私は、人生の初めてを味わえない。未来ばかりを先に知ってしまう。
「おはよう、ひいらぎ」
「………………」
二階の自室を出て、食卓のある居間に入ると、母が挨拶してくれる。
「おはよう、ひいらぎ」
「………………」
新聞を広げていた父は、母の言葉で遅れて気づき、優しい顔で挨拶してくれる。
両親の優しい声が、耳障りなノイズのように頭に響く。朝日の眩しさが目を刺し、食卓に並んだトーストの匂いですら吐き気を誘う。
嫌だ。
「ひいらぎ、もう高校二年生か。毎日見ていると気づかないものだけど、大きくなったな」
父は新聞を畳んで脇に置き、自分の顎に手を当て、感慨深げにうんうんとうなずく。
「母さんもそう思わないか? 他の家の子供を見ると成長が早いよな」
「そうね、子供はすぐに大人になるものね。びっくりしちゃうわ」
…………知らないよ、そんなこと。
「そうだ、みんなで旅行にでも行かないか? 今年のゴールデンウィークは長いし、少しの遠出なら長く泊まれるだろう」
「いいわね! そうしましょうよ、ね? ひいらぎ」
「………………」
なぜ私に意見を求めるの? 勝手に決めればいいのに。そっちが言い出したんだから。
「ん? どうした、ひいらぎ」
「ひいらぎ? ひいちゃん?」
今さらそんな呼び方、気持ち悪い。
「ひいらぎ、少しは返事でもしたらどう……」
「うるさい! 黙れ! お前らが行きたいだけだろ! 私を巻き込むな!」
ばんと机を叩いて立ち上がり、周りに叫び散らかす。
静寂の中、突然音が響き、二人は時が止まったように愕然としていた。
……ああ、やってしまった……。
本当は、そんなことを言いたいわけじゃない。
なのに、腹の底から黒く熱い何かがせり上がってきて、勝手に言葉になっていく。
喉が焼けつくようだ。
「ご、ごめん。私、学校に行く」
そう言い、逃げるようにその場を離れた。
なんてひどいことをしてしまったんだ。今の『高木柊』はただのクズじゃないか。
くそっ……。くそっ……!
今日は、新学期と新入生の入学式。
みんな、初々しい顔立ちに、少し背丈に合わない制服を着て、次々に名前が呼ばれる。
はい、と元気な声で返事をして、新入生代表の子が式辞を読み上げる。
私が記憶という情報の中で何度も経験した入学式。それを、彼らは初めての形で体験しているのだ。
……羨ましい。なんて羨ましいことだろうか。
式が終わって教室に戻り、教科書や学校新聞のような告知のプリントが配布されたり、担任の先生のありがたい話を聞かされたり。
そんな面倒な一日が終わって、放課後。
賑やかな談笑が響く廊下を、ただ独り、『高木柊』は歩く。
第一と第二の校舎を繋ぐ、白いコンクリートの簡素な通路。そんな道中を、何も考えずに歩いて。
きっと自分の人生は、こんな簡単な道をただ歩くような、味気なく魅力のない移動だ。
つまらないな、今の私は。『高木柊』は、とてもつまらない。
短い通路を歩き、第一校舎の入口に入ろうとした時だ。
何の前触れもなく、ぶわっと記憶が断片的に流れ込んできた。
それは暖かい風に舞う桜吹雪のように、優しく包み込むような不思議な感覚だった。
痛みがない。記憶を垣間見る時はいつも感じるのに。なぜだ?
いつもの頭痛もなく、ただ知らない風景が映し出された。
そこには一人のやんちゃそうな男の子がいて、「柊センパイ!」とにこにこ笑いながら、私の隣を歩いていた。
春が終わる頃だろうか。涼やかな木漏れ日の中に、眩しい笑顔がこちらに手を振っている。
そんな幸せそうな空間のあと、突然真っ白な質素な空間に私が座っていた。
先程の幸せがぶち壊された。途方もない悲しみに、その『私』は襲われていた。
なんで、なんで。
しばらくして、現実に戻ってきた。
第一校舎の入口に立っていて、周りの生徒は不思議そうに私を見たり、一人分の幅を取っているからか、少し邪魔そうな視線を送る者もいた。
(何だったの……? さっきの……)
私は不思議そうに少し俯いた。でも、今は考える時ではないと、すぐに歩き出した。
正面玄関の下駄箱の列に向かうと、二年生の私のクラス近くに、下駄箱の側面に背を預けてスマホをいじっている男の子がいた。
「……時間、あってるよな」
そんなことを呟く男子生徒は、普通の男子より背が小さく、平均的な身長の私より少し上くらい。それで、胸元に新入生が着ける花を象った祝いのバッジを付けていた。
何より、その子の顔は、さっき新たに思い出として刻み込まれた、やんちゃそうな男の子の顔だった。
「……? おっ! センパイ来た!」
えっ?
「ども、初めまして、春野ケイです! オレ、センパイと会うの楽しみにしてたんです!」
何? 私のこと知ってるの?
「えーっと、何から言うべきかな……。あっそうだ。……すぅーっ、よし。センパイ、オレと付き合ってくれませんか?」
……は?
