春が近づいていた。空気が少しずつ柔らかくなり、厚いコートを脱ぐ日も増えてきた。毎朝、校門をくぐるときの風が心地いい。それだけで、少し幸せだった。
放課後の音楽室では、今日も瑠衣くんがピアノを弾いている。あの頃みたいな静けさはもうなくて、かわりに小さな会話や笑い声が混じる。瑠衣くんが曲を弾き終えるたびに、私は拍手をする。それが癖のようになっていた。
「今日の曲、なんていうの?」
「題名なんてないよ。即興。」
そう言うと、彼は少し照れくさそうに笑う。
「でも、夢姫が聴いてくれるなら、それで十分。」
ああ、この時間がずっと続けばいい――
そんなことを、何度思っただろう。
その夜、ふと、夢を見た。暗い空の下、赤い光が瞬いている。温かいのに冷たくて、息が苦しい。
何かが崩れる音がして、名前を呼ぶ声がした。
―――……ゆ、き……?
「瑠衣くんっ!」
目を覚ますと、心臓が早鐘のように鳴っていた。夢だとわかっていても、寝返りをうつたびにその声が耳にこびりついて離れなかった。
やけに胸騒ぎがしたけれど、まさか本当にそれが“前触れ”だとは思わなかった。
翌日、夜。その日も雨だった。スマホの通知が鳴る。
「民家で火災発生」――地域のニュース速報だった。雨なのに、火事なんて。火は消えないのだろうかと不思議に思い、記事を読んだ。記事を読んで、息が止まった。
―――瑠衣くんの、家だ。
手からスマホが滑り落ちる。視界が歪む。指先が冷え、心臓の鼓動だけがやけに鮮明に聞こえた。胸がざわめいた。さっきまで普通に笑っていたのに。あの普通が、音もなく壊れていくのを感じた。
「……うそ、でしょ。」
体が勝手に動いていた。靴を履く。上着を掴む。母の声が背中で響いたけど、何を言っているかなんて聞こえなかった。
夜の街を走る。冷たい雨が髪を濡らす。それでも、足は止まらなかった。
頭の中で、ただ一言だけが響いている。
――助けなきゃ。
遠くに赤と青の光が揺れていた。煙が空に上がっている。火の粉が雪のように散っていた。息を切らしながら近づくと、人だかりができている。消防隊の声、遠くで泣く女の人の声。きっと、瑠衣くんのお母さんだ。
「中に、まだひとり……!」
その声を聞いた瞬間、心が凍った。名前を呼ばなくても、わかってしまった。
―――瑠衣くんが、まだ中にいる。
次の瞬間、私は駆け出した。誰の声も届かない。風も、炎も、時間さえも止まって見えた。
きっと大丈夫。根拠のない自信があった。雨に濡れたから、燃えることはないはず。
ただひとつ、“瑠衣くんを助けたい”。その想いだけが、私を動かしていた。
放課後の音楽室では、今日も瑠衣くんがピアノを弾いている。あの頃みたいな静けさはもうなくて、かわりに小さな会話や笑い声が混じる。瑠衣くんが曲を弾き終えるたびに、私は拍手をする。それが癖のようになっていた。
「今日の曲、なんていうの?」
「題名なんてないよ。即興。」
そう言うと、彼は少し照れくさそうに笑う。
「でも、夢姫が聴いてくれるなら、それで十分。」
ああ、この時間がずっと続けばいい――
そんなことを、何度思っただろう。
その夜、ふと、夢を見た。暗い空の下、赤い光が瞬いている。温かいのに冷たくて、息が苦しい。
何かが崩れる音がして、名前を呼ぶ声がした。
―――……ゆ、き……?
「瑠衣くんっ!」
目を覚ますと、心臓が早鐘のように鳴っていた。夢だとわかっていても、寝返りをうつたびにその声が耳にこびりついて離れなかった。
やけに胸騒ぎがしたけれど、まさか本当にそれが“前触れ”だとは思わなかった。
翌日、夜。その日も雨だった。スマホの通知が鳴る。
「民家で火災発生」――地域のニュース速報だった。雨なのに、火事なんて。火は消えないのだろうかと不思議に思い、記事を読んだ。記事を読んで、息が止まった。
―――瑠衣くんの、家だ。
手からスマホが滑り落ちる。視界が歪む。指先が冷え、心臓の鼓動だけがやけに鮮明に聞こえた。胸がざわめいた。さっきまで普通に笑っていたのに。あの普通が、音もなく壊れていくのを感じた。
「……うそ、でしょ。」
体が勝手に動いていた。靴を履く。上着を掴む。母の声が背中で響いたけど、何を言っているかなんて聞こえなかった。
夜の街を走る。冷たい雨が髪を濡らす。それでも、足は止まらなかった。
頭の中で、ただ一言だけが響いている。
――助けなきゃ。
遠くに赤と青の光が揺れていた。煙が空に上がっている。火の粉が雪のように散っていた。息を切らしながら近づくと、人だかりができている。消防隊の声、遠くで泣く女の人の声。きっと、瑠衣くんのお母さんだ。
「中に、まだひとり……!」
その声を聞いた瞬間、心が凍った。名前を呼ばなくても、わかってしまった。
―――瑠衣くんが、まだ中にいる。
次の瞬間、私は駆け出した。誰の声も届かない。風も、炎も、時間さえも止まって見えた。
きっと大丈夫。根拠のない自信があった。雨に濡れたから、燃えることはないはず。
ただひとつ、“瑠衣くんを助けたい”。その想いだけが、私を動かしていた。
