何も話してくれないまま、馬を走らせ始めた。
――彼が何を焦っていたのか、わかったのはそれから間もなくのことだった。
「アシュリー」
領境の小川を越え、隣領に入ったところでクラウスはほっと息をつく。
「ここまで来たら、ヴィッテルスバッハだ。もちろんモリス女伯が民を売ることはないだろうが、女伯に話を通している時間はない。ここなら、この紋章の力で二人を守れる」
クラウスはそう言って、胸につけているヴィッテルスバッハの紋章を見せた。本当に悪い人たちがいるとして、彼らはそんなことを気にするのだろうか。そう思いながら、私はがくがくと震える足を草原で休ませた。その横でクラウスは、何かの文と赤いリボンを足につけた、明らかに魔法でできていそうな水晶の鳩を飛ばしている。
そして振り返って指差す先では、明らかに私の家がある場所から、黒煙が上がっていた。
「私の家……」
「俺も、あそこでお茶をする時間が好きだったよ。でも、あそこに残っていたら、燃えるのは家だけじゃない。馬達と、アシュリーとクリスだった。敵は君たちを殺せたと安心しているだろうが、死体がないことに気づかれる前に森を抜けないと」
怖くなって、私はむずがるクリスを抱きしめる。もし本当にこの子に追っ手がいるのなら、この子の親はどうしているのだろうか。
「兄上にさっき、鳩文を飛ばした。兄上達と合流するまでに、表向きの話を擦り合わせたい」
クリスのおしめを替えて抱き直した私に、クラウスはそう言ってきた。
私はモリス女伯領の村娘で、クラウスとは領境の森で出会い、恋に落ちたこと。クラウスの子を身籠もったことに気づき、身を引こうとしたが、母子ともども見つかったこと。クラウスが熱心に口説き落として、ペンダントを贈り、私達を迎えに来たこと。
「クラウス」
「なんだ、アシュリー」
「巡業者の恋愛物語の芝居よりくどい」
「案外、こういう方がウケはいい。兄上には後で、俺から真実はお伝えする」
大丈夫かなあこの人、という視線に気づいたクラウスは、また目を逸らした。クリスに髪を引っ張られて、私は幼い瞳が何の不安もない色をしていることに安堵する。
「クラウスって前から思っていたけれど、女の私より女みたいなところがあるわよね」
「それでも友達のように接してくれるのが、俺にはどれだけありがたいか。それも、今日までだが……さあ、もう少しだ。クリスにも、馬達にも、もちろんアシュリーにも。ヴィッテルスバッハでの暮らしが居心地のいいものでありたいと、俺は思っているよ」
私はクリスを抱いた状態でもう一度馬に乗せられ、その後ろからクラウスが手綱を持ってくれた。いつにない大荷物なのに、彼の黒馬・ウィルは元気そうだ。首を撫でてやると、嬉しそうに鳴いた。レティーも遊んで欲しそうにしているけれど、出発の空気を察したサティーに鼻でつつかれている。あとで遊んであげるからね、と軽く手を振った。
「クリス、じっとしててくれていい子ね」
「あう!」
おくるみの中から少しきょろきょろするだけで、暴れるでも大泣きするでもなく大人しい。そんなクリスを抱いた私を乗せて、馬達はもう一度走り出した。
***
「ああ、見えた。兄上と……あれは多分、義姉上だな……」
しばらくして森を抜けた頃、やっと大きな道に出た。そしてそこには、大きな馬車が二台と、馬に乗ったいくつかの人影が見える。それだけの段階でも、クラウスには誰かわかっているようだった。
「クラウス、緊急の赤を見て慌てて駆けつけたが……そちらのご婦人か」
「はい、兄上」
クラウスの兄。確かに、兄が二人いるという話はしていた。上の兄が家を継いでいて、下の兄は王都の騎士をしていると。それはいい。問題は、彼らが明らかに貴族であることだった。
「ご実家、商家って言ってなかった……?」
目を合わせてくれなくなった。私が驚いているのを見て、お兄さんはにっこりと微笑んでいる。黒い髪を長めに伸ばしていて、同じ赤い目をしていたけれど、クラウスと比べると小柄な人だった。着ているのも鎧ではなく、仕立ての良さそうなシャツとズボンに上着だ。問題は、その上着にしっかりと見覚えのある紋章がついていることだけれど。
「ニコラウス・ヴィッテルスバッハ」
「……はい、兄上」
予想より重く仰々しい名前で呼ばれて、クラウスは明らかに沈んだ声音で返事をした。田舎の学のない薬師とはいえ、ヴィッテルスバッハの名前の意味がわからないほど私も愚かじゃない。
「お前ももういい年だ、好きな女ができるのは構わない。しかし、順番も全部間違えて、それでも連れてくるとはどういう了見かい? 囲うなら囲う、遊ぶなら遊ぶ、妻にするなら妻にする。一度決めたことを途中で変えられるほど、甘い生き方ができる立場ではないのだよ」
珍しい考え方かもしれないな、とふと思った。貴族の遊び相手になる娘の話なんて私でも知っていて、そういう女は大抵ロクなことにならない。子供ができたとしても、女側だけが責を負うことになるのが大半だ。モリス女伯の先代の頃は、鬼灯の薬がよく売れたのだと婆様は前に話していた。その意味を知ったのは、婆様が流行り風邪で死んだ後だけれど。なのに、辺境伯は私ではなくクラウスの方に怒っている。クラウスも早く嘘だと話せばいいのに、黙って話を聞いていた。
「……これ以上は、女性の前でする話ではないな。お前、僕の馬車においで。それとご婦人、僕はこいつの兄でアレクサンダー・エルカ・ヴィッテルスバッハ辺境伯。この地の領主として、貴女達を歓迎します」
そう言って辺境伯は私に頭を下げてくれたけれど、目が笑っていなかった。今日は朝から訳の分からないことの連続で、頭痛がしてくる。頭痛薬……荷解きしないと見つけられないな……。
「あ、アシュリー……モートン村のアシュリーです……あの、その、彼が辺境伯様の弟さんだなんて、知らなくてですね……」
「こいつは嘘と腹芸はてんでダメですがね、その分、言わないでいることを覚えてしまった。ダメな弟です」
「その……こうなる予定が、なかったので……兄上、それより、二人の安全を」
そうだね、と辺境伯は頷いた。彼が馬車の戸をこつこつと叩くと、綺麗な青いドレスを着た女性が出てきた。栗色の髪と柔らかな緑色の瞳の、穏やかそうな女性だ。右腕の青い腕輪は私と同じ、女神の信徒である証。でも明らかに、石を磨いただけの私のものと違って、宝石で飾っていた。彼女は腕輪を見せるようにして私なんかに丁寧に一礼してから、「貴女達はこちらへおいでなさいな」と馬車に私たちを乗せようとする。
「突然こんなことになって、大変でしょう。わたくしはナディア・ヴィッテルスバッハ。一応は辺境伯夫人なのだけれど、今日からは貴女の義理の姉で、その子のおばさまです」
「ナディア義姉上はいい人だから、安心してくれ」
クラウスが、私の耳元でそう補足する。子供が二人いて、世話にも慣れているから、クリスのことも心配ない、と。
「よ、よろしくお願いします……」
私はクリスと共に、辺境伯夫人の馬車にお世話になることとなった。クラウスは、辺境伯からおうちに帰るまで馬車の中でお説教らしい。当然、おうちというのも、お城なのだろう。馬車に乗って真っ先に、辺境伯夫人はこう質問してきた。
「彼、貴女に自分のことをなんと説明していたの?」
「商家の三男の、クラウス・アシュトンって……」
「ああ、お義母様の苗字を使っていたのね……」
後で私からも言っておくわ、と遠い目をした辺境伯夫人によると、彼の本当の名前はやっぱり、ニコラウス・ヴィッテルスバッハ。クラウスは愛称らしく、なるほど、辺境伯が言うところの『言わないでいることを覚えてしまった』というのは、こういうことかと納得した。魔物退治を専門とする部隊の騎士、と言っていたのは、一応本当だったらしい。ヴィッテルスバッハの騎士であることも。ヴィッテルスバッハ家では店もやっているから、商家というのもすべてが嘘ではないらしい。でもそういえば、どんな商売をしているのか、細かい話は聞かされてなかったなあ……。
「浮いた話のひとつもない義弟だから、見合いをさせても全戦惨敗。どうしたものかと思っていたら、貴女……この子、抱いてみてもいい?」
「ええ、どうぞ」
最初はふかふかの椅子に座るだなんて畏れ多い、と思っていたのに、結局座らされてしまった私は、クリスを夫人に渡した。気持ちよく眠っていたクリスは揺れで起きてしまったのだけれど、手慣れた様子の夫人にあやされ、また眠る。
「クラウスの髪に、貴女の目ね。若いのに、大変だったでしょう……」
「あはは……」
苦笑いしかできなかった。そして緊張していたはずなのに、クリスが安心して眠っているのを見ているうちに、疲れが出て私も眠ってしまった。
***
ヴィッテルスバッハの城は、私には随分と大きく、物々しく、そして頼もしく見えた。素朴な木の食器で食事をするのには拍子抜けをしてしまったのだけれど、割れなくていいと辺境伯夫人……改め、義姉様は笑っていた。本当は夫人とか、ちゃんと敬意をもって改まって話すべきだし、無礼なことだとわかっている。これは本人からの半ば命令で、義姉様と呼ぶことになってしまった。辺境伯も、義兄様と呼ばせてきている。
お辞儀のひとつもちゃんとできない未熟な私を、この城の人達は誰も笑わなかった。使用人の人達も、私を奥様と呼んでくれている。式の日取りまで決められそうになっているほどだ。まあ、クラウスは私との『順番を間違えた』ことで義兄様にも以外にも叱られたのか、しばらくの間、しおれた犬みたいになっていたけれど。でも、私が知りたがったら、礼儀作法や私の知らない文字も教えてくれるようになった。薬草学の本もお城には何冊かあるそうだけれど、見せてもらったら、今の私には半分も読めなかったのだ。
最初は、クラウスは私を連れてお城近くの自分の家に住む予定だったらしい。それが義姉様の「お城に一緒に住む気で連れて来たんじゃないの?」という言葉で、城に本格的に住むこととなってしまった。石造りの城は寒々しく、沢山の部屋があって迷いそうになる。そんな私が知った場所しか動けないのに対して、クラウスは無知を責めることもなければ馬鹿にすることもなかった。私はクリスと共にクラウスの部屋の隣を与えられているのだけれど、壁はクラウスが外してしまって、実質同じ部屋だった。夜の寝台は別にしている。元々二つの部屋だったから寝台も二つあって、本当によかった。メイドさん達がどう思っているかはわからないけれど、覚えることが多くて疲れた私はいつもすぐに寝てしまう。
クリスには上等な揺り篭に、かわいいおくるみ、そしてちゃんとした食事が与えられるようになった。私が下手な縫い方をしたおくるみと違って、クラウスやちゃんとした人が作ったものは、縫い目が見えないものだった。赤ちゃんの肌に引っかからないよう、特別な縫い方をしているらしい。もうお乳は卒業していて、柔らかいパンをミルクに浸した離乳食をあげるようになっていた。
「アシュリー」
「なあに」
「……これ、作ったから受け取ってくれ」
