仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

車のエンジン音が、穏やかな鼓動のように響いていた。
窓の外を、朝の街並みが静かに流れていく。

優香はハンドルを握りながら、前を見据えたまま口を開いた。
「ちょっと緊張してる?」

助手席の蓮は、コーヒーの紙カップを両手で包みながら、わずかに視線を伏せる。
「……わかる?」

「そりゃあ、毎日見てるから」
優香は柔らかく笑った。その笑みに、蓮の表情が少しだけ緩む。

車窓の向こう、ビルの影が流れ、空の青さがちらりとのぞいた。
けれど胸の奥には、得体の知れない緊張がまだ残っている。

(……大丈夫。俺は逃げないって決めた。あの夜、優香と誓った)
(それでも――三島の顔が浮かぶ。あの冷たい声が、まだ耳の奥に残っている)

「……優香」

名前を呼ぶ声には、かすかな震えがあった。
優香はちらりと彼に目を向ける。

「……俺さ。“宅麻大地”って名前に縛られたくないって言ったろ?」

「うん、ちゃんと覚えてるよ」

「でも……現場に立つと、また“俺は大地なんだろうか”って、分かんなくなる時がある」
視線を窓に向けたまま、蓮は言葉を選ぶように続けた。

「……結局、俺は誰なんだろうって……怖くなるんだ」

信号が赤に変わり、車が止まる。
淡い光が車内を照らし、ふたりの間に短い沈黙が落ちた。

やがて優香は静かに口を開く。
「……怖いって思えるのは、ちゃんと自分を見てる証拠だよ」

「自分を?」

「何も考えないで流されてたら、怖さなんて感じない。
 でも、今の蓮くんは違う。ちゃんと、自分がどう在りたいか考えてるから、迷うんだよ」

彼女の声は落ち着いていて、でもどこか優しくて、
蓮は思わずその横顔を見つめる。

「それに、私はちゃんと見てる。
 “宅麻大地”でもなく、“黒瀬蓮”でもなく――今、目の前にいるあなたを」

「……俺を?」

「うん。言葉も、顔も、昨日の笑顔も、今の不安そうな目も。
 全部……“あなた”そのものに見えてるよ」

その言葉に、胸の奥に張りつめていた糸が、そっとほどけていく。
息が、すっと楽になる。

(……俺は、今ここにいる。優香の隣で、ちゃんと生きてる)

「……ありがとな」

その声はかすかに震えていたが、確かな強さを宿していた。

「俺、行くよ。大地でも蓮でもなく……“俺”として」

優香は青信号を確認しながら、にこりと微笑んだ。
「うん。一緒に、頑張ろう」

車は静かに走り出す。
朝の光がフロントガラスを照らし、やわらかな道を二人に差し伸べていた。
その先に――まだ知らぬ運命の気配が、静かに揺れていた。