事務所を出る前に見たデジタル時計は、午前二時十六分表示していた。
時間を確認したときにはすでにバケツをひっくり返したような有様だったので、誰のものとも知れない傘をひったくって外へ出た。道路に、時折通る車のライトが反射している。
しばらく歩く。
事務所から自宅までは徒歩圏内ではあるが、この雨の激しさのなかで心細くて立ち竦んでしまう、そんな情けない妄想が浮かんでは消えを繰り返した。
革靴のなかにまで雨水が染み入ってきたとき、前方の暗闇に人影が見えた。
傘をかぶっていないせいで、それが華奢な女だとすぐに判断できた。黒髪を後ろで一つに結っている。
連は足早に距離を詰めた。
「おい」
雨がノイズとなって、蓮の声を掻き消す。仕方なく、キャミソールの肩紐が透けている女の肩に手をかけた。
「おい」
気付いた女――律は、弾かれたように振り返った。体を強張らせたまま、はんぶん傘に隠れた蓮の顔を兢々と覗く。
そして相手が見知った者だと判ると、空気が抜けたように体を弛緩させた。
白い額に前髪が張り付いている。睫毛や顎からはいくつも水滴が垂れていた。
車道を車が通るたび、濡れ鼠となった律の姿が煌々と照らされる。桜が散ったばかりだ。濡れれば寒いに決まっている。しかし彼女は気に留めるそぶりを見せない。
ひそかに気にかける蓮をよそに、律は昼間に店で見せたのと同じ、朗らかな笑顔で連に接した。彼女の笑みの下で、白いブラウスの中身が透けている。連はそれをチラチラと盗み見つつ、溜息をついて、律に自分の傘を押し付けた。
「使え」
今まで庇の下にいた蓮の髪にも、不快を撒き散らすように大粒の雨が注ぐ。
不思議そうに傘の柄を掴んだ律を見て、蓮はすみやかに擦れ違うはずだった。しかし予想外にも二の腕を引っ張られ、歩みかけていた片足が空に留まった。
顔を顰めて振り返ると、頭上に蓋が被されていた。黒い雲が隠れる。
律が蓮の腕に抱きつき、彼のほうに傘を向けていた。
「お前が使えって」
蓮の不機嫌そうな声に、律は眉を寄せて口を動かす。
『いえ、ちかくなんです。よっていって』
何度か聞き返しながら導き出した言葉を復唱すると、律は満足そうに頷いた。蓮の腕を引いたまま、有無を言わさず律が歩き出す。仕方なく、律の冷えた手から傘を取り返し、二人の間に掲げた。
律は少女のように笑っていた。
柔軟剤の香る部屋で、蓮はタッパーの中身を平らげていた。
古くも新しくもないアパートの一室が、律の住処だった。
体も拭かないままの彼女が沸かした味噌汁を飲み干して、「美味かった」と手を合わせた。対角に座る律を見ると、彼女は座卓の上に指先をすべらせ、
『よかった』
と胸に手を置いた。
ふたたび律が書いていく文字を、蓮は見逃さないように注視する。
『おふろ、はいったら?』
「いや、帰る」
『まだあめすごいよ。よかったらとまっていって』
「いや…………」
律が出した提案に、蓮は柄にもなく考え込んだ。
ペールグリーンのカーテンの向こうからは、いまだ叩くような雨音が聞こえてくる。
そんなわけはないのに、初めて女の家に遊びに来たような、気恥ずかしさと不安感があった。
ワンナイトの女のことなどすぐに忘れるくせに、万が一律と間違いがあったら、彼女の笑顔が脳内にこびりついてしまいそうでこわかった。彼女の澄んだ瞳に下心など無いだろう。起こってもいないことを考えても仕方が無いのに、蓮の思考は一つの事象に捕らわれていた。
『たべたりしないよ』
蓮の葛藤など知らないで、律は悪戯っぽく笑う。
蓮は低く呻って苦しそうに顔を歪め、そして諦めたように片頬を上げた。
「俺のほうはどうだかわからないだろ」
濡れたワイシャツを着たまま、蓮はベッドの上に律を押し倒していた。
律は布団に埋まりながら目を丸くしていたが、秒針が一周するあいだ見つめ合ったすえに、蓮の背中にこわごわと手を伸ばした。
律の薄い唇にキスを落とし、開いた歯列を舌先で擦る。
熱い舌にしゃぶりつくと、
「ん……っ」
と甘い吐息が漏れた。