クラウスが何か作っているな、とは思っていた。女の手技と呼ばれているような、縫物や編み物の類が私は大の苦手で。それに対して、クラウスはそういうものが大の得意だった。見習い騎士の仕事で覚えて、すっかり得意になったらしい。今も部屋の中央で鎮座しているティーポットにかけられている、私があの家から持ってきたカバー。これはクラウスが編んだものだった。
そしてここ数日、一人で黙々と何かを編んでいると思ったら。彼が編んでいたのは白い、細かなレースで編まれた長手袋だった。
「綺麗……破ってしまいそうで心配」
「その時は、また編むから」
つけてみると、締め付けもきつくなければ緩すぎるわけではない。いつの間に手の大きさを測られたのだろうと、そう思ってしまうほどにぴったりだった。
「でもこんなものつけたら、調剤も洗い物も、何もできなくなっちゃう」
「今の君は、この城の住人で、洗い物は使用人達の仕事だ。やらなくてもいい」
クラウスがそう言うことよりも、本当に当たり前の顔でそう言ってきたことを私はどこかで悲しく感じた。彼が商家の三男坊などではなく、やっぱりこの城に住むだけの貴族なのだと——本来は身分が違うのだと、感じてしまうから。彼は自分の懐に目線を落としてから、私の顔を心配そうに見た。
「また、悲しそうな顔をしている。アシュリー、やっぱり森に帰りたいのか?」
「森には、帰りたいけれど……やっぱりあそこが、私の家だったんだもの。でも、それだけじゃあないわ」
クラウスには何を落ち込んでいるのか聞かれたけれど、私にはうまく説明ができなくて首を横に振るしかなかった。クラウスの声は、私の知っている声とは変わってしまっている。でも何が、と言われても、言葉を知らない私にはちょうどいい言葉が見つからない。
「この城にいるのは、長年うちに仕えてくれている人達だ。アシュリーはここで、クリスと俺と、安心して過ごせばいい。長い休みになれば、俺の甥っ子達やもう一人の兄上も帰ってくる。みんな、いい人達だ」
確かに、追っ手の影や不審な出来事はなかった。とはいえ、ヴィッテルスバッハに来てからはこの城の以外の場所にあまり出ていないから、彼らに見つかっていないのか、死んだと思われているのか、正直わからない。
「そうね……ああクリス、どうしたの?」
ぐずるクリスを抱いてみると、おしめが汚れている様子はない。離乳食も……さっきお腹いっぱい食べていたしな。熱や咳、湿疹、鼻水、その他病気の兆候はなし。
「遊んでほしいの?」
「あい!」
それなら、と汚すわけにもいかないから、レースの手袋を外してクリスを抱き直した。高価な服だろうに、クリスのよだれがついても何をしても、城の人達は何も言わない。クラウスの子だと、皆が思っているからだろう。この城の主の一族だから。クリスは本当は王族だから、もっと大きなお城に住んでいたのかもしれない。滅んだ国の王族がどうやって生きていたか、私にはわからないけれど。クラウスは私をここに連れてくる気がなかったようだから、クリスを拾わなければ、生涯こんな場所に入ることはなかったに違いない。
「アシュリー、明日から俺は騎士団の仕事で数日城を空ける。兄上がいるから心配はないと思うが、クリスともども、気を付けてくれ」
「……わかった」
この城に来てから、もやもやするような、鬱々とするような気分は抜けないでいた。クラウスといても、前と同じようにお茶をしても、気分が完全には晴れないでいる。それでもクリスの顔を見ると、かなり気が楽になれた。
「私、どうしちゃったのかしら。ねえ、クリス? 午後には義姉様が、気晴らしにお茶会でもどうって。私、上手にお茶なんて飲めないのにね」
「うー?」
クリスは私の顔を見て、きゃっきゃっと嬉しそうに笑った。私はこの子の母親でもないけれど、この子の母親の分まで、預けられたからには幸せにしてあげたいと思う。
「アシュリーちゃん、こっちよ、こっち。クリスちゃんもいらっしゃい」
「呼んでくださってありがとうございます、義姉様」
その日のお茶会は、外にテーブルを出してのものだった。一生懸命お作法を思い出し、カップの穴に指を通さず飲もうとしている私を見て、義姉様は「うちの義弟が本当に悪いことをしたわね」としみじみ仰った。
「いえ、こんな暮らしをさせてもらっていいものかと……」
「いいのよ、貴女は考えなしの義弟の被害者なんだから。宝石でもドレスでもねだりなさい、払わせるから」
生憎と、そういうものに興味はなかった。首を横に振る私に、クリスが抱っこしてほしそうに手を伸ばしてきた。揺り籠から抱き上げて、膝に乗せると楽しそうにはしゃいでいる。
「そういえば貴女、クラウスからペンダントはもらった? こういうものなのだけれど」
義姉様は自分の首につけていた、宝石のついた金色のペンダントを軽く弄ぶ。
「いえ、特には……?」
「そうなの? じゃあ、野暮を言ってしまったかしら。忘れて頂戴。不便なことはある?」
「……いいえ、ありません」
嘘をついた。本当はいきなりこんなところに連れてこられて、右も左もわからなくて、不安は多い。最初に抱いた印象より、城の暮らしというのは大変なことはわかった――虫はいるし、キラキラした宝石は重いし、凝った服は肩が凝る。お城の全ては手入れができてないという言葉も、少し暗がりを覗けば事実だとわかった。
「それじゃあもうひとつ。アシュリーちゃん、クラウスのどこが好きになったの?」
「ぶっ」
危うく、お茶を吹きかけた。なんとか吹かずに済んだけれど、少し咳が出る。落ち着いたところで、お茶菓子を勧められた。私があの家で焼いていたような、ザクザクの岩のようなクッキーではなく、紙のように薄いクッキー。しかももっと甘い。
「あの人は、その……初めて会った時は、迷子の犬か熊のように見えました」
「森で出会ったのだっけ」
はい、と頷いたところで、ふと、悪戯心が沸いた。大きな嘘をつかれていたのだから、一個くらい、私からクラウスの恥を晒してもいいだろう。
「あの人、私が獣用に仕掛けてた罠にかかって、しょぼくれた犬の顔で途方に暮れていました」
今度は義姉様が吹きそうになっていた。そこは貴婦人、私より簡単に動揺を収めると「どうして罠に……?」と聞いてくる。
「道に迷って、うっかり罠を踏んだと言っていました。腰に剣もあるのに、網罠を切らなかったんです。大人しく引っかかった状態でいて。理由を聞いたら、網は安いものじゃないだろうとか言われました」
事実、くくり罠や落とし穴よりは値が張るものだったのは確かだ。私は糸紡ぎも下手だから、自分では用意なんてできない。獣に切られたのなら諦めがつくのだけれど、人に切られていたら確かに腹が立っていただろう。
「それもあって、信じてたんですよね……商家の三男坊って説明を……」
義姉様はため息をついていた。それからお茶を一口飲んだ後、「気晴らしに出かけましょうよ」と提案してきた。
「クリスちゃんも一緒に、三人で。出かけると言っても、本当に近くだけれど……お買い物に行って、全部義弟に支払いをツケるの」
「いいんですかそれ」
お城の近くの店なら大丈夫よ、と言った義姉様によって、三人でのお出かけが決まった。とはいえ今日はお仕事があるそうで、明日になるそうだ。クラウスは私とクリスの安全を気にしていたけれど、私はここに来てからずっと城の中にいる。女神の印を掲げた家を燃やすような人達を怖いと思う気持ちはあるものの、前よりそれが薄れているのも事実だった。クリスを抱いてこの家に来て、一か月以上。『時は最上の忘れ薬』という言葉を、こんな形でまた実感する日が来るとは思わなかった。
「駄目だ。外に出るなんて危ないし、クリスを連れていくなんてもっと良くない」
「でもそう言って、危ない目に遭ったのはあの時だけよ?」
お茶会を終えて部屋に戻り、クラウスには外出の話をしたら、真っ先に反対した。クリスの正しい血筋のことを知っているのは義兄様だけで、義姉様はクリスがクラウスの子だと思っている。だから、出かけると言うのだろう。それに、提案されて気づいたけれど、私は外に出たいとずっと思っていた。重い石造りの城も、きらびやかで割ってしまいそうな家具も、危機感が薄れるようには慣れてくれない。
「聞き分けてくれ、アシュリー。君のためなんだ」
顔をそむける私に、クラウスはため息をついてから何かを取り出す音を立てた。そちらにちらりと目を向けてみると、クラウスの手には高価そうな金のペンダントがある。先端には大きな、赤い石がついていた。クラウスの目の色に似ているそれをどうするのだろうか、と思っていると、彼は私の首に手を回し、そのペンダントをつけた。
「どうしても出かけるなら、これを付けるんだ」
「重いんだけど……」
「お願いだ。でなければ、外出は認められない」
義姉様が言っていた『ペンダント』はこれのことだろうか。本当は大きな石に対してあまりにも細い鎖も不安で外したかったのだけれど、あまりにも真面目な顔で言ってくるから、とりあえず受け取ることにした。
「……クラウス、あなた、命令するのに慣れた言い方をするのね。ここに来てから、ずっとそう。話し方も発音が違うの、きづいている?」
「それ、は、」
「いいの、わかっている。私の家で見せていた、あの顔は平民のふりをしていただけなんでしょう? 今のあなたの方が、本当のあなたなんだものね。ニコラウス・ヴィッテルスバッハ卿」
はっきりと、傷ついた顔をしているのがわかる。私は薬師なのに、人を傷つけてしまった。女神像から反射した日射しが、私を責めているように感じる。でも、止まれなかった。
「クリスがもう滅んでしまった国の子だって、私のことをここに連れて来て、私とこの子を保護したって言って、でも、私は一度も、そんなことを望んでいなかったのよ」
「……だけど、あいつら、アシュリーの家に火を、……女神の印を掲げた、誰も冒してはならない家に火を」
「そこはありがたかったけれど、でも……ああ、なんて言えばいいのか、学がないのが嫌ね!」
私が大きな声を上げたのにびっくりしたらしく、ふぎゃああ!と泣き声が揺り篭から上がった。クリスを抱きしめてあやしてやりながら、クラウスには一言、「明日は絶対に出かけるから」と伝える。
「きっと、何もないわよ。そしたら、もう少し制限を緩めてくれる?」
「アシュリー、待って——」
「おやすみ」
私はそのまま、クリスを抱いて自分の寝台に行った。寝台にカーテンがついていることを、この日ほどありがたいと思ったことはなかった。
次の日、私はクラウスと口を利かなかった。義理の兄姉夫妻と一緒に朝食をとる時も、ずっと。
「アシュリーちゃん、もしかしてクラウスに反対されたの?」
「はい。ですが、私も買い物とか、したいなって」
「そう……」
「クラウス、何が原因かは知らないが悪いことをしたと思っているなら、後でちゃんと謝りなさい。ただし、騎士の仕事をちゃんとしてからだ」
「はい、兄上」
突っ込んだ事情を私達の口から聞こうとしないでいてくれたのは、正直、ありがたいと思った。もっとも、昨日私とクラウスがもめていた直後にメイドさんが来た音はしていたし、多分、誰かが聞いて話をしていたようにも思う。
「ナディア、アシュリー嬢とヴィッテルスバッハ領都の店を見て回るんだったな。彼女は慣れていないだろうから、早めに返してやりなさい」
