気づけば、私は一軒家のキッチンに立っていた。

「……あれ?」

 私、今何してるの? ……えーと、あっそうだ。朝食を作っていて、それで。

「ん? どうした、ひいらぎ。そんなぼーっとして」

 振り返ると、あの人だと分かるけど老けたな……顔の彫りが深くなったな、と感じるがくとさんがいた。

「あー……いや、何でもないのよ、あなた」

 咄嗟にそんな言葉が出て、え!?と自分でもびっくり。

 そうだ、今の記憶にある。

 付き合ってたがくとさんと結婚し、息子も産まれたんだった。

「まあ、たくとが最近帰ってきたから思いにふけるのは分かるけどな」

「たくと? 誰?」

「ん? 何言ってるんだ、俺たちの息子だろ? まったく、ボケ始めたんじゃないのか」

 そうだ、たくとは息子の名前。

 手のかかるやんちゃな子で反抗期とか大変だったけど、がくとさんと二人でしっかり向き合ってきた。思い出した。

 それで、今は老夫婦で生活してるんだった。

「まったく。あまり間食しすぎるなよ。お前は太りやすいんだから」

「なによー! もう知った口で、一言余計なのよ」

「そりゃ知った口にもなるよ、40年付き添ってるんだからな」

 40年……、確かにそうね。

「そうだ。今度気分転換にどこか出かけないか? 遠い所の方が新鮮味もあるしな」

「そうね、そうしましょう」

 ふふふと笑うと老いたがくとさんもつられて「何もおかしくないだろ?」と言いつつ微笑んでくれる。

「ふふふ、……あっ」

 そこで意識が途切れた。

 今度はあとから浮遊感が纏わりつき、先程より遅く感覚が接続されていった。

 一番先に戻ったのは嗅覚。ホコリ臭い匂いを感じ、次に本当の暗闇を感じ、ゆっくり瞼を開ける。

「あっ、起きた……! 母さん、俺だよ!? 分かる!?」

 知らない中年男性の声が聞こえる。

 聴覚も戻ってきた。

 でもこの必死な声、懐かしいかも……、でも知ってるのはもう少し若い声だな。

 視線だけ動かす。

 私はベッドに横たわっているようで、周りはカーテンに覆われ。

 そのスペースに中年男性と白髪のおじいちゃんが私を見ていた。

「よかった、最期くらい目を覚ましてくれたな」

 そう言うおじいちゃんはどこか旦那に似ていて。中年の男性も息子のたくとに似ている。

 上手く思い出せない。

 今の記憶にあるのは70歳近くなったがくとさんと遠いお出かけの約束したところまでの全ての記憶。

「母さん、半年前から倒れたまま目覚めなかったんだよ!? 分かる!?」

 へー、そうなんだ。

 私、倒れたんだ。

「よせ、もう長くないと言われただろ、たくと。伝えたいことだけ話せ」

「で、でも父さん!」

 ああ、私死ぬんだ。

 確かにさっきまでより感覚が薄い。

「ひいらぎ、今までありがとうな。すぐに跡を追うからな」

 あー、やっぱりそうなるのか。

 あはは、でも大好きな人に跡を追うなんて言われて嬉しい……。

「母さん……! 今まで迷惑かけてごめん……! 全然恩返しできなかった……、本当にごめん!」

 いいのよ、別に。たくとが幸せならそれでいい。

「母さん……、これだけは言っときたい……! 俺を産んでくれてありがとう……!」

 あー、意外に来るな。目がつーんとする。

 両目から涙しか出なくて、それでもこれは伝えたい。

「……がくと、さ……。たくと……、ありが……と……、ぅ……」

 必死に絞り出した声はしわがれたおばあちゃんの声で、私はババアになったんだなと痛感する。

 そして確かな浮遊感が来て、どんどん目の前が暗くなり。

 二人が何か言ってるのは聞き取れるけどぼやけて分からなくて。どんどん声も聞こえなくなっていく。

 どんどん、ゆっくり感じなくなっていく。

 何もなくなっていく感覚の中、テレビの電源を切るように、ぷつんと『私』が途切れた。

「がくとさん……たくと」

 手探りに宙を掻き分け、急に胸が苦しくなり襟元をぎゅっと掴んだ。

「あれ……?」

 あぁ、夢……だったのか。

 懐かしい夢だった。まだ人生が変わる前の、大事な人たちに看取られる幸せな夢。

 でも、ぽっかり穴が開くような大きな喪失感と悲壮感。

 幸福が幸福で終われない悲しい別れ。

 彼らにもう一度会うはずだった。私が身もわきまえず人助けなんてしたから会えなくなったんだ。

 一生の別れになった夫のがくとさん、息子のたくと。

 愛しい彼らは遠い次元で私を想ってくれているのだろうか。

 想い人の私は違う未来で好きになってくれたあの子を助けられず落ち込んでいる。

 あれから一週間、ずっと家に引きこもって布団に潜っていた。

 惨めに泣いて、彼に嫌われたんじゃないかって。

 あんな死に方しなくたっていいのに。

 きっと彼の運命は変えられないのだろう。それを証拠に能力が発動しなかった。

 自殺なんてしなくたっていいのに。そんな死に方で私を傷つけないでよ……。

 私は彼の行動に囚われ、ひたすらすすり泣くことしかできなかった。

 ある日、そんな私を見兼ねてか母が手紙が来ていると言い、好物のカツ丼と一緒に枕元に差し出した。

(何よ……、手紙だなんて。誰からの優しさもいらないわよ……)

 そう思いながら、空腹を訴えるお腹を抱えて起き上がる。

 手紙を手に取り、送り主を見てすぐに封を開けた。

 文章を読んで瞼に涙が溜まるのを感じ、くしゃり便箋を握る。

 胸苦しさと共に強くなった胃の痛みを抑えるべく、カツ丼をかきこみ咽び込む。

 それが涙の嗚咽なのか、急いでかきこんだからなのか、分からない。

 でも急がなくちゃ。



 彼に、彼の遺したものに会わなければ。