「おはよう、ひいらぎ」
「………………」
二階の自室を出て、食卓のある居間に入ると、母が挨拶してくれる。
「おはよう、ひいらぎ」
「………………」
新聞を広げていた父は、母の言葉で遅れて気づき、優しい顔で挨拶してくれる。
両親の優しい声が、耳障りなノイズのように頭に響く。朝日の眩しさが目を刺し、食卓に並んだトーストの匂いですら吐き気を誘う。
嫌だ。
「ひいらぎ、もう高校二年生か。毎日見ていると気づかないものだけど、大きくなったな」
父は新聞を畳んで脇に置き、自分の顎に手を当て、感慨深げにうんうんとうなずく。
「母さんもそう思わないか? 他の家の子供を見ると成長が早いよな」
「そうね、子供はすぐに大人になるものね。びっくりしちゃうわ」
…………知らないよ、そんなこと。
「そうだ、みんなで旅行にでも行かないか? 今年のゴールデンウィークは長いし、少しの遠出なら長く泊まれるだろう」
「いいわね! そうしましょうよ、ね? ひいらぎ」
「………………」
なぜ私に意見を求めるの? 勝手に決めればいいのに。そっちが言い出したんだから。
「ん? どうした、ひいらぎ」
「ひいらぎ? ひいちゃん?」
今さらそんな呼び方、気持ち悪い。
「ひいらぎ、少しは返事でもしたらどう……」
「うるさい! 黙れ! お前らが行きたいだけだろ! 私を巻き込むな!」
ばんと机を叩いて立ち上がり、周りに叫び散らかす。
静寂の中、突然音が響き、二人は時が止まったように愕然としていた。
……ああ、やってしまった……。
本当は、そんなことを言いたいわけじゃない。
なのに、腹の底から黒く熱い何かがせり上がってきて、勝手に言葉になっていく。
喉が焼けつくようだ。
「ご、ごめん。私、学校に行く」
そう言い、逃げるようにその場を離れた。
なんてひどいことをしてしまったんだ。今の『高木柊』はただのクズじゃないか。
くそっ……。くそっ……!
今日は、新学期と新入生の入学式。
みんな、初々しい顔立ちに、少し背丈に合わない制服を着て、次々に名前が呼ばれる。
はい、と元気な声で返事をして、新入生代表の子が式辞を読み上げる。
私が記憶という情報の中で何度も経験した入学式。それを、彼らは初めての形で体験しているのだ。
……羨ましい。なんて羨ましいことだろうか。
式が終わって教室に戻り、教科書や学校新聞のような告知のプリントが配布されたり、担任の先生のありがたい話を聞かされたり。
そんな面倒な一日が終わって、放課後。
賑やかな談笑が響く廊下を、ただ独り、『高木柊』は歩く。
第一と第二の校舎を繋ぐ、白いコンクリートの簡素な通路。そんな道中を、何も考えずに歩いて。
きっと自分の人生は、こんな簡単な道をただ歩くような、味気なく魅力のない移動だ。
つまらないな、今の私は。『高木柊』は、とてもつまらない。
短い通路を歩き、第一校舎の入口に入ろうとした時だ。
何の前触れもなく、ぶわっと記憶が断片的に流れ込んできた。
それは暖かい風に舞う桜吹雪のように、優しく包み込むような不思議な感覚だった。
痛みがない。記憶を垣間見る時はいつも感じるのに。なぜだ?
いつもの頭痛もなく、ただ知らない風景が映し出された。
そこには一人のやんちゃそうな男の子がいて、「柊センパイ!」とにこにこ笑いながら、私の隣を歩いていた。
春が終わる頃だろうか。涼やかな木漏れ日の中に、眩しい笑顔がこちらに手を振っている。
そんな幸せそうな空間のあと、突然真っ白な質素な空間に私が座っていた。
先程の幸せがぶち壊された。途方もない悲しみに、その『私』は襲われていた。
なんで、なんで。
しばらくして、現実に戻ってきた。
第一校舎の入口に立っていて、周りの生徒は不思議そうに私を見たり、一人分の幅を取っているからか、少し邪魔そうな視線を送る者もいた。
(何だったの……? さっきの……)
私は不思議そうに少し俯いた。でも、今は考える時ではないと、すぐに歩き出した。
正面玄関の下駄箱の列に向かうと、二年生の私のクラス近くに、下駄箱の側面に背を預けてスマホをいじっている男の子がいた。
「……時間、あってるよな」
そんなことを呟く男子生徒は、普通の男子より背が小さく、平均的な身長の私より少し上くらい。それで、胸元に新入生が着ける花を象った祝いのバッジを付けていた。
何より、その子の顔は、さっき新たに思い出として刻み込まれた、やんちゃそうな男の子の顔だった。
「……? おっ! センパイ来た!」
えっ?
「ども、初めまして、春野ケイです! オレ、センパイと会うの楽しみにしてたんです!」
何? 私のこと知ってるの?
「えーっと、何から言うべきかな……。あっそうだ。……すぅーっ、よし。センパイ、オレと付き合ってくれませんか?」
……は?
