金曜の夜。

 普段どおり仕事を終えて食事を済ませ、映画を見ているとチャイムが鳴った。ちょうど届く予定の荷物がある。「きっと宅配業者だろう」と深く考えずにドアを開けて、思わず「えっ」と声が出た。そこにいたのが、幼馴染の陽子と、つい先日まで別の街で一緒に暮らしていた私の元夫だったからだ。

「彼と一緒に遊びに来たよ!」

 子どものような笑顔を見せる陽子に、鳥肌が立つ。なぜ彼女は私の顔を見て、平然と笑えるのだろう。何度か「二度と会いたくない」とすら言ってあるはずだ。私の顔を見た元夫も、心底驚いていた。思わず私は、そのままドアを閉めて鍵をかけた。陽子は私の住所をどうやって嗅ぎ当てたのだろう。探偵でも使っているのか。

 陽子と私は、幼稚園から高校までずっと一緒だった。社長令嬢として生まれた彼女は、頭も良くて性格も穏やか。久々に顔を見たが、30を過ぎても美貌は相変わらずだった。問題は、私が持っているものをほしがることだけ。昔から彼女は、私のものを何でも欲しがる。洋服・文房具・髪飾り・漫画、そして……恋人。

 私の持ち物を見ると彼女は何でも「いいな」と手に入れようとする。洋服や文房具は親に頼んで手に入れていたらしい。私に恋人ができると、どうにかして、その相手も手に入れてしまう。そのために何度泣いたか、もうわからない。財力と美貌を兼ね備えた陽子には勝てないと理解している。恋人が目移りするのも当然なのかもしれない。ただ、彼女にとって興味があるのは「手に入れること」だけなのだ。持ち物も恋人も、私と同じものを手にすると、すぐに彼女は飽きてしまう。

 同じ大学に進もうとしていることを知って、私は彼女に内緒で就職に切り替えた。同じ日々を繰り返したくなかったからだ。就職後も執拗に連絡は来ていたものの、返したことはない。そこで陽子との関係は終わったと安堵していたのだが、大間違いだった。

 4年後、新入社員のなかに陽子を見つけた瞬間の恐怖は、今でも忘れられない。彼女は私の姿を見つけると「一緒の会社だなんてうれしい!」と駆け寄ってきた。縁故入社だと知ったのは、入社から少し過ぎたころだ。両親に頼んで入社したらしい。そこで彼女には告げず、黙って転職した。ところが、転職先にはまた陽子が「偶然だね!」と入社してくる。それを3回繰り返した。

 なぜ彼女が冴えない私に執着するのか、1ミリもわからない。同じ日々の繰り返しに疲れた私は、新しい仕事を見つけて飛行機の距離に引っ越して、やがて、その土地で出会った人と結婚した。ところが、幸せな日々が続いたのはわずか1年だけ。

 次第に「残業だから」「会社の飲み会があるから」と夫が帰宅しなくなり、やがて離婚を切り出された。浮気の可能性は当然考えたものの、証拠もない。過去の恋愛から男性に過剰な期待をしていなかったため、こんなものか、と別れた。しかし、陽子と一緒にいるあたり、彼もまた過去の恋人たちと同じルートをたどっているのだろう。私と別れてから付き合い始めた可能性もあるが、そんなことはどうでもいい。ああ、それにしても、彼も陽子と一緒にいるなんて。文句をつけたい気もしたが、何の言葉も思い浮かばない。

「ゆかり!ドア開けてよ。久々じゃないの!」

 陽子がドアを叩いている。私はドアの前に立ったまま、動けない。「どういうこと?ゆかりと知り合いなの?」という声が聞こえた。元夫は、何も知らずに巻き込まれているらしい。10分ほど、陽子はドアを叩き続けていた。

