仮面のアイドルの正体は、記憶を失った少年だった 「記憶を失った少年が、“仮面のアイドル”として生きる運命とは――?」

 カーテンの隙間から、朝の光がやわらかく差し込む。
 テーブルの上には湯気を立てるコーヒー。
 優香はマグカップを両手で包み、ふっと笑みをこぼした。

「今日は……予定、入れてないんだ」

 まだ少し寝ぼけた顔のまま、蓮が彼女を見た。
「……え?」

 優香はマグを置いて、いたずらっぽく微笑む。
「特別オフだよ。マネージャー権限で、ね」

「オフ?」

「うん。ちょっと出かけない? 気分転換に」

 その言葉に、蓮はまばたきをひとつしてから、ゆっくりとうなずいた。
 その仕草を見て、優香の胸がほんのり軽くなるのを感じた。

***

 郊外へ向かう車の中。
 助手席に座る蓮は、窓を少し開けて、頬を撫でる風を感じていた。
 流れる景色をぼんやりと目で追いながら、彼の胸の奥で何かが少しずつほどけていく。

 カーステレオから、やわらかなイントロが流れはじめた。

 ♪――
 夜をこえて 君を迎えにいくよ
 迷っても、怖くても この声が道になる
 ――♪

 それは、宅麻大地の代表曲だった。

「……これ」

 蓮が小さくつぶやく。

「大地くんの曲だよ」
 優香が笑顔で答える。「私、これ好きなんだ」

 蓮は黙ったまま、風の向こうに視線を向けていた。
 その目がほんのわずか揺れ、やがて、ぽつりとこぼす。

「……迎えにいくよ、か……」

 気づけば、唇が自然とメロディを追っていた。
 小さく、ぎこちなく。それでも確かに、感情が乗っていた。

 優香はハンドルを握ったまま、思わず彼を見つめる。
「……大地くん、今、歌……?」

 蓮ははっとしたように自分の声に戸惑い、呟いた。
「なんで……歌えるんだろ、俺……?」

 そして、少し照れたように笑った。
「変だな……俺、歌手だったのかな」

 その笑みは、ステージで見せる“宅麻大地”の仮面の笑顔ではなかった。
 もっと素朴で、不器用で――けれど、心からのものだった。

 優香も、ふっと笑みを返す。
「だったんじゃなくて、今も、でしょ?」

「……そっか」

 蓮は窓の外に視線を戻しながら、小さく思う。
(……不思議だ。さっきまで、この歌が自分のものだなんて思えなかったのに)
(でも、今……こうして口ずさんでると、胸の奥に何かが確かに灯っていく)
(まるで、俺だけの声が……どこかで生きてたみたいに)

 そんな彼の横顔を見つめながら、優香が前を向いたまま口を開く。
「ねえ、大地くん。さっきの声、すごくよかったよ。もっと聴きたいな……ふたりで、歌ってみよう?」

 蓮はほんの一瞬、ためらうようにまぶたを伏せた。
 けれど次の瞬間、静かにうなずく。

「……いくよ?」

 ふたりの声が、メロディに重なり合う。
 揺れる風、流れる景色、そのすべてにやさしいハーモニーが溶けていく。

 誰にも見せない“ふたりだけの世界”が――
 その車の中に、静かに息づいていた。