楽屋のドアが閉まった瞬間、膝から力が抜け、彼は崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。
 宅麻大地――そう名乗る青年は、崩れ落ちるように椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
 手のひらはじっとりと汗で濡れ、胸の奥では心臓が早鐘のように打っている。
 けれど、その高鳴る鼓動は、興奮や達成感によるものではなかった。

 ただ、“演じ終えた”という安堵と、言葉にできない虚しさが、そこにあった。
「完璧だったな」
 背後から落ちてきた低い声。
 三島が静かに拍手をしながら、彼の背に立つ。
「視線も、笑顔も、答えも。まるで台本通りだ。……いや、“本物”の宅麻大地だったよ」
「……ありがとうございます」
 口から出た礼の言葉は、どこか他人のもののように聞こえた。
 自分の喉を通った音に、まるで現実味がない。まるで録音された音声のようだった。
「どうだ、外の空気は。ファンの歓声。光の中。……懐かしいだろ?」
 青年――大地は、黙っていた。
 “懐かしい”と感じるべきなのか、それさえわからない。
 むしろ、自分だけが取り残されているような感覚に囚われていた。
「言葉はどうでもいい。ただ、これだけは覚えておけ」
 三島が肩に手を置く。
 冷たい指先が、じわじわと圧をかけてくる。
「君は“宅麻大地”であって、それ以外ではない。
 あのステージに立ち続ける限り、過去も、感情も、いらない。
 必要なのは――完璧な存在であることだけだ」
 “それ以外ではない”。
 その言葉が、胸のどこかを静かに、しかし鋭く刺した。
「……もし、僕が……“違う名前”だったとしたら?」
 ぽつりと、反射のように漏れた声。
 何かを確かめたくて。何かを否定したくて。気づけば口が動いていた。
 三島は、一瞬だけ間を置いた。
 そして、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「その思考自体が、無意味だ。
 過去は“なかったこと”にすればいい。“宅麻大地”として生きる。
 それが君を守る唯一の方法だ。……それとも、もう一度、無名の誰かに戻りたいか?」
 沈黙。
「君にはもう、選択肢なんてないよ」
 その声は、やわらかく響いた。
 けれど、そこに宿るのは優しさではない。
 それは、音のない鎖だった。
 ――もう、“宅麻大地”として生きるしかない。
 心の底に、何か重たいものが沈んでいくのを感じながら、大地は鏡に視線を向けた。
 ライトを受けた明るいブラウンの髪が、やわらかく光っている。
 ジャケットの胸元で揺れる、シルバーのブローチが微かに反射する。
 そこに映っていたのは、誰もが憧れる、完璧な王子様の笑顔。
 だが、その笑顔の奥には、誰にも見えない、小さなひびが走っていた。