蓮だけでなく魚谷も、瞠目して声の主を振り返っていた。

「やめて、下さい」

 額から血を流し、上体を起こした律が唇を動かしているのを見て、蓮は息をのんだ。

 ……アイツが、喋ってる。

 蓮が衝撃を受けている間も、律は上擦った声を続けた。

「蓮さんが、悪いことするはずがありません」

「ネエちゃん、こいつの女か? このクズ、俺の女を寝取ったんだ。波模様のネクタイピンなんてダセェもんが、俺の家に転がってた。そのチンカス野郎のもんだ」

「それは……いつの話ですか?」

「昨日の晩だよ。何だ、変な顔してよ。邪魔すんならてめえにも指詰めてもらうぞ」
 煩わしそうに言って魚谷が合図を出すと、若衆がじりじりと律に近付いた。しかし律は臆せず、魚谷の腕を掴んだ。

「昨晩、蓮さんは私と一緒にいました」

「あ? 庇おうってのか? こいつは俺の女と仲良くやってたんだよ。いい加減にしねぇと指だけじゃ済まねえぜ」

「本当です。メールの履歴と、これを」

 瞼が腫れて狭まった蓮の視界にも、律がブラウスのボタンを外し始めたのが見えた。壁付けの明度の低い照明しかない空間に、白い肌が浮かび上がる。露出された肩で主張していたのは、犬歯がよく食い込んだ歯型だった。その楕円の噛み痕を、蓮はほのかに覚えていた。


「これは、昨日蓮さんにつけられたものです。この歯形を調べて貰えば、誰がいつつけたものか分かると思います」


 蓮のこめかみが、恥ずかしさに痙攣した。
 教室で好きな女をばらされたときの感情に似ている。
 しかし魚谷は真剣な顔をして言葉を詰まらせていた。その間に、重いハイヒールの足音が軽快に戻ってくる。

「ちょっと、あんたらの若頭(カシラ)、そこまで来てるわよ? 待たせたらまずいんじゃないの?」

 店の奥から出てきた仁司が、勝ちを確信したような堂々とした顔で、しかし声には憤怒の色を含めて問うた。

 カシラ、という単語を聞いた魚谷は、起立の号令を掛けられたように速やかに蓮の上から退き、狛犬のような形相で辺りを睨みつけた後、床を踏みしめて扉を蹴り開けた。

「覚えてやがれ、クソがっ」

 烈火の如きオーラを纏って店を出ていく魚谷の後ろを、若衆も焦った様子でついて行く。
 仁司の一声で一瞬にして面倒ごとが去り、蓮は溜め込んでいた息を吐いた。



 顔の至る所が痛くて顎を上げると、天井がヤニで汚れているのがよく見えた。

「大丈夫ですか」

 飛びついてきた律の、胸元がはだけていた。
 額から垂れる血液が、白いブラウスを赤く染めている。
 己の独占欲が残した歯形が、冤罪の証拠となるなんて思いもしなかった。心臓が、胸骨を突き破らんとする勢いで激しく鼓動している。魚谷に殴られていた方が、幾分も安寧を保っていられると蓮は思った。

 口の中で折れた奥歯がゴロゴロしていることを言い訳に喋らないでいると、律はおろおろと仁司を見て「警察と救急車を呼んだ方がいいでしょうか?」と裏返った声で言った。

「いいのよ、身内同士での喧嘩なんて日常茶飯事なんだから。放っておきなさい。それよりりっちゃん、声が……」

「はい」

 仁司が酒瓶の間に隠していた煙草に火をつけて、掃除機のように煙を吸い込んだ。

「アンタ、ちゃんと説明しなさいよ。それともあたしが言っちゃってもいいのかしら?」

 どすの利いた声と肺に流れ込んでくる副流煙が、鈍った脳の神経を刺激する。
 興奮が覚め、痛み出した頭を持ち上げると、脳震盪を起こしたような眩暈に襲われた。鼻血が滝のように流れ落ちる。血生臭い飴と化した歯を二つ吐き出した。

 律が自分の怪我を気にも留めずに、蓮の背を支える。
 鈴がチリリと揺れるような声が喋った。

「起きちゃ駄目です。今、手当てを」

「いい。それより聞いてほしいことがある。お前の父親と、襲った奴のことで」

 蓮の言葉を聞いて、律の表情が曇った。
 不安そうな暗い双眸に、蓮の腫れあがった顔が映っっている。
 躊躇い固まってしまいそうになる唇を、蓮はぎこちなく動かした。