 人の気配が消えたので、おそるおそるカーテンの隙間から外を見る。2人は、まだアパートの前にいた。元夫が険しい顔で何かを尋ねている。陽子は笑顔のままだ。その笑顔が心底怖いと感じる。「友達のところに彼氏を連れてきただけだったんだけど偶然だね」とでも説明しているのだろうか。

 恋人や好きな人がことごとく陽子の虜になってしまうことが、若いころはつらかった。まるで自分が陽子と比べると「価値のない人間」とでも言われているような気がするからだ。いつだって陽子と比べられているような気持ちになってしまう。恥ずかしくて誰にも相談できない。相談したところで、これといった解決策もないだろう。今となっては、もう「陽子に存在を知られてしまったら、どうしようもない」と諦めている。どのような理由をつけたとしても、どうせみんな陽子に惹かれるのだ。私が抵抗しても始まらない。元夫にも、陽子のことはどうしても話せなかった。

 いつのまにか私の恋人と付き合っている陽子の言い訳は、『知らずに付き合ってみたらゆかりの恋人だった』『ゆかりの好きな人だとは知っていたものの、告白されたので付き合った』の2つだ。どちらの場合も、付き合ってみると「なんか違う」と思うらしく、長続きしない。そして、元恋人たちは、口を揃えて「彼女に悪意はない」と言う。「浮気じゃなく別れてから付き合ったのだから問題ないだろう」「彼女には自分がいないと」「いつも奪われるとか被害妄想だろう」と。確かに、私と別れてから陽子と付き合うなら浮気ではない。ただ、意図せず同じパターンが続くなんてことがあるのだろうか。飛行機の距離にいるはずの陽子が、私の元夫と一緒にいるのは偶然だろうか。

 陽子に捨てられてから、私とよりを戻そうとする人もいた。受け入れられるはずがない。彼女に落ちた段階で、もう相手への愛情はなくなってしまう。よりを戻して再び彼女に奪われてしまったなら、私は立ち直れないだろう。

 なぜ彼女が冴えない私に執着するのか、1ミリもわからない。私と陽子の好みが完全に同じ、という可能性も考えた。そうだとしても3度も同じ会社に入ってくるなんて、あり得ない。本当に好みが同じなら「なんか違う」で恋人をすぐに捨てることもないはず。悪意の有無など、正直どうでもいい。私は彼女を気にせず生きたいのだ。そして、「偶然」恋人を奪い続けていても、私が受け入れると思って笑顔で会いに来る陽子が怖いのだ。どうすれば彼女が満足するのかまったくわからない。たとえば彼女が探偵を雇って私の勤務先や住所を突き止めているとして、そこにはどんな理由があるのだろう。実際に聞いたこともある。しかし、彼女は決まって「偶然」と答える。悪意がないと言われてしまえばそれまで。理由はずっとわからないままだ。

 陽子は、単に友達として私と仲良くし続けたいのかもしれない。それなのに、「周囲にいる男性が彼女を好きになってしまう」というパターンもあるだろう。それほど彼女は美しいのだ。彼女も相手のことが好きなら、付き合うのも自然な流れなのかもしれない。しかし、「彼女も相手を好き」というパターンは、私が知る限り一度もなかった。すぐ飽きて、興味を持たなくなる。また、陽子が私の知らない男性と一緒にいる姿を見たことがない。いつだって相手は、私が思いを寄せる誰かだった。

 ようやく、2人の姿がアパートの前から消えた。鉛のように重い体を引きずって、私は部屋にある荷物をまとめ始める。いつでも逃げられるように、荷物は少ない。おそらく陽子には現在の職場も知られているはずだ。何食わぬ顔をして、また転職してくる可能性を否定できない。退職して引っ越す、この工程を何度繰り返せば終わるのか。もし彼女から逃げなかったら私はどうなるのだろう。私は一生信頼できる伴侶を見つけられず、逃げなくてはならないのか。とはいえ、もう恋をする気力は起きそうもない。

 陽子の執着を終わらせる方法だけを、私はずっと、考え続けている。