「お土産は買ってくるからね」
義姉様は朝食の後、私にドレスをあげるからお部屋に来てね、と言い残して先に戻ってしまった。
「この綺麗な服で出かけるんじゃないの……?」
「それは部屋着だから、外に出るのは別だ。アシュリーのクローゼットに入れておいたのだけれど、あの様子だと、ナディア義姉上がご自分のものを譲られるかも」
私の呟きに、クラウスはいつものように返事をした後、気まずそうに目をそらした。彼は困ったような顔をして、もう一度「そのペンダントは絶対外さないように」とだけ言って、先に行ってしまう。
「まあ、概ね、弟が悪い。貴族に成り上りたいって野心を燃やしているような女ならともかく、弟はきみのような女性には、本来、近づくべきではなかった。近づいても、間違いを起こすべきではなかった。野の花を摘んで花瓶に活けたとして、それが花を枯らすことになるとわかっているのなら、摘むべきではない。それをクラウスには、こんこんと叱っておいたのだけれどね」
「……」
本当は、義兄様が気にしているような『間違い』なんてなくて、彼は私の命を守ると言って、自分の名誉を落とすような話をしているのだ。今になって、彼の払った対価の大きさが見えた気がした。義兄様は私が俯いているのを見て、「貴女を責めているのではないよ」と口を添えた。
「実は君のことは、弟が時々話していてね。領堺の森で、自分の編み物を喜んでくれる女性に会った。そんなのは初めてで、とても嬉しいって」
「それは……私は本当に、苦手なので……」
先代が教えるのを諦めたくらいには、本当に苦手だった。そんな私にとって、クラウスの手から作り出されるものは、それ自体が魔法のようだった。
「弟から、クリスのことは聞いている。あの子の持ち物のことも。でも、もっといいやり方があっただろうと、私はあの子を叱ったこと自体は取り消す気はない」
少し婉曲的な言い方をされたので、一生懸命考える。確か義兄様には本当の事情を話したと、クラウスは言っていた。だから、クラウスと私の間に間違いがなく、彼は本来そんなことをしていないのも知っている。でも、表だっては『そういうこと』になっていること、それによって私とクラウスの評判を落としていることに対して、もっといいやり方があったかもしれないとクラウスを叱っていた……と、いうことなのだろう。
「護衛騎士もつけるから、ナディアと羽を伸ばしておいで。ただし、はぐれないようにね」
「はい、義兄様」
買い物はさせてもらうけれど、その中で、クラウスの好きそうなものがあれば自分のお金で買うつもりだった。
馬車に乗って到着した領都は、すべてが石でできていて、私にはとても都会に見えた。想像していたよりもたくさんの店が並んでいて、たくさんの人が行き交っている。義姉様は私がずっとクリスを抱いているのを見て、「今日くらいはメイドに預けたら?」と笑う。
「いいんです、この子のものも見たいですし」
「なるほど。それじゃあ――」
馬車を少し前で止めてもらって、広場を見たり気になる店を覗いたりしてみたい。そんなワガママを叶えてもらって歩いている時、人混みが目についた。
「何があったの」
「すみません、ご婦人方はどうぞお下がりください……人が倒れていると知らせに来た者がいたのですが、どうも人殺しが出たそうなのです」
義姉様が呼び止めた騎士は、クラウスとは違う服を着ている若者だった。私は薬師として人混みを掻き分けようとしたけれど、彼に止められる。
「そのお姿、ニコラウス様の奥方ですよね」
「ええ。もし必要なら薬を――」
「……いいえ。先ほど、もう神の御許に行かれたことを街の医師が確認しております。ご婦人の善意には心からの感謝を申し上げますが、今は下手人探しと、彼のことを知る者を探しているんです」
「そうですか……」
私はおとなしく引き下がった。人混みがひどくて、誰が死んでいるのかはちらりとも見えない。
「おい、あの服、あの男じゃないか? ほら、嫁と息子に逃げられたって、絵姿持って探してた……」
「ああ、湖で死んでたのが嫁さんだって、気落ちしてたからなあ……」
私の耳にも入った言葉を聞いて、騎士が「すみません、そのお話、詳しく聞いてもいいですか」と声をかけに行く。
「アシュリーちゃん」
「義姉様」
「とりあえず、離れましょう。ごめんなさいね、もっと平和で穏やかな、そんな領都を見せたかったのに。よりにもよって、こんな時に人殺しだなんて……」
クリスが人混みの向こうを、じっと見ているような気がした。私が「どうしたの?」と聞くと、まるで誰かにあやされているように突然笑い出した。
「クリス? 何が面白いのかわからないけど、ご機嫌でよかったわねぇ」
はしゃぐクリスをあやして人混み以外の――遺体以外を見せてやろうとした時、ふと、路地裏の近くでぐったりとしている人影が目に入った。
「あの人、具合悪いのかしら……義姉様、その、少しクリスを見ててもらえますか」
「アシュリーちゃん? どうしたの、そういうのは医者を呼んで……」
義姉様の言葉は当然だけれど、私は、死人に渡せなかった薬のことを思った。あの城に来てから調剤なんて全然できていなかったけれど、私は薬師なんだ。具合の悪い人に、せめて薬を届けたかった。
「もしもし、どこか痛みますか? 大丈夫ですか?」
それは薄汚れた、色黒の若い男だった。彼は私の顔を見て、「ちょうどいい」と腕を掴む。そこから鋭い痛みが一瞬走ったかと思うと、私の視界は急激に暗くなった。
***
――短いうたた寝だったようにも、ぐっすりと長い時間眠り込んだようにも思える時間が過ぎて、私は目を開けた。私はどこともしれぬ廃墟の寝台に寝かされていて、男に顔を覗き込まれている。
「おや、目が覚めたか。もう少し効くはずだったのだけれど、粗悪品を摑まされたかな?」
私の腕は細い鎖か何かで後ろ手に縛られていて、切れそうになかった。目の前の男は、二十前後と言ったところか。軽薄そうな笑みを浮かべているのに、目がちっとも笑っていなかった。短い銀髪に、灰色の目と色黒の肌は、確か、どこかの異民族の特徴だったか。泥汚れを落とした頭は、酒場で女の子をいくらでも引っ掛けられそうな整い方をしていた。ああ、クラウスには怒られる。謝ろうと思ってたのに。クラウスの目に似た赤いペンダントはそのまま私の首にかけられていて、私のことを責めているように蝋燭の明かりを反射させた。ガンガンと痛んで思考が霞む中で、何が起きているのかを理解しようとする。
薬を盛られて、攫われた。多分毒針か何かに仕込んでいて、血中で作用する即効性。喉が渇いた感覚と、頭痛、思考力の低下。
(マルカ草の煎じ汁にラコスの根の調合ね。意識を失わせるのが目的だった。私は職業柄で耐性をつけていたけれど、本当はもっと眠らせるつもりだった、と……)
「さて奥様、オレはリック。だが、アンタに用があるのはオレじゃあないんだ。我らが女王サマが、あんたみたいな青緑の目の女をお探しでな」
丁度ぴったりなのがいたから、と言って、彼は私の頬骨に手を添えてきた。じっと私の瞳を見ているように思う。
「ホント、びっくりするくらい目の色だけは似てるから、アンタなら長持ちすんだろ。今んところ殺す予定はないから、まあ、安心しな。オレは、だけど」
「女王、様……?」
まだ薬で頭が満足に回らない。ぼんやりと、この国にいるのは王様だったはずだ、とだけ思い出せた。
「我らが女王サマは、生き別れの妹君をお探しだ。もちろん女王サマの妹なら姫様なわけだから、妹様が見つかるまでのお人形を、その辺の女になんてやらせられない。お人好しな奥様なら、仮病のオレを助けようとしたみたいに、助けてくれるでしょ?」
言ってることは無茶苦茶だし、間違いなく女王様とやらもロクなものではない。
「リック、女王サマ起きたぞ」
「お、丁度いいや。奥様、拒否権はねえからな。アンタを殺すのだってオレ達平気だし、お綺麗な奥様を殺さなくても家に帰れねえようにする方法だって、いくらでもあるワケ。このねぐらで女は、女王サマとアンタだけだからさあ」
扉から声をかけてきた配下らしい男の言葉を聞いて、リックは私を無理やり立たせた。この男は、私が誰かを知らない。クリスの追っ手でもない。ただ、私の目の色を見て攫った、らしい。それがいいことなのか悪いことなのか、それはわからなかった。クリスをあの時預けてよかった、と、それだけが救いだった。この人達は私のことをそこまで知らないのか、義姉様のような貴婦人だと思っているようだ。綺麗な服を着せられただけの平民なので、その目論見は大外れなのだけれど。
「私に……何、させるの」
「だからぁ、妹様のフリさあ。女王サマが飽きたら、帰してやるから。今からアンタは『アマランサス王女』さ」
「アマランサス……王女……」
どこかで聞いた名前だった。強引に歩かされて思い出したのは、その名前があのペンダントの持ち主――白百合を紋章とした、クリスの実の母親のものだということだった。
「女王様、アマランサス王女をお連れしました」
軽く咳払いをした後、リックはさっきまでの軽薄な態度が嘘のように丁寧な発音で話して、扉を開けた。
「……っ!」
部屋中に漂う、甘ったるい、果物の腐った臭い。これがわからない薬師はいなかった。
(ジョルハム中毒だ……)
息を吸いすぎないよう、浅い息をする。ジョルハムは、元々は安価な鎮痛剤として生まれた薬。それに依存性があると薬師達が気づいた時には、世の中に広まりきっていた。ジョルハムの見せる幸福な夢に溺れた中毒者は、妄想を拗らせながら使う量と頻度を増やしていき、最期は気が触れて死ぬ。
綺麗に整えられた部屋の寝台で、一人の女が横になっていた。女の側には香炉があって、そこからジョルハムの煙が立ち昇っている。色の薄い金髪は長く伸ばされていたが、ぐちゃぐちゃにもつれていた。藤色の目にはクマが酷く、白目に血が滲んでいる。骨と皮ばかりに痩せ細り、窶れた面持ちの中に、今にも折れそうな気高さの残骸があった。首から下げているのは、クリスのおくるみに入れられていたのと同じ、トゥルーラの国章を内包しているだろう女神のペンダント。着ているものは、私が着ている義姉様のお下がりに似ているけれど、あちこちが埃で煤けたドレス。すべての指に指輪をしていたけれど、それらはすべて、平民の私にも安物だとわかるものだった。祭りの露店で商人が、子供相手に銅貨で売るようなものだ。
「大義でした、セオドア。……アマランサス、ああ、帰ってきたのね。男に嫌な目に遭わされて、怖かったでしょう」
女の手は、私の頬に触れて目を覗き込んできた。私が視線をさ迷わせてリックを見ても、にっこりと微笑まれるだけで何も言ってくれない。女はリックのことを明らかにセオドアと呼んでいるのに、その説明が一切ないのも怖かった。
「お、……お姉、さま、男、って……?」
「アマランサス王女はお辛いことを思い出さないよう、忘れておしまいになったようです」
クリスの実母が彼女だと思っていたのだけれど、男に嫌な目にあわされて、ということなら、望まない子だったのだろうか。でも、そんな母親が、銀貨なんて置いていく?
