彼と出会ったのは、とある会社。
単身赴任してきた彼に一目惚れをして、私から声をかけた。
彼は奥さんと子供が一人いる、父親だった。
最初は素っ気なかった彼だけど、一人が寂しかったのだろう。
「遊びの関係でもいいの」
私が放ったその言葉に、彼は少しずつ会ってくれるようにまでなった。
会って、話して、軽く飲んで別れる。
何度かそんなことを繰り返していたある日のことだった。
「家に、上がっていくかい?」
彼の方から話してくれたのは、それが初めてのことだった。
次の日。
彼のベッドの上で目覚めた私は、隣で眠る彼の横顔を見て多幸感に包まれたのを覚えている。
背徳感からのものだったかもしれない。
奥さんがいるのに、子供もいるのに…彼は今、他人である私を選んだんだ。
だから、あのときは…この日々に終止符が来るなんて思ってもいなかった。
「…え…?今、なんて?」
薄暗いバーの一角で、カクテルを飲む私の手が止まった。
彼はこちらに目を向けることなく、グラスを傾けた。
「もう、君とはこうして会わない。決めたんだ、俺は家族を裏切れない」
彼はそう言ってグラスに口をつけた。
今さらこの人は何を言ってるんだろう。
一方的に告げるなんて身勝手じゃない。
私を抱いたくせに。
口を開こうとして、止めた。
だって身勝手なのは私も同じだったから。
勝手に一目惚れして、勝手に誘って…。
私達の関係は本当に“遊び”で終わった。
それだけだ。
私はまだ一口しか飲んでいないカクテルをテーブルに置いたまま、黙って店を後にした。
外は雨が降っていて、まるで悲劇のヒロインになった気分だった。
家に帰り、靴を脱いで、ベッドに転がる。
心の中に残っているのは意外にも悲しみだった。
いつの間にか、彼に本気になっていたらしい。
…妻子持ちにだ。
報われるわけが、ないのに。
全くもって馬鹿げている話に、一人で笑った。
そのとき、メッセージアプリの通知が来た。
もしかしたら彼かも、なんて思い、スマホを手に取る。
アプリを開くと、届いたメッセージは見知らぬ相手からだった。
『あなたの嫌いな人を消します!名前を入力してください!』
淡い期待がポロポロと崩れていく。
頬を伝うものを袖口で拭ったとき、気づけば指先が文字を入力していた。
___井原 彩。
それは彼の話題に多く上がっていた一人娘の名前。
送信ボタンを押して、メッセージ欄に入力した名前が浮かび既読がついた。
それだけだった。
返信はない。
まあ、ただのイタズラだろうし、こんなものか。
それでも私の心は少しだけ軽くなっていた。
それから数日後のことだ。
朝礼で、彼が家に緊急で帰宅したと聞いた。
「井原さん、なにかあったんですか?」
私が部長に聞くと、こんな答えが帰ってきた。
「それが…奥様から連絡がきたようでね、娘さんが昨日から家に帰ってこないらしい」
___え?
私は耳を疑った。
顔が、青ざめていく。



