入院の手続きが終わり、
病室で眠る母さんを確認してから、
再びロビーに戻る。
緊張が抜けた途端、
全身が一気に重くなった。
「琴音、今日はもう大丈夫だから。」
俺は、
ちゃんと前を向いて言ったつもりだった。
「本当に、ありがとう。」
「琴音が来てくれて嬉しかった。」
琴音は、
少し迷うような表情をしてから、
小さく頷いた。
「うん……」
「無理しないでね。」
「困った時はいつでも言ってね。」
その言葉が、
あまりにも“いつもの幼なじみ”で、
胸がきゅっとなる。
――これでいい。
そう思わなきゃいけない。
なのに、琴音に触れたくなる……。
「じゃあ、帰るね。」
立ち上がろうとする琴音に、
父さんが声をかけた。
「琴音ちゃん。」
「家まで送っていこう。」
「俺らももう帰るから。」
「え……でも……。」
琴音は遠慮しようとしたけれど、
父さんは首を横に振った。
「帰り遅くなると、優香さんが」
「心配してしまうよ。」
その言葉に、
私はこれ以上、何も言えなかった。
───車内
車内には、
一定のエンジン音だけが流れていた。
街灯が、
フロントガラスをすべるたびに、
一瞬だけ光っては消える。
後部座席で、
俺と琴音は並んで座っている。
さっきまで、
会話をしていたはずなのに、
いつの間にか、
琴音の呼吸がゆっくりになっていた。
……寝た。
小さく上下する肩。
規則正しい寝息。
今日一日、
どれだけ気を張っていたのかが、
その静かな寝顔から、
はっきり伝わってくる。
今日は、確か理央とデートだったはず。
それなのに俺の所に駆けつけて来てくれて。
俺は泣きそうになるくらい嬉しかった。
俺は、
視線を前に向けたまま、
しばらく動けなかった。
触れてはいけない。
それは、
何度も自分に言い聞かせてきたことだ。
でも――
車がカーブを曲がった拍子に、
琴音の体が、
ほんの少しだけ傾いた。
その重みが、
俺の肩に、そっと触れる。
反射的に、息を止める。
……近い。
これは色々とまずい……
理性が……。
体温が伝わるほどじゃない。
でも、
確かに”そこにいる”とわかる距離。
俺は、ゆっくりと、
視線だけを落とした。
長いまつげ……力の抜けた表情。
守るような顔で、眠っている。
この琴音は、俺を信じている。
その事実が、胸を締めつけた。
――だめだ。
分かっている。
分かっているのに……。
俺は、
ほんの一瞬だけ、
迷った。
そして、
誰にも気づかれないくらい、
ほんの一瞬だけ――
琴音の髪に、そっと口づけた。