「お前が忘れているなら、それでいいのです。召使に命じて、死ぬまで鞭で叩かせてやっただけですから」
銅貨の指輪をしていても、女の所作は美しいと思ってしまった。目は虚ろで、明らかに正気ではない。死ぬまで鞭で叩かせたというのが真実なら、それがあの死体なのか。それとも男の存在自体が女の妄想なのか、私にはわかりそうになかった。男が実際にいるとしたら、それはクリスの実の父親なのかもしれない、と思考が至って背筋が冷える。
ジョルハムの煙に長いこと浸りすぎていて、腕には薔薇状の痣があるのも見えた。そこまで進行しているのなら、もう、彼女は長くはないのだろう。
「その首飾りはどうしたのです?」
「ええと……貰いました。はい」
何を言えばいいのかわからなくて曖昧に答えた私の手を、女は骨ばかりになった手で掴んできた。
「痛っ」
「ああ、アマランサス、わたくしの妹。お前はわたくしといてくれるわよね? わたくしと一緒に……そう、あんな猿のような子供や、粗野な男ではなく……アマランサス……」
女は自分の中のアマランサス王女と話しているらしく、私の手を掴んだままぶつぶつと呟き出した。酷い綱渡りをさせられている気分で、怖くて仕方がない。
「そうです……お前は私の妹のアマランサスです……洗濯女のエイミーなんて、そんな……あの卑劣漢どもを打ち倒して、国に……お父さまと、お母さまと……」
話が少しずつ、支離滅裂になっていく。あいまいに笑って離れたいのに、私の後ろにいるリックの手は剣に伸びていた。あれは、私が『アマランサス』をできなくなったら斬るつもりの顔だ。……クラウスは、私の前で剣を抜いたこともなかった。そんなことを思い出してしまう。ジョルハムの甘ったるい香りで、私の頭もくらくらしてきた。女の横に、あの森の家が見える。商家の三男だと私に言っていた、あの頃のクラウスが見える。幻覚だ、と思っても、それはあまりに甘美な幻だった。綺麗なドレスより、あの着慣れた綿布の服が恋しい。大きな宝石より、自分の手で摘んだベリーがいい。辺境伯の弟のクラウスではなく、商家の三男のクラウスが良かった。
「そんな粗末な手袋は外して……」
「粗末じゃないわ」
気づいたら、声が出てしまった。女の顔が固まって、それから、魔物のように目を吊り上げた。
「アマランサス! 姉の言うことを聞きなさい!」
思いきり頬を叩かれた。痛い。ジョルハム中毒者の妄想に口を挟んでしまった時に、こうなることは多少わかっていた。けれど、私にはクラウスのくれた手袋は粗末に思えなくて、口にしてしまった。
「お前、女王様をこんなに刺激するだなんて……!」
リックが私の首に、剣を突き付けたのがわかった。ひやりとした白刃の感触。あ、ここで死ぬのかな、と思う。クリスが心配になった。クラウスや、義姉様や義兄様の顔が頭に浮かんだ。両親が流行り病で死んで、先代の婆様も死んで、森で暮らすと決めたあの日。あの時に、もう助けは求めないと決めていたのに。
私が死んだら、クリスはどうなるのか。あの子がせめて歩けるようになるまでは、見守りたい。
「こいつはここで殺して、それから……」
人のことを片手間に殺しそうなリックが怖くて、私はクラウスがかけたペンダントを握りながらつい、呟いてしまった。
「たすけて、クラウス」
「——やっと呼んでくれた!」
宝石が甲高い音を立てて砕けたかと思うと、次の瞬間、リックが吹き飛ばされた。目の前には、私が思い描いていた彼の背中がある。どんな魔法を使ってか知らないけれど、クラウスが、私の元まで来てくれたのだ。
「騎士サマ、というか旦那サマの登場ってワケ?」
「セオドア! この不審者を倒しなさい!」
剣を構えるリックや金切り声を上げる女を気にしないようにして、私はクラウスに「息を吸いすぎないで!」と警告した。
「わかっている。この匂い、ジョルハムだろう」
クラウスもリックも、互いに人を後ろに庇った形で剣を構える。その構えを見て、クラウスは「お前、名は」と聞いた。
「その構え方、元は名のある騎士とお見受けする。ニコラウス・ヴィッテルスバッハ、我が妻の命と名誉を守るため、お相手仕る」
「はぁー……」
多分、クラウスのそれは、リックの何かに触れてしまった。彼は髪をかき上げてくしゃくしゃにして、ひどく冷たい顔で立つ。
「トゥルーラ王国、女王ベアトリクス様の騎士セオドア。名乗るべき家名は、すでになし」
その女王は現実をどこまで認識できているのか、正直怪しいものがあった。ぼうっと視線を宙にさ迷わせていて、多分、私のことも見えていない。
「その国はもうない。お前達は、新しい生き方を探すべきだったんだ……エイミーと名乗るようになった、アマランサス王女のように」
「他人が俺達に踏み込むな!!」
リックが斬りかかるが、クラウスはその剣をあっさりと止めた。それから紐か何かで、リックを拘束する。
「セオドア? ねえセオドア、リックがいないんです。あの子が淹れる紅茶が飲みたくなりました。兄なんですから、行方を知りませんか?」
「もう、目の前のこともわかっていないのね……」
ジョルハムに溺れる前から、心がもう壊れていたのだろうか。彼女のために私を攫った男がセオドアなのかリックなのか、今自分がどこにいるのか、妹とどうなったのか。彼女の中でそれらをどう呑み込んでいるのか、外からは全く分からなかった。
リックはどこか、すっきりした顔でクラウスを見上げた。
「あー……やっぱり、兄貴みたいにはいかねえや。でも、ちゃんと止めに来てくれて……よかった」
「あんな攫い方、捕まえてくれと言っているようなものだ。俺の仲間が、もうすぐここに来る」
ベアトリクスのことは、クラウスは拘束しなかった。彼の言葉を聞いたリックは、ぼうっと天井を見ている。
「無事でよかった、アシュリー。中々呼んでくれなくて、焦った」
「だって……一人だったし……助けて、なんて言っても、来てくれる人なんて」
クラウスは私の手を、そっと握ってきた。
「今は夫として、俺がいる。クリスの世話でもなんでも、頼ってくれ」
「……うん」
「お説教は、部屋に帰ってからな」
「え」
大勢の足音と争う音が近づいてくる。確かに、二人で何かを話すのには向いていなかった。
***
クラウスは、私の知らないところで色々していたらしい。例えばクリスの実母……洗濯女のエイミーこと、アマランサス王女が死んでいたことは、私がクリスを拾うより先に知っていた。
「……湖で、アシュリーによく似た湖色の目をした女性が亡くなっていたんだ。その姿を見て、どうしても、生きているアシュリーに会いたくなった。クリスを見つけたのは、その時だ」
「じゃあ、それで……最初から?」
トゥルーラの国章を身に着けた赤子を拾ったという私と、湖の水死体が繋がった。それで私を逃がそうとしたのだと、クラウスは事件の片が付いた後、私に白状した。
「ああ、知っていた。正直、生涯隠していく気でいた。アシュリーに、必要以上に怖い思いをさせたくなかったから」
射し込む日射し。耳に懐かしい葉擦れの音。木を組んだ壁に、木の机と椅子に、あの懐かしいティーポットカバー。クリスは揺り篭ですやすやと眠っていて、時折、クラウスに揺らされていた。
私達は、森に帰ったわけではない。今も、ヴィッテルスバッハの家にはお世話になっている。ただ、結婚したのだからと言われて、私達は離れに移ったのだ。離れ、として、クラウスが建ててくれていた、あの家に似せた小さな家に。服だって、この離れにいる分には昔のような服を着させてもらっている。
「どうして……考えを変えたの?」
「あの二人を見て、セオドア……いや、セオドアを名乗っていたリックの話を聞いた。あいつは、自分の主君であるベアトリクスが現実と折り合いをつけられるまで、目を隠してやろうとして、十年過ごしたそうだ。その結果、彼女はジョルハム中毒になって、自分の妹を手にかけた」
彼女がジョルハムから少しでも抜けられるようにしてほしい、ということで、その薬は私が作っている。平民として名を変え、髪を切り、好いた男と子を産んで暮らしていた王女。その姿を受け入れられなかったベアトリクスは、妹を追い回して赤子ごと殺したそうだ。……その子供は石で、本当の子供は今、我が家の揺り篭にいるわけだけれど。
「箱庭を整えたくても、望んだ環境の維持なんてできない。『クラウス・アシュトン』が、こんな形で終わってしまったように。余計なことで傷つけるくらいなら、俺は、ちゃんと誠実になりたくなったんだ」
「……ちゃんと話してくれて、嬉しい。ずっと、不安だったの。自分がどうしてこうなっているのか、わからないまま、あなたに振り回されていたのが」
クラウスはこの家を私に案内しながら、ちゃんと話してくれた。あの時捕まえた人たちは、私の家を燃やしてはいないと言っているらしいこと。クリスが亡国の王子である以上、その血を神輿にしようとしたりする人も、きっと現れること。だからこのまま、この小さな家で一緒に暮らしたい、と。
私は、それに頷いた。クリスがクラウスによく懐いたのもあるし、彼が森での日々を大事にしてくれていたと、形にしてもらえたのが嬉しかった。
「ねえ、クラウス? 今日は義姉様ともう一回、お出かけをやり直すの。嫌って言わない?」
「言わない。でも、ついていく」
「熊みたいに大きいのに、時々、すっごく子供みたいね。迷子にならないよう、手でも繋いだ方がいいのかしら」
私の冗談に、クラウスは久しぶりに笑った。私のよく知る笑顔だった。
「どちらかと言うとエスコートをさせていただけませんか、レディ」
「よくってよ」
精一杯のお上品な返事は義姉様のようにはいかなくて、二人で顔を見合わせて笑う。それから、その声で起きてしまったクリスを二人であやすことにした。
<終>
「……はい?」
私、アシュリー・モートンは言われた言葉に首を傾げた。思い詰めた表情をして変な姿勢をしている目の前の相手は、友人としてそれなりに付き合いのある男性だ。隣領の紋章がついた、黒い騎士の制服。普段は綺麗にするよう気をつけているそれが、雨上がりの泥で汚れるのにも構わず、地面に手足をついて頭を垂れている。短く整えられた黒髪も、もう少し頭を下げたら地面に着いてしまうだろう。とても、二十七歳の大の男――普通なら妻を迎え、子供でもいそうな年齢の男がやることではない。
「うー?」
腕の中の赤ちゃんは、そんな光景を不思議そうに見ていた。そういえば、この子がこの家に来てから初めて見る他人は、彼かもしれない。
「アシュトン卿、顔を上げてくださいな」
普段しない改まった呼び方に、彼の背がびくりと跳ねた。普段はそれなりに整っている顔も、しおれた犬のような表情と泥で台無し。こんな顔でも、「美貌の騎士様」とはしゃいでいた近くの村の子は顔が整っていると言うのだろうか。何を誤解されていて何の責任を取ろうとしているのかは、少し考えればわかった。
だって腕の中のこの子、どう見ても私の目の色と彼の髪の色をしているのだもの。それでつい、クラウスの顔を思い出して「クリス」という名で呼んでいるのだし。ちなみに身に覚えは全くありません。私は今も清らかな乙女です。二十五と、女としてはいい年だけれど。
「この子は――クリスは、あなたの子ではありません。私の子でもないです。拾い子なの」
とりあえず泥を拭いて中に入って、と招き入れる。本当は布の一枚でも渡せればいいのだけれど、今、乾いている布は、この子のおむつしかなかった。さすがにそんなもので、他人を拭かせるわけにはいかない。洗濯をまとめてできて、気分のいい日だったのに。
それは今から十日前の朝。私がいつものように、朝の水汲みをしようと家を出た時。ふにゃふにゃと泣く声が聞こえたのは、そんな霧の朝のことだった。
「猫の子でもいる、の、かし……!?」
最初は、寝ぼけているのかと思った。夢の類かと思って一度目を擦っても、相変わらず、それはふにゃふにゃと泣いている。
「ど、どこの子で……?」
それは黒い髪に、青い目をした、おくるみにくるまれた子供だった。蓋のない編み籠に入れられていて、本来なら母親に抱かれているはずのそれは、家の扉の横にちょこんと置かれている。私が普通に扉を開け閉めする分には、籠を蹴飛ばしたりしない位置だった。子供は、まだ赤ちゃんと言ってもいいだろう。魔物避けの香が焚いてあるとはいえ、よく無事でいたものだ。周りに人の音はしない。誰が子供をここに置いていったにしろ、それは夜の間のことだろう。
おそるおそる抱き上げると、その子は私の腕の中でくたくたと揺れて、それから泣いた。おくるみは湿っていて、霧の間、もしかしたらずっと置かれていたのかもしれないと思うと血の気が引く。
赤ちゃんの世話なんて、子守の賃仕事をした程度の経験しかない。それでもなんとか抱きしめて軽くゆすると、かわいい顔で笑ってみせた。
「なんだか、私と同じような目をしているわね」
ただ青と呼ぶには少し、緑がかった湖色の瞳。その色は私に似ているが、子供を産んだ覚えは全くない。子供を産んで置いて行くような親族の心当たりも、まったくなかった。もう誰もいない、天涯孤独の身の上なのだから。白く透き通った肌に、ふわふわの黒髪をしていた。
