翌朝。雨上がりの湿った風が、わずかに開けた窓からそっと差し込む。

 スタジオ奥のメイクルーム。鏡の前の椅子に座らされた青年――まだ「蓮」と呼ぶほうがしっくりくる彼は、ぼんやりと自分の顔を見つめていた。
 スタイリストの指先が髪をすくたび、かすかに甘いヘアクリームの香りが鼻をかすめる。

 黒く重い髪に温かい液体が塗られ、しばらく時間を置かれる。
 流す水のぬるさ、ドライヤーの風の熱さ。
 細かな感触がやけに神経を逆なでする。

 ――そして、目を開けたとき。
 そこに映っていたのは、もう“黒髪の蓮”ではなかった。

 光を受けて柔らかく輝く、明るいブラウン。
 サイドは軽く流され、額がすっきりと見える前髪。
 ファンデーションで青白かった頬が整えられ、薄く塗られたリップがわずかな血色を与える。
 目元にはアイラインが引かれ、初めて見る艶を宿していた。

 白いシャツに淡いベージュのジャケット。
 胸元で小さなシルバーのブローチが、きらりと光を返す。

 鏡の中――そこには、優しい笑みを浮かべれば、すぐにでもファンの心を掴んでしまいそうな“王子様”のような青年がいた。

「……これが、俺……?」

 三島が背後から鏡をのぞき込み、満足げに頷いた。

「そうだ、大地。君はこうして“生まれ変わる”んだ」

 胸の奥がざわつく。
(本当に……これが俺なのか?)

 ――そして、“教育”が始まった。

 防音されたレッスン室。
 壁一面の鏡が白いライトを反射し、冷たく光を放っている。
 空調の低いうなりと、うっすら漂う汗の匂い。

 三島の前に立たされ、大地は緊張で肩を強ばらせたまま声を出す。

「アイドルの……宅麻大地です。応援、ありがとうございますっ……」

 喉が震え、声がかすれる。
 鏡に映る笑顔はぎこちなく、目元に浮かぶ緊張は隠しきれない。

「その声じゃダメだ。もっと張って。甘く、優しく。耳に残るような声で」

「……はい……」

 言葉を重ねるたびに、胸がざわついていく。
(俺は……間違ってるのか? でも、この人が言うなら……)

 三島の視線は鋭いまま、容赦なく言葉を投げる。

「いいか、大地。君は“夢”なんだ。ファンは君を見て、自分の明日を信じる。……だから、どんなときも、笑え」

 何度も、何度も繰り返される。
 舌が乾き、唇がひび割れそうになる。
 こめかみを汗が伝い、指先が冷たくなっていく。

 

 ◆ある日は、ダンスレッスン。

 音楽が鳴った瞬間、身体が自然にリズムを刻む。
 遠い記憶が残した癖のように、ステップが脚を導く。

「ほらな、やっぱり身体は覚えてる。君は間違いなく“大地”だ」

 その言葉に、ほんの少し胸が軽くなった。
(……俺は、ここにいていいのかもしれない……)

 

 ◆またある日は、演技レッスン。

 台本の一節を読み上げる。

「……大丈夫だよ。君は、ひとりじゃない」

 その瞬間、鏡の中の“大地”が、ほんのりと笑った気がした。
 胸の奥が、どくんと脈打つ。
(今の……俺?)

 ――沈黙。
 空調の音だけが聞こえる。
 三島は腕を組んだまま動かない。
 数秒が、永遠のように長く感じる。
 こめかみを伝った汗が、背筋へと冷たく落ちていく。

「……そうだ。それだ」

 三島の低い声が、空気を裂いた。

 満足げに口元だけがほころび、穏やかに言う。

「よくやったな、大地」

 

 ◆モノローグ
(……やっと、認められた? なのに……どうしてこんなに怖いんだ……)

 三島が肩を軽く叩いた。

「忘れるなよ。大地は、そうやって人に夢を与える。これからも、ずっとな」

 その声は、温かさを装っていながら――
 まるで鎖のように、彼の胸を締めつけていた。