「ちょっとぉ、聞いてたァ!?」

 ドスの利いた声が弾ける。それが可笑しくて、蓮が含み笑いをすると、律も腕の中で笑った。殴られ過ぎて頭がおかしくなったのかもしれない。それでも、二人で笑っていられるのならいいような気がした。


***


 組長に脱退したい旨を伝えたのは、それから一か月が経った頃だった。
 脱退のための条件として、一括で三百万円を支払うことが提示された。
 しかし蓮は、その額の半分も持ち合わせていなかった。

 小指を捨てる覚悟はあった。半殺しにされる覚悟も。否、もとよりそのつもりだった。
 そうしたケジメをつけ、自分のこととして完結させることで、律に迷惑がかかる可能性が無くなくなるのなら、それでよかった。
 
 「俺、遠いところに行くと思う」

 突然の告白に、パジャマ姿で歯を磨いていた律が蓮の方を向いて、首を傾げた。
 遠まわしな言い方をしたのは、言葉にしたことで現実を見据えるのが恐かったからだ。

「組、抜けることにしたんだ」

 洗面台で口をゆすいだ律は、「抜けたらどこかに行かなくちゃいけないの?」と訊いた。

「組抜けるのに金が要る。それが払えねえから――」

「お金を払えば逃行かなくていいの?」

「え、あ、まあ……」

「いくら?」

「…………三百万」

 律にぐいぐい距離を詰められて、たたらを踏んだ蓮はベッドに尻もちをついた。律の顔が眼前にある。薄桃色の唇が三日月を作った。

「いや、顔、近……」

 蓮が戸惑っていると、律が砂糖菓子のように甘くささやいた。

「それ、私が払ってもいい?」

「――――……え?」

 律に圧され、蓮の上半身が布団の上に倒れる。天井を向いた視界の中で、律の長い髪が天蓋のように垂れる。朝日を吸って輝く茶色の瞳は、機嫌良さそうに細められていた。

「私が持っているぶん全部貸すから、お願いをきいてほしいの」

「……何?」

「お店を出す手伝いをして?」

 律の言葉の意味がすぐには理解出来ず、連は怪訝な顔で固まった。
「だからね――」

 目だけをぱちくりと動かす蓮に、律は滔々とに説明をした。

 定食屋をやるのが夢であること。何度か遊びに行ったことのある海辺の街に店を構えたいこと。そのために協力してほしいこと。そして。

「蓮君と、もっと一緒にいたいの」

そう力強く言いきった。

 律の頬が、羞恥のに赤く染まる頃、蓮は両手を伸ばして律の頬に触れた。
 肘をついて上体を起こす、彼女の唇に己のものを重ねると、律が、可愛がられている猫のように蓮の唇を舐めた。

「蓮君は?」

 互いの額が優しくあたる。蓮は再び、唇の先があたるだけのキスをした。

「俺も、……一緒にいたい」

 ふいと連は顔を逸らした。
 望んではいけないのに、望みを叶えられる可能性を律から提示され躊躇していた。大切な人に迷惑をかけてまで、理想の夢を見ていいのだろうか。

 視線を泳がせていると、瞳を濡らした律が頭を下ろし始めた。
 何事かと見ると、彼女は蓮の首筋に強く噛みついた。
 思わず悲鳴を上げる蓮を認めることも無く、場所をずらしながら何度も歯を立てる。

「いっ……た。いてえって……」

 くっきりと噛み痕のついたそこを、今度は優しく舐め始める。ゆっくりと舌の表面を這わせられると、腰が疼き始めた。赤ん坊のように吸われる刺激にも、身体が跳ね上がり、火照りが隠せなくなった。
 痛みがが紛らわされて快感に変わっていく。
 そうして蕩けた思考に浸っていると、また思いきり噛まれて声を上げた。

「おい、痛いってば」

「いたい? 私と一緒に?」 

 律は悪戯っ子のように笑っていた。
 ガジガジと、何度も犬歯を埋められる。

「いたい。律と、一緒に」

「うん。一緒にいよう? 今日も、明日も、明後日も、ずっと」

 ふふ、と律は太陽みたいに笑った。
 蓮には眩し過ぎる。
 しかし一緒にいれば、同じくらい明るいところを歩けるようになるんじゃないかと、心にほんのりと期待が混じった。
 未来に陽が差している。

 抱きしめた身体のぬくもり。
 互いの緊張が解けていく。

「愛してる」

 と律が、蓮の耳元で呟いた。
 蓮が彼女の身体をぎゅうと抱きしめる。

「絶対に離さない」

 蓮が律の頬にキスをすると、彼女はまた微笑んで蓮の唇を奪っていった。


***
 

 宣言通り、律はすぐに貯金をおろしてきた。蓮はそれを組長に上納し、組からは正式に除籍となった。
 蓮のことが収まると、律は早々と仁司に退職することを告げた。

「二人ともいなくなるなんて寂しくなるわねぇ」

 仁司は薔薇柄ハンカチを出し、おいおいと涙声を上げたが、二人分の引っ越し作業を率先して手伝い、別れ際に「何かあったら力になるから」と携帯番号と、餞別だという封筒を寄こしてきた。

 厚みのある封筒には束になった現金が入っていた。
 驚いて銀行に駆けこむと、中には三百万円が収められており、律は電話口で頭を下げながら礼を繰り返したのだった。

 海が見渡せる新地では、平屋の住宅を借りて生活した。
 開店資金を稼ぐためにと、律は定食屋に就職し、蓮は不動産屋の口添えで、塗装工事の会社に入社することが出来た。

 右も左も分からず、慣れない肉体労働で、週末は寝て過ごすような毎日だったが、蓮はこれまでにない充足感を得ながら過ごしていた。

「ねえ、その刺青、どうして黒い線だけなの?」

 律が寒風を受け、ベランダで洗濯物を干しながら問いかける。雪の気配の近付いた潮風は、いつもよりも湿っている。蓮は布団の中で、毛布を肩まで引っ張り上げた。

「アレルギーだから」

「刺青の?」

「金属の。他の色には金属が入ってる。黒にはそれが無い」

「そっかあ。蓮君、指輪もつけられないもんね」

 昼間の薄青い空に、雲に隠れた太陽が浮かんでいる。
 洗濯かごをカラにした律が、掃き出し窓から部屋へ入ってくる。
 ふふ、という笑い声が聞こえたと思った途端、蓮は布団ごと海苔巻きのように抱き締められていた。

「重……」

「蓮君、それ、太陽にしたら?」

 律が、蓮の着ているトレーナーの袖を捲し上げ、右腕を剥き出した。

「月だと思うから月に見えるんだよ。太陽だって丸なんだから同じじゃない。もう夜の人じゃないんだし、ね?」

 眩しくなるような笑顔で、律は蓮の満月に噛みついた。
 大仰に痛がると、やはり愉快そうな笑い声を上げる。
 連は己の刺青を興味なさげに見ると、
「太陽でも月でもどっちでもいい。律が太陽だっていうならそうだし、月だっていうなら月でいい」

とめんどくさそうに答えた。

「体についてるものなのに、そんなに適当でいいの?」

「こんなもんより、律がつける歯形の方がよっぽど大事だ」

 言いながら、蓮は律の首根っこに噛みついた。
 わざとらしい悲鳴を上げながら、律はそれを受け入れる。


 二人のじゃれ合いの合間に波の音が挟まる。
 雲から出てきた太陽が、室内を穏やかに照らした。