「ちょっとごめんねー」
水汲みを中止して、すぐに赤子を家に入れる。手がかりでもあればと思ったけれど、上等な布のおくるみは無地で、何の模様もついていなかった。どこも怪我もしていない、元気な男の子。本来なら近くの村の、子供を育てたことのある女達に預けるのが正解だろう。でも、この子は私が家の壁に掲げている女神の印の前に置かれていた。……誰かが、女神に縋る思いで置いて行ったのだ。それがわかるだけに、他人の手に渡しにくい。
「それならせめて、勝手に置いていかないで赤ちゃんをよろしくお願いしますの一言くらい……ああ、ごめんごめん!」
ふにゃふにゃと泣いている赤ちゃんはお腹が空いているようだったので、私が飲むつもりでいたミルクを飲ませてあげることにした。目一杯綺麗そうな布をミルクに浸して捻り、赤ちゃんの口に当てがう。ちうちうと吸う音を聞きながら手がかりを探していると、数枚の銀貨と綺麗なペンダントを見つけた。それ以外は、名前を示すものも何もなかった。
「――というわけで、これがそのペンダントよ」
クラウス・アシュトン卿は私が差し出したペンダントを「拝見する」と言って受け取り、驚いた顔をした。クラウスは大体のことが顔に出る実直な男で、それまでもわかりやすく怪しんでいる顔をしていた。しかし、私が出したペンダントは、森に暮らす平民の薬師がおいそれと手に入れられるようなものではない。彼は、それがわからない男ではなかった。
細かい鎖はすべて銀色に光っていて、真ん中には艶々とした石のようなものを組み合わせて、青と白で女神の印を描いたものがぶら下がっている。私も癒し手として、掲げているものと同じ印だ。クラウスの大きい手の中で、パキッ、と小さく石は音を立てる。
「壊したの!?」
「壊してない、ここが開く構造になっていたんだ。……まずいぞ」
開いた中には、別の印が二つ刻まれていた。右の印はどこかで見たことはあるけれど、思い出せない。左側の印は、白百合の花だった。
「トゥルーラの国章に、白百合だ」
「でもトゥルーラ王国って、十年前に滅んでしまったんじゃ……」
優れた薬と医師の技を持っていたという王国は十年前、戦争で滅んだと聞いている。
「だが、王族の一部は逃げ延びたとされている。この白百合をシンボルマークとしていた王女も、確か、生死がわかっていない人の一人だ。アシュリー、この子と首飾りを見た人は?」
「い、いないけど……」
ここしばらくは怪我人や急病人の知らせもなくて、クリスの世話にかかりきりでいられた。近くの村の人々に、声をかけられた記憶もない。
「ならいい」
そう言って咳払いをしたクラウスは、私の前で片膝をついた。大柄な男が、体を小さくして私に跪く。今度の姿勢は、私にも意味がわかった。
「俺の子を育てていてくれていたとは、申し訳ない。責任は取るから、俺と結婚してください」
「今の話聞いてた?」
「頷いて、俺の家に来てくれ。そうでなければ……きっと君とその子は、殺される」
「え……?」
クラウスの顔は真剣だった。こんな真面目な顔をする彼は、数年の付き合いだけれど見たことがない。冗談を言うような男でもないから、殺される、という言葉は彼にとって本気なのだろう。
それでも、私にはわからなかった。クラウスがプロポーズをしてきた理由も、この子と私が殺されるかもしれないと言ってきた理由も。
「確かにあなたは私の友達で、よくお茶を飲みに来てくれたものね。でもあなた、いつも日が暮れる前には、ここを出て行っていたでしょう? といか、殺されるって何?」
「世間体のために一度帰ったふりをして、夜遅くに再訪していたじゃないか」
「クラウス? 話聞いてる? この子は生後半年よ。でも半年前だって、私、思いっきりお腹を締める服装してたわよね? 先月だって赤ちゃんはいなかったわよね?」
私の言葉に、彼は目を泳がせていた。本当に、この人は嘘が苦手なのだ。クラウスは自分自身だって、この子が私達の間に生まれた子だと信じていない。
「君の不名誉にはなってしまうのだけれど、その分、大事にするから」
「あう」
クリスが、クラウスの方に手を伸ばした。興味があるらしい。大丈夫かしら、と心配しながらクリスを近づけてやると、クラウスはいとも簡単に、しかも私より確実に慣れた手つきでクリスを抱き上げた。
「よく笑う、いい子だな。アシュリー、この子のためにも来てくれないか」
確かに色合いだけ見れば、私達三人は、本当の親子のように見えるだろう。でも、だって、と渋る私の横で、クラウスはテキパキと荷造りをしていた。
「ま、待って、うちの貴重な一張羅を乱暴にしないで、自分でやるから!」
「大事なものは全部持っていくんだ。重いものなら俺の馬にも乗せるから。急いでくれ」
やけに急かされても、殺されると言われても、現実味のないまま。私はなんとか失ったら困るものをまとめた。全財産である硬貨と、数冊の薬草についての本、私の個人的な書き付け、干していた薬草の在庫、クリスのミルク壺。いつもお祈りしていた女神像、調剤道具、クリスの持っていた首飾り、それから私の着替えとクリスのおくるみ。最後に、お気に入りのティーポットカバー。
「急いでここを離れて、こっちの――ヴィッテルスバッハの領都に行くんだ。俺の剣にかけて、お前達には手出しをさせない」
「あの、村の人に挨拶を……」
「その時間はない」
こんなに強引なクラウスは初めてで、私は自分の馬のサティーに荷物を積み、サティーとその仔馬のレティーの手綱を持ったクラウスによって、彼の馬に乗せられていた。腕の中には何も知らず、すやすやと眠っているクリス。
「クラウス?」
「急ぐぞ。ちゃんとフードを被っておくんだ」
彼は私の家に何か透明な石を置いて、それに魔法をかけた。生憎と平民の私は魔法がほとんど使えないので、それがどんなものかはわからない。それから馬達と私達にも何かの魔法をかけ、私に何も話してくれないまま、馬を走らせ始めた。
――彼が何を焦っていたのか、わかったのはそれから間もなくのことだった。
「アシュリー」
領境の小川を越え、隣領に入ったところでクラウスはほっと息をつく。
「ここまで来たら、ヴィッテルスバッハだ。もちろんモリス女伯が民を売ることはないだろうが、女伯に話を通している時間はない。ここなら、この紋章の力で二人を守れる」
クラウスはそう言って、胸につけているヴィッテルスバッハの紋章を見せた。本当に悪い人たちがいるとして、彼らはそんなことを気にするのだろうか。そう思いながら、私はがくがくと震える足を草原で休ませた。その横でクラウスは、何かの文と赤いリボンを足につけた、明らかに魔法でできていそうな水晶の鳩を飛ばしている。
そして振り返って指差す先では、明らかに私の家がある場所から、黒煙が上がっていた。
「私の家……」
「俺も、あそこでお茶をする時間が好きだったよ。でも、あそこに残っていたら、燃えるのは家だけじゃない。馬達と、アシュリーとクリスだった。敵は君たちを殺せたと安心しているだろうが、死体がないことに気づかれる前に森を抜けないと」
怖くなって、私はむずがるクリスを抱きしめる。もし本当にこの子に追っ手がいるのなら、この子の親はどうしているのだろうか。
「兄上にさっき、鳩文を飛ばした。兄上達と合流するまでに、表向きの話を擦り合わせたい」
クリスのおしめを替えて抱き直した私に、クラウスはそう言ってきた。
私はモリス女伯領の村娘で、クラウスとは領境の森で出会い、恋に落ちたこと。クラウスの子を身籠もったことに気づき、身を引こうとしたが、母子ともども見つかったこと。クラウスが熱心に口説き落として、ペンダントを贈り、私達を迎えに来たこと。
「クラウス」
「なんだ、アシュリー」
「巡業者の恋愛物語の芝居よりくどい」
「案外、こういう方がウケはいい。兄上には後で、俺から真実はお伝えする」
大丈夫かなあこの人、という視線に気づいたクラウスは、また目を逸らした。クリスに髪を引っ張られて、私は幼い瞳が何の不安もない色をしていることに安堵する。
「クラウスって前から思っていたけれど、女の私より女みたいなところがあるわよね」
「それでも友達のように接してくれるのが、俺にはどれだけありがたいか。それも、今日までだが……さあ、もう少しだ。クリスにも、馬達にも、もちろんアシュリーにも。ヴィッテルスバッハでの暮らしが居心地のいいものでありたいと、俺は思っているよ」
私はクリスを抱いた状態でもう一度馬に乗せられ、その後ろからクラウスが手綱を持ってくれた。いつにない大荷物なのに、彼の黒馬・ウィルは元気そうだ。首を撫でてやると、嬉しそうに鳴いた。レティーも遊んで欲しそうにしているけれど、出発の空気を察したサティーに鼻でつつかれている。あとで遊んであげるからね、と軽く手を振った。
「クリス、じっとしててくれていい子ね」
「あう!」
おくるみの中から少しきょろきょろするだけで、暴れるでも大泣きするでもなく大人しい。そんなクリスを抱いた私を乗せて、馬達はもう一度走り出した。
***
「ああ、見えた。兄上と……あれは多分、義姉上だな……」
しばらくして森を抜けた頃、やっと大きな道に出た。そしてそこには、大きな馬車が二台と、馬に乗ったいくつかの人影が見える。それだけの段階でも、クラウスには誰かわかっているようだった。
「クラウス、緊急の赤を見て慌てて駆けつけたが……そちらのご婦人か」
「はい、兄上」
クラウスの兄。確かに、兄が二人いるという話はしていた。上の兄が家を継いでいて、下の兄は王都の騎士をしていると。それはいい。問題は、彼らが明らかに貴族であることだった。
「ご実家、商家って言ってなかった……?」
目を合わせてくれなくなった。私が驚いているのを見て、お兄さんはにっこりと微笑んでいる。黒い髪を長めに伸ばしていて、同じ赤い目をしていたけれど、クラウスと比べると小柄な人だった。着ているのも鎧ではなく、仕立ての良さそうなシャツとズボンに上着だ。問題は、その上着にしっかりと見覚えのある紋章がついていることだけれど。
「ニコラウス・ヴィッテルスバッハ」
「……はい、兄上」
予想より重く仰々しい名前で呼ばれて、クラウスは明らかに沈んだ声音で返事をした。田舎の学のない薬師とはいえ、ヴィッテルスバッハの名前の意味がわからないほど私も愚かじゃない。
「お前ももういい年だ、好きな女ができるのは構わない。しかし、順番も全部間違えて、それでも連れてくるとはどういう了見かい? 囲うなら囲う、遊ぶなら遊ぶ、妻にするなら妻にする。一度決めたことを途中で変えられるほど、甘い生き方ができる立場ではないのだよ」
珍しい考え方かもしれないな、とふと思った。貴族の遊び相手になる娘の話なんて私でも知っていて、そういう女は大抵ロクなことにならない。子供ができたとしても、女側だけが責を負うことになるのが大半だ。モリス女伯の先代の頃は、鬼灯の薬がよく売れたのだと婆様は前に話していた。その意味を知ったのは、婆様が流行り風邪で死んだ後だけれど。なのに、辺境伯は私ではなくクラウスの方に怒っている。クラウスも早く嘘だと話せばいいのに、黙って話を聞いていた。
「……これ以上は、女性の前でする話ではないな。お前、僕の馬車においで。それとご婦人、僕はこいつの兄でアレクサンダー・エルカ・ヴィッテルスバッハ辺境伯。この地の領主として、貴女達を歓迎します」
そう言って辺境伯は私に頭を下げてくれたけれど、目が笑っていなかった。今日は朝から訳の分からないことの連続で、頭痛がしてくる。頭痛薬……荷解きしないと見つけられないな……。
「あ、アシュリー……モートン村のアシュリーです……あの、その、彼が辺境伯様の弟さんだなんて、知らなくてですね……」
「こいつは嘘と腹芸はてんでダメですがね、その分、言わないでいることを覚えてしまった。ダメな弟です」
「その……こうなる予定が、なかったので……兄上、それより、二人の安全を」
そうだね、と辺境伯は頷いた。彼が馬車の戸をこつこつと叩くと、綺麗な青いドレスを着た女性が出てきた。栗色の髪と柔らかな緑色の瞳の、穏やかそうな女性だ。右腕の青い腕輪は私と同じ、女神の信徒である証。でも明らかに、石を磨いただけの私のものと違って、宝石で飾っていた。彼女は腕輪を見せるようにして私なんかに丁寧に一礼してから、「貴女達はこちらへおいでなさいな」と馬車に私たちを乗せようとする。
「突然こんなことになって、大変でしょう。わたくしはナディア・ヴィッテルスバッハ。一応は辺境伯夫人なのだけれど、今日からは貴女の義理の姉で、その子のおばさまです」
「ナディア義姉上はいい人だから、安心してくれ」
クラウスが、私の耳元でそう補足する。子供が二人いて、世話にも慣れているから、クリスのことも心配ない、と。
「よ、よろしくお願いします……」
私はクリスと共に、辺境伯夫人の馬車にお世話になることとなった。クラウスは、辺境伯からおうちに帰るまで馬車の中でお説教らしい。当然、おうちというのも、お城なのだろう。馬車に乗って真っ先に、辺境伯夫人はこう質問してきた。
