仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

 海は、穏やかに光を受けていた。
 陽のきらめきが波の揺らめきに反射して、砂浜を白く照らす。
 風が少しあって、蓮の髪がやわらかくそよいだ。

 砂浜を並んで歩きながら、優香はちらりと横目で彼をうかがった。
 蓮は無言のまま、つま先で砂を蹴ったり、波打ち際の貝殻を指先で転がしたりしていた。
 その子どもみたいな仕草が、どこか愛おしく感じられた。

「……海、来るの、久しぶりかも」
 ふいに蓮がつぶやく。
 優香は微笑みながらうなずいた。
「うん。私も、こんなにのんびりするの、久しぶり」

 ふたりはどちらからともなく足を止めた。
 潮風が、あたたかい昼の日差しの中をふわりと通り抜けていく。
 言葉はなくても、不思議と穏やかな空気が流れていた。

 その時――
 蓮の指先が、そっと優香の手に触れた。

 驚きで息を呑む。けれど、それは一瞬のことで。
 彼の手は、迷いながらも優香の手を包み込んだ。
 視線は遠く、まるで気持ちの整理がつかないまま、どうにかすがるような、そんな手つきだった。

 優香は、そっと彼を見つめる。
 言葉は交わさずとも、そのぬくもりだけが確かに存在していた。

 やがて蓮は小さく息を吸い、静かに手を離した。
「……ごめん。なんでもない」
 小さくつぶやくと、また前を向いて歩き出す。

 優香はその場に立ち止まり、自分の手のひらを見つめた。
 そこに残るのは、ほんの一瞬の温度――
(……あれが“なんでもない”はず、ないよ)

 胸の奥が、ふわりとあたたかく揺れる。
 潮の香りの中で、心の鼓動だけがやけに鮮やかに聞こえた。

 気づけば、彼の背中を追って一歩、二歩と歩き出していた。
 ――そして、ふいにその背中にそっと腕を回した。

「……!」
 蓮の体がびくりと跳ねた。
 けれど振り返ることはできず、そのまま静止する。

「……ねえ、大地くん」
 優香の声は、潮風に溶けるようなやさしさを帯びていた。
「さっき、私の手、握ったよね? ……あれ、すごく嬉しかったんだよ」

 蓮は返事ができず、唇を噛みしめる。
「私、もう迷わないって決めたの。
 あなたが誰でも、どんな時でも……私が、大地くんの味方でいたいって」

 彼女の腕に、少しだけ力がこもった。
 蓮は苦しげに目を伏せながら、ようやく絞り出すように言った。

「……どうして、そんなこと言えるんだよ」
「だって――」
 優香は彼の背中に額を預ける。
「あなたが、あんなふうに自分から誰かに触れるなんて、きっと……すごく勇気がいったはずだもん」

 蓮の肩が、小さく震える。
 言葉が出ない。けれど、その胸の奥で、氷のように固まっていた何かが、じんわりと溶けていくのがわかった。

「優香さん……俺……」
 ようやく振り返ったその瞳には、涙の光がにじんでいた。
「……もうちょっとだけ、このままでいてもいい?」

「もちろん」
 優香はためらわず、ぎゅっと彼を抱きしめなおした。
 潮風がふたりの髪を優しく揺らしていた。

 ――その午後、誰にも邪魔されない、ふたりだけの時間が、
 ただ静かに、海の音とともに流れていった。