仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

控室の空気は、ひんやりと澄んでいた。
ブラインドの隙間から差し込む朝の光が、鏡の前に座る蓮の横顔をやわらかく照らしている。

髪には寝癖が少し残り、ヘアメイクを待ちながら、蓮はスマホを手に取っては、また置き、窓の外へと視線をやった。

──昨日の夜、優香の笑顔。
──そっと握り返してくれた、あたたかい手。
──「好きだ」と伝えてくれた、まっすぐな瞳。

胸の奥に、今まで知らなかったようなぬくもりが灯っている。

(……こんなふうに、誰かを思い出して笑うなんて……いつぶりだろう)

「大地くん、今日もよろしくねー!」

明るい声と共に、メイクさんが軽いノックをして入ってきた。
蓮はわずかに肩を揺らし、自然と微笑んだ。

「……お願いします」

その柔らかな表情を見て、メイクさんがふと目を細める。

「なんかさ、最近の大地くん、ちょっと優しい顔になったよね」

「え……?」

鏡を覗き込むと、そこに映るのはどこか柔らいだ輪郭、作り物じゃない笑顔だった。
無理に笑おうとしなくても、表情が自然に和らいでいる自分がいた。

(……変な感じ。でも……悪くない)

メイク道具が準備されていく間、蓮は膝の上の台本に目を落とした。
今日の顔合わせ相手を確認しようと、ページをぱらりとめくる。

──「矢野璃子」

その名前を目にした瞬間、胸の奥がぴくりと揺れた。

(……誰? 知らない……はずなのに……)

「大地くん、緊張してる?」
メイクさんが軽く冗談まじりに声をかける。

「今日、午後から相手役の女優さんと顔合わせだってね。最近、舞台でも話題なんだって。すごい人らしいよ?」

「……ああ、そうなんですね」

そう答えながらも、蓮は目を逸らせなかった。
台本のページに刻まれたその名前――矢野璃子。

(……どうして……気になる……?)

そのとき、扉の向こうから優香の声が響く。

「大地くん、衣装合わせのあとすぐ顔合わせだからね! 段取り、あとで確認するよー!」

「……はい」

声を聞くだけで、胸の奥にあたたかさが戻ってくる。
不安も迷いも、彼女がそばにいると思えば、少しだけ遠ざかる気がする。

(……優香が見ていてくれる限り、俺は……俺でいられる)

鏡に映る蓮が、やわらかく笑った。
だがその笑顔の奥――ページの片隅にある“ひとつの名前”だけが、静かに心の奥を波立たせていた。

それがどんな記憶に繋がっているのか。
その波が、これから何を呼び起こすのか。
今はまだ――誰も、知らない。