この雨を虹にしてくれた君へ

 その日も放課後、音楽室のドアの前で立ち止まった。もう何度目だろう。この扉の向こうに、“安心できる場所”があると思えるようになっていた。ドアを少し開けると、すでに瑠衣くんがピアノを弾いていた。
 音は柔らかく、午後の光がカーテンの隙間から床に揺れている。まるで、その音楽が時間を止めてしまうようだった。
 「夢姫。」
 彼が私を見て微笑む。その笑み一つで、胸の奥が熱くなる。
 「今日も、来てくれたんだな。」
 「……うん。なんか、この音、落ち着くから。」
 椅子に座り、ピアノの横で彼の指を見つめる。鍵盤の上に落ちる光が、指先と重なって淡く輝いていた。私は無意識に、その光を追いかけていた。

 「なあ、夢姫ってさ」
 瑠衣くんが言いながら、手を止める。
 「人を信じるの、怖くなったりしてる?」
 唐突な質問に、息をのんだ。少し目を伏せ、そして小さく頷いた。
 「うん……怖い。傷つくのが、怖い。」
 沈黙が少しだけ流れた。でも、その静けさは不安じゃなかった。ピアノの余韻の中、彼の声がゆっくり混ざって響く。
 「俺も同じだよ。でも、少しずつでいいと思う。」
 その言葉が、胸の奥に温かく落ちた。
 溢れそうな涙を押し込めながら、小さく笑って頷いた。

 そのあと、瑠衣くんがそっと声をかける。
 「夢姫、俺のピアノに合わせて、歌って?」
 「え、私……いいの?」
 「うん。」
 ぽろん。
 白い鍵盤が、澄んだ一音を鳴らす。まるで、私の心の中に“何か”が落ちたようだった。見えないのに、確かにそこにある感情。言葉では言えないけれど、たしかに“恋”という音に似ていた。

「毎日のように 何かを失うの
 それで気づくの 過去と今と未来
 泣いちゃったら 負けってわけじゃないんだよ

 前に進めば 今よりずっと
 涙が優しく輝く

 君には僕がいる ひとりじゃないから
 今君と 僕が 前に歩んで いるのは
 夢と希望があったから

 どんな夜も朝が来る 輝け 運命
 雨が降って 寂しいときは
 何が待っていようと君に会いに行くから―――」

 「ほら、歌えた。」
 瑠衣くんの声が近い。
 笑いかけられるだけで、目を合わせられなくなる。窓の外の光が金色に変わって、部屋の中の空気を包み込む。その中で、彼の横顔だけがやけに鮮明だった。
 「瑠衣。」
 名前を呼んだ自分の声が、震えていた。
 「……ありがとう。」
 「何が?」
 「わからないけど……たぶん、たくさん。」
 彼が笑った。その笑顔が、まぶしくて、少しだけ泣きたくなった。心の奥で“何かを失って、でも代わりに大切なものをもらった”ような気がした。
 その日、音楽室を出る頃には、すっかり夕暮れが街を包んでいた。雨の匂いはもうなくて、かわりに澄んだ風が頬を撫でていった。
 その風が言ったみたいだった。「もう、大丈夫だよ」って。
 見上げた空の端に、うっすらと虹がかかっていた。知らなかった。“雨のあと”って、こんなにきれいなんだ。