握手を交わした手がそっと離れた瞬間、控室の空気がわずかに変わった。
璃子はそのまま、目の前の男――蓮をまっすぐ見つめる。
「……でも、本当に“初めまして”なのかしら」
静かな声だったが、その奥に確信めいた熱が宿っていた。
蓮の指先が、ふっとこわばる。
「……どういう意味ですか?」
平静を装うように返した声は、わずかに揺れていた。
「目、そらした」
璃子は囁くように言い、ほんの少しだけ前に踏み出す。
「あなたの目……あの頃と同じよ。全部隠そうとしてるのに、目だけが嘘をつけてない」
「……俺は“宅麻大地”です」
蓮は視線を逸らさずそう返すが、その表情には微かな迷いが滲んでいた。
「黒瀬蓮……覚えてないの?」
その名前を聞いた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
(また……その名前……)
優香の口からも、確かに聞いた。
でも、それは“かつていたアイドルの名前”であって、自分のものじゃない。
そう、何度も言い聞かせてきた。
……けれど。
胸の奥が、静かにざわつく。
頭の奥底で、何かが揺れ始めていた。
「……知りません。その人のことは」
蓮が言い切った瞬間、璃子は笑った。
けれど、それは切なさを滲ませた――挑発に似た笑みだった。
「じゃあ、教えてあげる。あの頃のあなたが、どんなふうに泣いて、どんなふうに私にすがったか」
「……やめてください」
「忘れたなんて、言わせない。あなたは、私に誓ったの。“トップになってやる”って――あの夜、震える声で」
蓮の胸に、何かが衝突したような感覚が走った。
「誰にも言えないって泣いてたよね。“もう無理だ”って座り込んだ夜……」
「……やめろ……」
「私が、肩を抱いてこう言ったの。“泣きたいなら、泣いていい。私だけが知ってればいいから”――忘れた?」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
――暗いレッスン室。
――声が出なくなって、膝を抱えて震えた夜。
女の声が、やさしく響いた。
肩に触れた温度と、指先の細かな震え。
遠ざかっていたはずの記憶が、胸に逆流する。
「……っ……やめろ……!」
思わず、蓮は額を押さえた。
足元がふらつき、鏡台に手をついて支える。
「大丈夫……?」
璃子の声が届くが、蓮は聞こえないふりをした。
息がうまく吸えない。喉が焼ける。
逃げなければ――この場から。
このままでは、何かが壊れてしまう。
「……失礼します」
蓮は顔を伏せたまま立ち上がり、ふらつく足でドアに向かった。
その背に向かって、璃子が一歩踏み出す。
「待って! あなた、私を……」
けれど、蓮は振り返らない。
控室のドアを開け、まるで何かから逃れるように廊下へと歩き出した。
残された璃子は、ひとり静かに立ち尽くす。
――さっきまでの微笑みが、音もなく溶けていた。
璃子はそのまま、目の前の男――蓮をまっすぐ見つめる。
「……でも、本当に“初めまして”なのかしら」
静かな声だったが、その奥に確信めいた熱が宿っていた。
蓮の指先が、ふっとこわばる。
「……どういう意味ですか?」
平静を装うように返した声は、わずかに揺れていた。
「目、そらした」
璃子は囁くように言い、ほんの少しだけ前に踏み出す。
「あなたの目……あの頃と同じよ。全部隠そうとしてるのに、目だけが嘘をつけてない」
「……俺は“宅麻大地”です」
蓮は視線を逸らさずそう返すが、その表情には微かな迷いが滲んでいた。
「黒瀬蓮……覚えてないの?」
その名前を聞いた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
(また……その名前……)
優香の口からも、確かに聞いた。
でも、それは“かつていたアイドルの名前”であって、自分のものじゃない。
そう、何度も言い聞かせてきた。
……けれど。
胸の奥が、静かにざわつく。
頭の奥底で、何かが揺れ始めていた。
「……知りません。その人のことは」
蓮が言い切った瞬間、璃子は笑った。
けれど、それは切なさを滲ませた――挑発に似た笑みだった。
「じゃあ、教えてあげる。あの頃のあなたが、どんなふうに泣いて、どんなふうに私にすがったか」
「……やめてください」
「忘れたなんて、言わせない。あなたは、私に誓ったの。“トップになってやる”って――あの夜、震える声で」
蓮の胸に、何かが衝突したような感覚が走った。
「誰にも言えないって泣いてたよね。“もう無理だ”って座り込んだ夜……」
「……やめろ……」
「私が、肩を抱いてこう言ったの。“泣きたいなら、泣いていい。私だけが知ってればいいから”――忘れた?」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
――暗いレッスン室。
――声が出なくなって、膝を抱えて震えた夜。
女の声が、やさしく響いた。
肩に触れた温度と、指先の細かな震え。
遠ざかっていたはずの記憶が、胸に逆流する。
「……っ……やめろ……!」
思わず、蓮は額を押さえた。
足元がふらつき、鏡台に手をついて支える。
「大丈夫……?」
璃子の声が届くが、蓮は聞こえないふりをした。
息がうまく吸えない。喉が焼ける。
逃げなければ――この場から。
このままでは、何かが壊れてしまう。
「……失礼します」
蓮は顔を伏せたまま立ち上がり、ふらつく足でドアに向かった。
その背に向かって、璃子が一歩踏み出す。
「待って! あなた、私を……」
けれど、蓮は振り返らない。
控室のドアを開け、まるで何かから逃れるように廊下へと歩き出した。
残された璃子は、ひとり静かに立ち尽くす。
――さっきまでの微笑みが、音もなく溶けていた。