「彼、貴女に自分のことをなんと説明していたの?」
「商家の三男の、クラウス・アシュトンって……」
「ああ、お義母様の苗字を使っていたのね……」
後で私からも言っておくわ、と遠い目をした辺境伯夫人によると、彼の本当の名前はやっぱり、ニコラウス・ヴィッテルスバッハ。クラウスは愛称らしく、なるほど、辺境伯が言うところの『言わないでいることを覚えてしまった』というのは、こういうことかと納得した。魔物退治を専門とする部隊の騎士、と言っていたのは、一応本当だったらしい。ヴィッテルスバッハの騎士であることも。ヴィッテルスバッハ家では店もやっているから、商家というのもすべてが嘘ではないらしい。でもそういえば、どんな商売をしているのか、細かい話は聞かされてなかったなあ……。
「浮いた話のひとつもない義弟だから、見合いをさせても全戦惨敗。どうしたものかと思っていたら、貴女……この子、抱いてみてもいい?」
「ええ、どうぞ」
最初はふかふかの椅子に座るだなんて畏れ多い、と思っていたのに、結局座らされてしまった私は、クリスを夫人に渡した。気持ちよく眠っていたクリスは揺れで起きてしまったのだけれど、手慣れた様子の夫人にあやされ、また眠る。
「クラウスの髪に、貴女の目ね。若いのに、大変だったでしょう……」
「あはは……」
苦笑いしかできなかった。そして緊張していたはずなのに、クリスが安心して眠っているのを見ているうちに、疲れが出て私も眠ってしまった。
***
ヴィッテルスバッハの城は、私には随分と大きく、物々しく、そして頼もしく見えた。素朴な木の食器で食事をするのには拍子抜けをしてしまったのだけれど、割れなくていいと辺境伯夫人……改め、義姉様は笑っていた。本当は夫人とか、ちゃんと敬意をもって改まって話すべきだし、無礼なことだとわかっている。これは本人からの半ば命令で、義姉様と呼ぶことになってしまった。辺境伯も、義兄様と呼ばせてきている。
お辞儀のひとつもちゃんとできない未熟な私を、この城の人達は誰も笑わなかった。使用人の人達も、私を奥様と呼んでくれている。式の日取りまで決められそうになっているほどだ。まあ、クラウスは私との『順番を間違えた』ことで義兄様にも以外にも叱られたのか、しばらくの間、しおれた犬みたいになっていたけれど。でも、私が知りたがったら、礼儀作法や私の知らない文字も教えてくれるようになった。薬草学の本もお城には何冊かあるそうだけれど、見せてもらったら、今の私には半分も読めなかったのだ。
最初は、クラウスは私を連れてお城近くの自分の家に住む予定だったらしい。それが義姉様の「お城に一緒に住む気で連れて来たんじゃないの?」という言葉で、城に本格的に住むこととなってしまった。石造りの城は寒々しく、沢山の部屋があって迷いそうになる。そんな私が知った場所しか動けないのに対して、クラウスは無知を責めることもなければ馬鹿にすることもなかった。私はクリスと共にクラウスの部屋の隣を与えられているのだけれど、壁はクラウスが外してしまって、実質同じ部屋だった。夜の寝台は別にしている。元々二つの部屋だったから寝台も二つあって、本当によかった。メイドさん達がどう思っているかはわからないけれど、覚えることが多くて疲れた私はいつもすぐに寝てしまう。
クリスには上等な揺り篭に、かわいいおくるみ、そしてちゃんとした食事が与えられるようになった。私が下手な縫い方をしたおくるみと違って、クラウスやちゃんとした人が作ったものは、縫い目が見えないものだった。赤ちゃんの肌に引っかからないよう、特別な縫い方をしているらしい。もうお乳は卒業していて、柔らかいパンをミルクに浸した離乳食をあげるようになっていた。
「アシュリー」
「なあに」
「……これ、作ったから受け取ってくれ」
クラウスが何か作っているな、とは思っていた。女の手技と呼ばれているような、縫物や編み物の類が私は大の苦手で。それに対して、クラウスはそういうものが大の得意だった。見習い騎士の仕事で覚えて、すっかり得意になったらしい。今も部屋の中央で鎮座しているティーポットにかけられている、私があの家から持ってきたカバー。これはクラウスが編んだものだった。
そしてここ数日、一人で黙々と何かを編んでいると思ったら。彼が編んでいたのは白い、細かなレースで編まれた長手袋だった。
「綺麗……破ってしまいそうで心配」
「その時は、また編むから」
つけてみると、締め付けもきつくなければ緩すぎるわけではない。いつの間に手の大きさを測られたのだろうと、そう思ってしまうほどにぴったりだった。
「でもこんなものつけたら、調剤も洗い物も、何もできなくなっちゃう」
「今の君は、この城の住人で、洗い物は使用人達の仕事だ。やらなくてもいい」
クラウスがそう言うことよりも、本当に当たり前の顔でそう言ってきたことを私はどこかで悲しく感じた。彼が商家の三男坊などではなく、やっぱりこの城に住むだけの貴族なのだと——本来は身分が違うのだと、感じてしまうから。彼は自分の懐に目線を落としてから、私の顔を心配そうに見た。
「また、悲しそうな顔をしている。アシュリー、やっぱり森に帰りたいのか?」
「森には、帰りたいけれど……やっぱりあそこが、私の家だったんだもの。でも、それだけじゃあないわ」
クラウスには何を落ち込んでいるのか聞かれたけれど、私にはうまく説明ができなくて首を横に振るしかなかった。クラウスの声は、私の知っている声とは変わってしまっている。でも何が、と言われても、言葉を知らない私にはちょうどいい言葉が見つからない。
「この城にいるのは、長年うちに仕えてくれている人達だ。アシュリーはここで、クリスと俺と、安心して過ごせばいい。長い休みになれば、俺の甥っ子達やもう一人の兄上も帰ってくる。みんな、いい人達だ」
確かに、追っ手の影や不審な出来事はなかった。とはいえ、ヴィッテルスバッハに来てからはこの城の以外の場所にあまり出ていないから、彼らに見つかっていないのか、死んだと思われているのか、正直わからない。
「そうね……ああクリス、どうしたの?」
ぐずるクリスを抱いてみると、おしめが汚れている様子はない。離乳食も……さっきお腹いっぱい食べていたしな。熱や咳、湿疹、鼻水、その他病気の兆候はなし。
「遊んでほしいの?」
「あい!」
それなら、と汚すわけにもいかないから、レースの手袋を外してクリスを抱き直した。高価な服だろうに、クリスのよだれがついても何をしても、城の人達は何も言わない。クラウスの子だと、皆が思っているからだろう。この城の主の一族だから。クリスは本当は王族だから、もっと大きなお城に住んでいたのかもしれない。滅んだ国の王族がどうやって生きていたか、私にはわからないけれど。クラウスは私をここに連れてくる気がなかったようだから、クリスを拾わなければ、生涯こんな場所に入ることはなかったに違いない。
「アシュリー、明日から俺は騎士団の仕事で数日城を空ける。兄上がいるから心配はないと思うが、クリスともども、気を付けてくれ」
「……わかった」
この城に来てから、もやもやするような、鬱々とするような気分は抜けないでいた。クラウスといても、前と同じようにお茶をしても、気分が完全には晴れないでいる。それでもクリスの顔を見ると、かなり気が楽になれた。
「私、どうしちゃったのかしら。ねえ、クリス? 午後には義姉様が、気晴らしにお茶会でもどうって。私、上手にお茶なんて飲めないのにね」
「うー?」
クリスは私の顔を見て、きゃっきゃっと嬉しそうに笑った。私はこの子の母親でもないけれど、この子の母親の分まで、預けられたからには幸せにしてあげたいと思う。
「アシュリーちゃん、こっちよ、こっち。クリスちゃんもいらっしゃい」
「呼んでくださってありがとうございます、義姉様」
その日のお茶会は、外にテーブルを出してのものだった。一生懸命お作法を思い出し、カップの穴に指を通さず飲もうとしている私を見て、義姉様は「うちの義弟が本当に悪いことをしたわね」としみじみ仰った。
「いえ、こんな暮らしをさせてもらっていいものかと……」
「いいのよ、貴女は考えなしの義弟の被害者なんだから。宝石でもドレスでもねだりなさい、払わせるから」
生憎と、そういうものに興味はなかった。首を横に振る私に、クリスが抱っこしてほしそうに手を伸ばしてきた。揺り籠から抱き上げて、膝に乗せると楽しそうにはしゃいでいる。
「そういえば貴女、クラウスからペンダントはもらった? こういうものなのだけれど」
義姉様は自分の首につけていた、宝石のついた金色のペンダントを軽く弄ぶ。
「いえ、特には……?」
「そうなの? じゃあ、野暮を言ってしまったかしら。忘れて頂戴。不便なことはある?」
「……いいえ、ありません」
嘘をついた。本当はいきなりこんなところに連れてこられて、右も左もわからなくて、不安は多い。最初に抱いた印象より、城の暮らしというのは大変なことはわかった――虫はいるし、キラキラした宝石は重いし、凝った服は肩が凝る。お城の全ては手入れができてないという言葉も、少し暗がりを覗けば事実だとわかった。
「それじゃあもうひとつ。アシュリーちゃん、クラウスのどこが好きになったの?」
「ぶっ」
危うく、お茶を吹きかけた。なんとか吹かずに済んだけれど、少し咳が出る。落ち着いたところで、お茶菓子を勧められた。私があの家で焼いていたような、ザクザクの岩のようなクッキーではなく、紙のように薄いクッキー。しかももっと甘い。
「あの人は、その……初めて会った時は、迷子の犬か熊のように見えました」
「森で出会ったのだっけ」
はい、と頷いたところで、ふと、悪戯心が沸いた。大きな嘘をつかれていたのだから、一個くらい、私からクラウスの恥を晒してもいいだろう。
「あの人、私が獣用に仕掛けてた罠にかかって、しょぼくれた犬の顔で途方に暮れていました」
今度は義姉様が吹きそうになっていた。そこは貴婦人、私より簡単に動揺を収めると「どうして罠に……?」と聞いてくる。
「道に迷って、うっかり罠を踏んだと言っていました。腰に剣もあるのに、網罠を切らなかったんです。大人しく引っかかった状態でいて。理由を聞いたら、網は安いものじゃないだろうとか言われました」
事実、くくり罠や落とし穴よりは値が張るものだったのは確かだ。私は糸紡ぎも下手だから、自分では用意なんてできない。獣に切られたのなら諦めがつくのだけれど、人に切られていたら確かに腹が立っていただろう。
「それもあって、信じてたんですよね……商家の三男坊って説明を……」
義姉様はため息をついていた。それからお茶を一口飲んだ後、「気晴らしに出かけましょうよ」と提案してきた。
「クリスちゃんも一緒に、三人で。出かけると言っても、本当に近くだけれど……お買い物に行って、全部義弟に支払いをツケるの」
「いいんですかそれ」
お城の近くの店なら大丈夫よ、と言った義姉様によって、三人でのお出かけが決まった。とはいえ今日はお仕事があるそうで、明日になるそうだ。クラウスは私とクリスの安全を気にしていたけれど、私はここに来てからずっと城の中にいる。女神の印を掲げた家を燃やすような人達を怖いと思う気持ちはあるものの、前よりそれが薄れているのも事実だった。クリスを抱いてこの家に来て、一か月以上。『時は最上の忘れ薬』という言葉を、こんな形でまた実感する日が来るとは思わなかった。
「駄目だ。外に出るなんて危ないし、クリスを連れていくなんてもっと良くない」
「でもそう言って、危ない目に遭ったのはあの時だけよ?」
お茶会を終えて部屋に戻り、クラウスには外出の話をしたら、真っ先に反対した。クリスの正しい血筋のことを知っているのは義兄様だけで、義姉様はクリスがクラウスの子だと思っている。だから、出かけると言うのだろう。それに、提案されて気づいたけれど、私は外に出たいとずっと思っていた。重い石造りの城も、きらびやかで割ってしまいそうな家具も、危機感が薄れるようには慣れてくれない。
「聞き分けてくれ、アシュリー。君のためなんだ」
顔をそむける私に、クラウスはため息をついてから何かを取り出す音を立てた。そちらにちらりと目を向けてみると、クラウスの手には高価そうな金のペンダントがある。先端には大きな、赤い石がついていた。クラウスの目の色に似ているそれをどうするのだろうか、と思っていると、彼は私の首に手を回し、そのペンダントをつけた。
「どうしても出かけるなら、これを付けるんだ」
「重いんだけど……」
「お願いだ。でなければ、外出は認められない」
義姉様が言っていた『ペンダント』はこれのことだろうか。本当は大きな石に対してあまりにも細い鎖も不安で外したかったのだけれど、あまりにも真面目な顔で言ってくるから、とりあえず受け取ることにした。
「……クラウス、あなた、命令するのに慣れた言い方をするのね。ここに来てから、ずっとそう。話し方も発音が違うの、きづいている?」
「それ、は、」
「いいの、わかっている。私の家で見せていた、あの顔は平民のふりをしていただけなんでしょう? 今のあなたの方が、本当のあなたなんだものね。ニコラウス・ヴィッテルスバッハ卿」
