この雨を虹にしてくれた君へ

 翌朝、目が覚めた瞬間に、昨日の出来事を思い出した。
 夢だと思いたかった。でも、右手の掌に残る痛みが、それを否定した。あの時、掴まれた場所がまだ少し赤い。
 ――助けられたんだ。その事実が、胸の奥でじんわりと温かく広がった。
 「……ありがとう。」
 小さく呟いた声は、自分の中でだけ反響した。

 教室に入ると、空気が少し変わっていた。御心さんは、今日は珍しく静かだった。目も合わない。私を見るふりすら、しない。
 その沈黙が逆に怖かったけれど、不思議と、昨日までの息苦しさとは違っていた。
 何かが終わって、何かが始まる――そんな予感だけが胸の中に残る。席につくと、天寧が駆け寄ってきた。
 「夢姫!昨日どこ行ってたの?急にいなくなったと思ったら、花恋さんの様子おかしいし…」
 「あ、うん…ちょっと、外の空気、吸ってた。」
 本当のことは言えなかった。でも、その代わりに、少しだけ笑ってみた。ぎこちなくても、ちゃんと笑えたのは久しぶりだった。
 天寧がほっとしたように笑ったから、また少し息ができた気がした。

 放課後、私が音楽室の前を通ると、中からピアノの音が聴こえてきた。Epilogueだ。私の大好きな曲。雨の日のような柔らかいメロディ。
 何となく立ち止まって、耳を傾ける。その指の音に、どこか聞き覚えがあった。屋上の風の中で聞いた声――あの、透き通った響きと重なる気がした。
 静かにドアを少し開けると、男の子がピアノに向かっていた。黒い髪、長い指。

 「君には僕がいる ひとりじゃないから」
思わず歌ってしまった。
 私に気付くと、驚いたように振り返った。
 「――あ。」
 視線がぶつかる。思わず息をのんだ。
 「昨日の子、だよね。」
 彼はそう言って、優しく笑った。笑った顔が、昨日の雨の中の印象とはまるで違った。柔らかくて、静かで、でもどこか不器用な笑みだった。
 「……はい。あの、助けてくれて……」
 「気にすんな。あんなの、俺が助けたくて助けただけだから。」
 その言葉が、胸の奥にじんと響いた。“助けたくて助けただけ”――その言い方が、妙に嬉しかった。
 「名前、教えてもらっていい?」
 「……結菜紡、夢姫、です。」
 「ゆき、か。いい名前。」
 言葉の響きを大切に転がすように彼が口にした。
 「俺は、澄雪瑠衣。」
 その名前が、音のように静かに心に落ちた。

 瑠衣くんはピアノの前に戻り、また音を奏ではじめた。しかし、今度は小さな声で言った。
 「雨みたいな曲で、聴いてると、落ち着く。」
 ピアノの音に包まれながら、彼の言葉を噛みしめる。少し前まで、私にとって雨は苦しみだった。
 でも、今は違う。誰かの音と重なることで、少しだけ優しい色に変わっていく気がした。
 「好きです、Epilogue、私も。」

 気づけば、教室の窓から差す夕日が、瑠衣の背中を染めていた。
 雨の代わりに、橙色の光。心の奥で、何かがゆっくり解けていった。たぶん私は、この瞬間を一生忘れない。彼が、初めて“晴れを見せてくれた人”だから。




 その日から、私は放課後の音楽室に通うようになった。最初はただ、ピアノの音を聴くだけ。何となく最後の鍵盤の余韻を聴き取りたくて、座り込んでいると、瑠衣くんが気づいて声をかけてくる。
 「また来たの?」
 「……うん。音が、好きだから。」
 「そっか。なんか、嬉しい、かも。」
 右手の指が軽やかに鍵盤を叩く。流れるような旋律が、雨上がりの風のように優しい。音楽がこんなにも人を救ってくれるなんて、知らなかった。

「なあ、夢姫って、家でも音楽聴く?」
 名前を呼ばれて、一瞬だけ胸が跳ねた。
 「う、うん。よくイヤホンで……」
 「やっぱり。なんか、色んな曲知ってるな、って思ってた。」
 瑠衣くんが笑う。その何気ない一言に心が掴まれる。
 「どんな曲、聴いてるの?」
 「えっと…それこそEpilogueみたいな、少し悲しいけど、きれいな曲が多いかな。」
 「なるほど。俺も、そういうの好きだよ。」
 彼がそう言うと、ピアノの音が少しだけ静まった。
 「悲しい曲って、落ち着くよな。なんか、自分の中のノイズが消えていく感じがして。」
 「――うん。わかる、気がする。」
 言いながら、窓の外に視線を向けた。放課後の空には、薄い雲の隙間から光が差している。雨はようやく止んだ。

 そのあとは、ふたりでいろんな話をした。授業のこと、昼休みのデザートの話、好きな映画や小さな失敗談。どれも他愛もない話だったけど、こんなに笑えたのは本当に久しぶりだった。夢を見るように、時間が過ぎていく。
 「そういえば、夢姫ってよく笑うんだな。」
 「……えっ?」
 「初めて会ったとき、泣いてばっかりの子かと思った。」
 「ふふっ、ひどい……!」
 瑠衣くんが少し慌てたように手を振る。
 「違うって! 今の笑顔、ちゃんと見られてよかったって意味!」
 その言葉に、頬が熱くなった。そして、二人で笑ってしまった。その笑い声が、音楽室の木の壁に柔らかく響いていた。

 帰り道、細い道にふたりの影が並んだ。夕日が背中を照らして、長く伸びていく。
 「送ってくれてありがとう。ここからはもう大丈夫だよ。」
 そう言うと、瑠衣は立ち止まって、少しだけ真剣な目をした。
 「無理はするなよ。ちゃんと、俺がいる。」
 息をのんだ。優しいのに、まっすぐな声。それが胸の奥で、静かに響いた。
 「……うん。ありがとう、瑠衣。」

 夜、机に広げたノートの上に、ひとしずく涙が落ちた。悲しくて泣いたわけじゃない。“誰かに優しくされたい”という気持ちが、今になって溢れてきただけだった。ずっと忘れていた、あたたかさ。もう一度信じてもいいのかもしれない――そう思えた。