その日も、雨だった。
もう、何日も傘を差していない気がする。濡れることももうどうでもよくて、朝から靴下も冷たいままだ。
教室に入ると、また机の上に落書きがあった。先週も、全部消したばかりだというのに。
「……」
手にした雑巾を握る。指先が震えて、少し痛かった。涙なんて、とっくに出なくなった。泣いても、誰も助けてくれない。
天寧の視線を感じても、逸らした。目が合ったら、また彼女が傷つくから。
放課後の廊下で、「ねえ」と声がした。低くて、乾いた声。振り返ると、御心さんが立っていた。相変わらず整った顔立ちなのに、その眼差しだけが冷たくて、怖かった。
「ちょっと来て。」
拒否できなかった。命令のようだった。案の定、トイレの裏に連れて行かれた。そこは人が通らない、校舎の影。
「うちらの話、無視してたでしょ?」
「……してない。」
「嘘つかないで。あんた、天寧と喋ってたでしょ。」
「……た、たまたま。」
頬を張られた。乾いた音が、雨の音に混じって響く。誰も来ない。誰も見ていない。
抑えていた嗚咽が漏れそうになるのを噛みしめて、ただ殴られ終わるのを待った。
その夜、帰り道の街灯が滲んで見えた。家の窓から漏れる灯りが、やけに温かく見えた。
「―――帰りたくないな。」
小さく呟いた声を、雨が全部、流してくれた。
翌日。
今日も、雨が降っている。もう何日目になるのだろう。カレンダーの数字を追うことも、いつの間にかやめていた。
窓の外を見ていると、景色が涙のように流れていく。
「夢姫、大丈夫?」
天寧がそっと肩に触れた。彼女の優しさは、まるで雨上がりの光のようにあたたかい。でも――
「……大丈夫、だから、話しかけないで…」
言葉だけが空を滑っていく。本当は大丈夫じゃない。けれど、それを言ってしまえば、すべてが壊れてしまいそうだった。
教室の笑い声が遠くに聞こえる。机の上に投げられた紙くず、廊下に響く笑い声。今日もまた、同じ。
「ねえ、見た? またあの子、泣きそうになってたよ」
「ウケる〜」
聞こえないふり。でも、耳が勝手に拾ってしまう。誰かの楽しみが、自分の痛みでできていることを、私は知っている。
でも、学校には行かなきゃいけない。行かないと、「逃げた」と言われる。それがなにより怖かった。だから、私は笑わない代わりに、“何も言わない”を選んだ。
放課後、教室に残るのは、雨音と私だけだった。黒板には、昼間の落書きがそのまま残っている。
“消えろ”、“ウザい”、“ぼっち”。
もはや誰の字かもわかるようになっていた。雑巾を手に取り、机を拭く。指の腹が擦り切れて、小さく痛む。
「……夢姫?」
振り向くと、天寧が立っていた。折りたたみ傘を片手に、心配そうに見つめている。
「一緒に帰ろ?」
その言葉が、胸に刺さった。
「……ごめん。私、まだ残るから。」
また、そんな言葉を選んでしまう。天寧は一瞬だけ何かを言いかけて、唇を噛んだまま教室を出ていった。
残された私は、湿った雑巾を握りしめ、小さく息を吐いた。
「嫌われたかな……」
そんな不安すら、もう正直どうでもよかった。
帰り道。傘を差して歩く道路には、オレンジ色の街灯がにじんで見える。遠くで車の音がして、それがやけに優しく聞こえた。
信号待ちのとき、ふと空を見上げる。
雨の向こう、街のネオンがぼやけて虹のようにも見えた。
誰か、助けて――そんな声を、雨が全部、包み込んでいく。
もう、何日も傘を差していない気がする。濡れることももうどうでもよくて、朝から靴下も冷たいままだ。
教室に入ると、また机の上に落書きがあった。先週も、全部消したばかりだというのに。
「……」
手にした雑巾を握る。指先が震えて、少し痛かった。涙なんて、とっくに出なくなった。泣いても、誰も助けてくれない。
天寧の視線を感じても、逸らした。目が合ったら、また彼女が傷つくから。
放課後の廊下で、「ねえ」と声がした。低くて、乾いた声。振り返ると、御心さんが立っていた。相変わらず整った顔立ちなのに、その眼差しだけが冷たくて、怖かった。
「ちょっと来て。」
拒否できなかった。命令のようだった。案の定、トイレの裏に連れて行かれた。そこは人が通らない、校舎の影。
「うちらの話、無視してたでしょ?」
「……してない。」
「嘘つかないで。あんた、天寧と喋ってたでしょ。」
「……た、たまたま。」
頬を張られた。乾いた音が、雨の音に混じって響く。誰も来ない。誰も見ていない。
抑えていた嗚咽が漏れそうになるのを噛みしめて、ただ殴られ終わるのを待った。
その夜、帰り道の街灯が滲んで見えた。家の窓から漏れる灯りが、やけに温かく見えた。
「―――帰りたくないな。」
小さく呟いた声を、雨が全部、流してくれた。
翌日。
今日も、雨が降っている。もう何日目になるのだろう。カレンダーの数字を追うことも、いつの間にかやめていた。
窓の外を見ていると、景色が涙のように流れていく。
「夢姫、大丈夫?」
天寧がそっと肩に触れた。彼女の優しさは、まるで雨上がりの光のようにあたたかい。でも――
「……大丈夫、だから、話しかけないで…」
言葉だけが空を滑っていく。本当は大丈夫じゃない。けれど、それを言ってしまえば、すべてが壊れてしまいそうだった。
教室の笑い声が遠くに聞こえる。机の上に投げられた紙くず、廊下に響く笑い声。今日もまた、同じ。
「ねえ、見た? またあの子、泣きそうになってたよ」
「ウケる〜」
聞こえないふり。でも、耳が勝手に拾ってしまう。誰かの楽しみが、自分の痛みでできていることを、私は知っている。
でも、学校には行かなきゃいけない。行かないと、「逃げた」と言われる。それがなにより怖かった。だから、私は笑わない代わりに、“何も言わない”を選んだ。
放課後、教室に残るのは、雨音と私だけだった。黒板には、昼間の落書きがそのまま残っている。
“消えろ”、“ウザい”、“ぼっち”。
もはや誰の字かもわかるようになっていた。雑巾を手に取り、机を拭く。指の腹が擦り切れて、小さく痛む。
「……夢姫?」
振り向くと、天寧が立っていた。折りたたみ傘を片手に、心配そうに見つめている。
「一緒に帰ろ?」
その言葉が、胸に刺さった。
「……ごめん。私、まだ残るから。」
また、そんな言葉を選んでしまう。天寧は一瞬だけ何かを言いかけて、唇を噛んだまま教室を出ていった。
残された私は、湿った雑巾を握りしめ、小さく息を吐いた。
「嫌われたかな……」
そんな不安すら、もう正直どうでもよかった。
帰り道。傘を差して歩く道路には、オレンジ色の街灯がにじんで見える。遠くで車の音がして、それがやけに優しく聞こえた。
信号待ちのとき、ふと空を見上げる。
雨の向こう、街のネオンがぼやけて虹のようにも見えた。
誰か、助けて――そんな声を、雨が全部、包み込んでいく。