はっきりと、傷ついた顔をしているのがわかる。私は薬師なのに、人を傷つけてしまった。女神像から反射した日射しが、私を責めているように感じる。でも、止まれなかった。
「クリスがもう滅んでしまった国の子だって、私のことをここに連れて来て、私とこの子を保護したって言って、でも、私は一度も、そんなことを望んでいなかったのよ」
「……だけど、あいつら、アシュリーの家に火を、……女神の印を掲げた、誰も冒してはならない家に火を」
「そこはありがたかったけれど、でも……ああ、なんて言えばいいのか、学がないのが嫌ね!」
私が大きな声を上げたのにびっくりしたらしく、ふぎゃああ!と泣き声が揺り篭から上がった。クリスを抱きしめてあやしてやりながら、クラウスには一言、「明日は絶対に出かけるから」と伝える。
「きっと、何もないわよ。そしたら、もう少し制限を緩めてくれる?」
「アシュリー、待って——」
「おやすみ」
私はそのまま、クリスを抱いて自分の寝台に行った。寝台にカーテンがついていることを、この日ほどありがたいと思ったことはなかった。
次の日、私はクラウスと口を利かなかった。義理の兄姉夫妻と一緒に朝食をとる時も、ずっと。
「アシュリーちゃん、もしかしてクラウスに反対されたの?」
「はい。ですが、私も買い物とか、したいなって」
「そう……」
「クラウス、何が原因かは知らないが悪いことをしたと思っているなら、後でちゃんと謝りなさい。ただし、騎士の仕事をちゃんとしてからだ」
「はい、兄上」
突っ込んだ事情を私達の口から聞こうとしないでいてくれたのは、正直、ありがたいと思った。もっとも、昨日私とクラウスがもめていた直後にメイドさんが来た音はしていたし、多分、誰かが聞いて話をしていたようにも思う。
「ナディア、アシュリー嬢とヴィッテルスバッハ領都の店を見て回るんだったな。彼女は慣れていないだろうから、早めに返してやりなさい」
「お土産は買ってくるからね」
義姉様は朝食の後、私にドレスをあげるからお部屋に来てね、と言い残して先に戻ってしまった。
「この綺麗な服で出かけるんじゃないの……?」
「それは部屋着だから、外に出るのは別だ。アシュリーのクローゼットに入れておいたのだけれど、あの様子だと、ナディア義姉上がご自分のものを譲られるかも」
私の呟きに、クラウスはいつものように返事をした後、気まずそうに目をそらした。彼は困ったような顔をして、もう一度「そのペンダントは絶対外さないように」とだけ言って、先に行ってしまう。
「まあ、概ね、弟が悪い。貴族に成り上りたいって野心を燃やしているような女ならともかく、弟はきみのような女性には、本来、近づくべきではなかった。近づいても、間違いを起こすべきではなかった。野の花を摘んで花瓶に活けたとして、それが花を枯らすことになるとわかっているのなら、摘むべきではない。それをクラウスには、こんこんと叱っておいたのだけれどね」
「……」
本当は、義兄様が気にしているような『間違い』なんてなくて、彼は私の命を守ると言って、自分の名誉を落とすような話をしているのだ。今になって、彼の払った対価の大きさが見えた気がした。義兄様は私が俯いているのを見て、「貴女を責めているのではないよ」と口を添えた。
「実は君のことは、弟が時々話していてね。領堺の森で、自分の編み物を喜んでくれる女性に会った。そんなのは初めてで、とても嬉しいって」
「それは……私は本当に、苦手なので……」
先代が教えるのを諦めたくらいには、本当に苦手だった。そんな私にとって、クラウスの手から作り出されるものは、それ自体が魔法のようだった。
「弟から、クリスのことは聞いている。あの子の持ち物のことも。でも、もっといいやり方があっただろうと、私はあの子を叱ったこと自体は取り消す気はない」
少し婉曲的な言い方をされたので、一生懸命考える。確か義兄様には本当の事情を話したと、クラウスは言っていた。だから、クラウスと私の間に間違いがなく、彼は本来そんなことをしていないのも知っている。でも、表だっては『そういうこと』になっていること、それによって私とクラウスの評判を落としていることに対して、もっといいやり方があったかもしれないとクラウスを叱っていた……と、いうことなのだろう。
「護衛騎士もつけるから、ナディアと羽を伸ばしておいで。ただし、はぐれないようにね」
「はい、義兄様」
買い物はさせてもらうけれど、その中で、クラウスの好きそうなものがあれば自分のお金で買うつもりだった。
馬車に乗って到着した領都は、すべてが石でできていて、私にはとても都会に見えた。想像していたよりもたくさんの店が並んでいて、たくさんの人が行き交っている。義姉様は私がずっとクリスを抱いているのを見て、「今日くらいはメイドに預けたら?」と笑う。
「いいんです、この子のものも見たいですし」
「なるほど。それじゃあ――」
馬車を少し前で止めてもらって、広場を見たり気になる店を覗いたりしてみたい。そんなワガママを叶えてもらって歩いている時、人混みが目についた。
「何があったの」
「すみません、ご婦人方はどうぞお下がりください……人が倒れていると知らせに来た者がいたのですが、どうも人殺しが出たそうなのです」
義姉様が呼び止めた騎士は、クラウスとは違う服を着ている若者だった。私は薬師として人混みを掻き分けようとしたけれど、彼に止められる。
「そのお姿、ニコラウス様の奥方ですよね」
「ええ。もし必要なら薬を――」
「……いいえ。先ほど、もう神の御許に行かれたことを街の医師が確認しております。ご婦人の善意には心からの感謝を申し上げますが、今は下手人探しと、彼のことを知る者を探しているんです」
「そうですか……」
私はおとなしく引き下がった。人混みがひどくて、誰が死んでいるのかはちらりとも見えない。
「おい、あの服、あの男じゃないか? ほら、嫁と息子に逃げられたって、絵姿持って探してた……」
「ああ、湖で死んでたのが嫁さんだって、気落ちしてたからなあ……」
私の耳にも入った言葉を聞いて、騎士が「すみません、そのお話、詳しく聞いてもいいですか」と声をかけに行く。
「アシュリーちゃん」
「義姉様」
「とりあえず、離れましょう。ごめんなさいね、もっと平和で穏やかな、そんな領都を見せたかったのに。よりにもよって、こんな時に人殺しだなんて……」
クリスが人混みの向こうを、じっと見ているような気がした。私が「どうしたの?」と聞くと、まるで誰かにあやされているように突然笑い出した。
「クリス? 何が面白いのかわからないけど、ご機嫌でよかったわねぇ」
はしゃぐクリスをあやして人混み以外の――遺体以外を見せてやろうとした時、ふと、路地裏の近くでぐったりとしている人影が目に入った。
「あの人、具合悪いのかしら……義姉様、その、少しクリスを見ててもらえますか」
「アシュリーちゃん? どうしたの、そういうのは医者を呼んで……」
義姉様の言葉は当然だけれど、私は、死人に渡せなかった薬のことを思った。あの城に来てから調剤なんて全然できていなかったけれど、私は薬師なんだ。具合の悪い人に、せめて薬を届けたかった。
「もしもし、どこか痛みますか? 大丈夫ですか?」
それは薄汚れた、色黒の若い男だった。彼は私の顔を見て、「ちょうどいい」と腕を掴む。そこから鋭い痛みが一瞬走ったかと思うと、私の視界は急激に暗くなった。
***
――短いうたた寝だったようにも、ぐっすりと長い時間眠り込んだようにも思える時間が過ぎて、私は目を開けた。私はどこともしれぬ廃墟の寝台に寝かされていて、男に顔を覗き込まれている。
「おや、目が覚めたか。もう少し効くはずだったのだけれど、粗悪品を摑まされたかな?」
私の腕は細い鎖か何かで後ろ手に縛られていて、切れそうになかった。目の前の男は、二十前後と言ったところか。軽薄そうな笑みを浮かべているのに、目がちっとも笑っていなかった。短い銀髪に、灰色の目と色黒の肌は、確か、どこかの異民族の特徴だったか。泥汚れを落とした頭は、酒場で女の子をいくらでも引っ掛けられそうな整い方をしていた。ああ、クラウスには怒られる。謝ろうと思ってたのに。クラウスの目に似た赤いペンダントはそのまま私の首にかけられていて、私のことを責めているように蝋燭の明かりを反射させた。ガンガンと痛んで思考が霞む中で、何が起きているのかを理解しようとする。
薬を盛られて、攫われた。多分毒針か何かに仕込んでいて、血中で作用する即効性。喉が渇いた感覚と、頭痛、思考力の低下。
(マルカ草の煎じ汁にラコスの根の調合ね。意識を失わせるのが目的だった。私は職業柄で耐性をつけていたけれど、本当はもっと眠らせるつもりだった、と……)
「さて奥様、オレはリック。だが、アンタに用があるのはオレじゃあないんだ。我らが女王サマが、あんたみたいな青緑の目の女をお探しでな」
丁度ぴったりなのがいたから、と言って、彼は私の頬骨に手を添えてきた。じっと私の瞳を見ているように思う。
「ホント、びっくりするくらい目の色だけは似てるから、アンタなら長持ちすんだろ。今んところ殺す予定はないから、まあ、安心しな。オレは、だけど」
「女王、様……?」
まだ薬で頭が満足に回らない。ぼんやりと、この国にいるのは王様だったはずだ、とだけ思い出せた。
「我らが女王サマは、生き別れの妹君をお探しだ。もちろん女王サマの妹なら姫様なわけだから、妹様が見つかるまでのお人形を、その辺の女になんてやらせられない。お人好しな奥様なら、仮病のオレを助けようとしたみたいに、助けてくれるでしょ?」
言ってることは無茶苦茶だし、間違いなく女王様とやらもロクなものではない。
「リック、女王サマ起きたぞ」
「お、丁度いいや。奥様、拒否権はねえからな。アンタを殺すのだってオレ達平気だし、お綺麗な奥様を殺さなくても家に帰れねえようにする方法だって、いくらでもあるワケ。このねぐらで女は、女王サマとアンタだけだからさあ」
扉から声をかけてきた配下らしい男の言葉を聞いて、リックは私を無理やり立たせた。この男は、私が誰かを知らない。クリスの追っ手でもない。ただ、私の目の色を見て攫った、らしい。それがいいことなのか悪いことなのか、それはわからなかった。クリスをあの時預けてよかった、と、それだけが救いだった。この人達は私のことをそこまで知らないのか、義姉様のような貴婦人だと思っているようだ。綺麗な服を着せられただけの平民なので、その目論見は大外れなのだけれど。
「私に……何、させるの」
「だからぁ、妹様のフリさあ。女王サマが飽きたら、帰してやるから。今からアンタは『アマランサス王女』さ」
「アマランサス……王女……」
どこかで聞いた名前だった。強引に歩かされて思い出したのは、その名前があのペンダントの持ち主――白百合を紋章とした、クリスの実の母親のものだということだった。
「女王様、アマランサス王女をお連れしました」
軽く咳払いをした後、リックはさっきまでの軽薄な態度が嘘のように丁寧な発音で話して、扉を開けた。
「……っ!」
部屋中に漂う、甘ったるい、果物の腐った臭い。これがわからない薬師はいなかった。
(ジョルハム中毒だ……)
息を吸いすぎないよう、浅い息をする。ジョルハムは、元々は安価な鎮痛剤として生まれた薬。それに依存性があると薬師達が気づいた時には、世の中に広まりきっていた。ジョルハムの見せる幸福な夢に溺れた中毒者は、妄想を拗らせながら使う量と頻度を増やしていき、最期は気が触れて死ぬ。
綺麗に整えられた部屋の寝台で、一人の女が横になっていた。女の側には香炉があって、そこからジョルハムの煙が立ち昇っている。色の薄い金髪は長く伸ばされていたが、ぐちゃぐちゃにもつれていた。藤色の目にはクマが酷く、白目に血が滲んでいる。骨と皮ばかりに痩せ細り、窶れた面持ちの中に、今にも折れそうな気高さの残骸があった。首から下げているのは、クリスのおくるみに入れられていたのと同じ、トゥルーラの国章を内包しているだろう女神のペンダント。着ているものは、私が着ている義姉様のお下がりに似ているけれど、あちこちが埃で煤けたドレス。すべての指に指輪をしていたけれど、それらはすべて、平民の私にも安物だとわかるものだった。祭りの露店で商人が、子供相手に銅貨で売るようなものだ。
「大義でした、セオドア。……アマランサス、ああ、帰ってきたのね。男に嫌な目に遭わされて、怖かったでしょう」
女の手は、私の頬に触れて目を覗き込んできた。私が視線をさ迷わせてリックを見ても、にっこりと微笑まれるだけで何も言ってくれない。女はリックのことを明らかにセオドアと呼んでいるのに、その説明が一切ないのも怖かった。
「お、……お姉、さま、男、って……?」
「アマランサス王女はお辛いことを思い出さないよう、忘れておしまいになったようです」
クリスの実母が彼女だと思っていたのだけれど、男に嫌な目にあわされて、ということなら、望まない子だったのだろうか。でも、そんな母親が、銀貨なんて置いていく?
「お前が忘れているなら、それでいいのです。召使に命じて、死ぬまで鞭で叩かせてやっただけですから」
銅貨の指輪をしていても、女の所作は美しいと思ってしまった。目は虚ろで、明らかに正気ではない。死ぬまで鞭で叩かせたというのが真実なら、それがあの死体なのか。それとも男の存在自体が女の妄想なのか、私にはわかりそうになかった。男が実際にいるとしたら、それはクリスの実の父親なのかもしれない、と思考が至って背筋が冷える。
ジョルハムの煙に長いこと浸りすぎていて、腕には薔薇状の痣があるのも見えた。そこまで進行しているのなら、もう、彼女は長くはないのだろう。
「その首飾りはどうしたのです?」
「ええと……貰いました。はい」
何を言えばいいのかわからなくて曖昧に答えた私の手を、女は骨ばかりになった手で掴んできた。
「痛っ」
「ああ、アマランサス、わたくしの妹。お前はわたくしといてくれるわよね? わたくしと一緒に……そう、あんな猿のような子供や、粗野な男ではなく……アマランサス……」
女は自分の中のアマランサス王女と話しているらしく、私の手を掴んだままぶつぶつと呟き出した。酷い綱渡りをさせられている気分で、怖くて仕方がない。
「そうです……お前は私の妹のアマランサスです……洗濯女のエイミーなんて、そんな……あの卑劣漢どもを打ち倒して、国に……お父さまと、お母さまと……」
話が少しずつ、支離滅裂になっていく。あいまいに笑って離れたいのに、私の後ろにいるリックの手は剣に伸びていた。あれは、私が『アマランサス』をできなくなったら斬るつもりの顔だ。……クラウスは、私の前で剣を抜いたこともなかった。そんなことを思い出してしまう。ジョルハムの甘ったるい香りで、私の頭もくらくらしてきた。女の横に、あの森の家が見える。商家の三男だと私に言っていた、あの頃のクラウスが見える。幻覚だ、と思っても、それはあまりに甘美な幻だった。綺麗なドレスより、あの着慣れた綿布の服が恋しい。大きな宝石より、自分の手で摘んだベリーがいい。辺境伯の弟のクラウスではなく、商家の三男のクラウスが良かった。
「そんな粗末な手袋は外して……」
「粗末じゃないわ」
気づいたら、声が出てしまった。女の顔が固まって、それから、魔物のように目を吊り上げた。
「アマランサス! 姉の言うことを聞きなさい!」
思いきり頬を叩かれた。痛い。ジョルハム中毒者の妄想に口を挟んでしまった時に、こうなることは多少わかっていた。けれど、私にはクラウスのくれた手袋は粗末に思えなくて、口にしてしまった。
「お前、女王様をこんなに刺激するだなんて……!」
リックが私の首に、剣を突き付けたのがわかった。ひやりとした白刃の感触。あ、ここで死ぬのかな、と思う。クリスが心配になった。クラウスや、義姉様や義兄様の顔が頭に浮かんだ。両親が流行り病で死んで、先代の婆様も死んで、森で暮らすと決めたあの日。あの時に、もう助けは求めないと決めていたのに。
私が死んだら、クリスはどうなるのか。あの子がせめて歩けるようになるまでは、見守りたい。
「こいつはここで殺して、それから……」
人のことを片手間に殺しそうなリックが怖くて、私はクラウスがかけたペンダントを握りながらつい、呟いてしまった。
「たすけて、クラウス」
「——やっと呼んでくれた!」
宝石が甲高い音を立てて砕けたかと思うと、次の瞬間、リックが吹き飛ばされた。目の前には、私が思い描いていた彼の背中がある。どんな魔法を使ってか知らないけれど、クラウスが、私の元まで来てくれたのだ。
「騎士サマ、というか旦那サマの登場ってワケ?」
「セオドア! この不審者を倒しなさい!」
剣を構えるリックや金切り声を上げる女を気にしないようにして、私はクラウスに「息を吸いすぎないで!」と警告した。
「わかっている。この匂い、ジョルハムだろう」
クラウスもリックも、互いに人を後ろに庇った形で剣を構える。その構えを見て、クラウスは「お前、名は」と聞いた。
「その構え方、元は名のある騎士とお見受けする。ニコラウス・ヴィッテルスバッハ、我が妻の命と名誉を守るため、お相手仕る」
「はぁー……」
多分、クラウスのそれは、リックの何かに触れてしまった。彼は髪をかき上げてくしゃくしゃにして、ひどく冷たい顔で立つ。
「トゥルーラ王国、女王ベアトリクス様の騎士セオドア。名乗るべき家名は、すでになし」
その女王は現実をどこまで認識できているのか、正直怪しいものがあった。ぼうっと視線を宙にさ迷わせていて、多分、私のことも見えていない。
「その国はもうない。お前達は、新しい生き方を探すべきだったんだ……エイミーと名乗るようになった、アマランサス王女のように」
「他人が俺達に踏み込むな!!」
リックが斬りかかるが、クラウスはその剣をあっさりと止めた。それから紐か何かで、リックを拘束する。
「セオドア? ねえセオドア、リックがいないんです。あの子が淹れる紅茶が飲みたくなりました。兄なんですから、行方を知りませんか?」
「もう、目の前のこともわかっていないのね……」
ジョルハムに溺れる前から、心がもう壊れていたのだろうか。彼女のために私を攫った男がセオドアなのかリックなのか、今自分がどこにいるのか、妹とどうなったのか。彼女の中でそれらをどう呑み込んでいるのか、外からは全く分からなかった。
リックはどこか、すっきりした顔でクラウスを見上げた。
「あー……やっぱり、兄貴みたいにはいかねえや。でも、ちゃんと止めに来てくれて……よかった」
「あんな攫い方、捕まえてくれと言っているようなものだ。俺の仲間が、もうすぐここに来る」
ベアトリクスのことは、クラウスは拘束しなかった。彼の言葉を聞いたリックは、ぼうっと天井を見ている。
「無事でよかった、アシュリー。中々呼んでくれなくて、焦った」
「だって……一人だったし……助けて、なんて言っても、来てくれる人なんて」
クラウスは私の手を、そっと握ってきた。
「今は夫として、俺がいる。クリスの世話でもなんでも、頼ってくれ」
「……うん」
「お説教は、部屋に帰ってからな」
「え」
大勢の足音と争う音が近づいてくる。確かに、二人で何かを話すのには向いていなかった。
***
クラウスは、私の知らないところで色々していたらしい。例えばクリスの実母……洗濯女のエイミーこと、アマランサス王女が死んでいたことは、私がクリスを拾うより先に知っていた。
「……湖で、アシュリーによく似た湖色の目をした女性が亡くなっていたんだ。その姿を見て、どうしても、生きているアシュリーに会いたくなった。クリスを見つけたのは、その時だ」
「じゃあ、それで……最初から?」
トゥルーラの国章を身に着けた赤子を拾ったという私と、湖の水死体が繋がった。それで私を逃がそうとしたのだと、クラウスは事件の片が付いた後、私に白状した。
「ああ、知っていた。正直、生涯隠していく気でいた。アシュリーに、必要以上に怖い思いをさせたくなかったから」
射し込む日射し。耳に懐かしい葉擦れの音。木を組んだ壁に、木の机と椅子に、あの懐かしいティーポットカバー。クリスは揺り篭ですやすやと眠っていて、時折、クラウスに揺らされていた。
私達は、森に帰ったわけではない。今も、ヴィッテルスバッハの家にはお世話になっている。ただ、結婚したのだからと言われて、私達は離れに移ったのだ。離れ、として、クラウスが建ててくれていた、あの家に似せた小さな家に。服だって、この離れにいる分には昔のような服を着させてもらっている。
「どうして……考えを変えたの?」
「あの二人を見て、セオドア……いや、セオドアを名乗っていたリックの話を聞いた。あいつは、自分の主君であるベアトリクスが現実と折り合いをつけられるまで、目を隠してやろうとして、十年過ごしたそうだ。その結果、彼女はジョルハム中毒になって、自分の妹を手にかけた」
彼女がジョルハムから少しでも抜けられるようにしてほしい、ということで、その薬は私が作っている。平民として名を変え、髪を切り、好いた男と子を産んで暮らしていた王女。その姿を受け入れられなかったベアトリクスは、妹を追い回して赤子ごと殺したそうだ。……その子供は石で、本当の子供は今、我が家の揺り篭にいるわけだけれど。
「箱庭を整えたくても、望んだ環境の維持なんてできない。『クラウス・アシュトン』が、こんな形で終わってしまったように。余計なことで傷つけるくらいなら、俺は、ちゃんと誠実になりたくなったんだ」
「……ちゃんと話してくれて、嬉しい。ずっと、不安だったの。自分がどうしてこうなっているのか、わからないまま、あなたに振り回されていたのが」
クラウスはこの家を私に案内しながら、ちゃんと話してくれた。あの時捕まえた人たちは、私の家を燃やしてはいないと言っているらしいこと。クリスが亡国の王子である以上、その血を神輿にしようとしたりする人も、きっと現れること。だからこのまま、この小さな家で一緒に暮らしたい、と。
私は、それに頷いた。クリスがクラウスによく懐いたのもあるし、彼が森での日々を大事にしてくれていたと、形にしてもらえたのが嬉しかった。
「ねえ、クラウス? 今日は義姉様ともう一回、お出かけをやり直すの。嫌って言わない?」
「言わない。でも、ついていく」
「熊みたいに大きいのに、時々、すっごく子供みたいね。迷子にならないよう、手でも繋いだ方がいいのかしら」
私の冗談に、クラウスは久しぶりに笑った。私のよく知る笑顔だった。
「どちらかと言うとエスコートをさせていただけませんか、レディ」
「よくってよ」
精一杯のお上品な返事は義姉様のようにはいかなくて、二人で顔を見合わせて笑う。それから、その声で起きてしまったクリスを二人であやすことにした。
<終>
