撮影が終わった夜の楽屋。
 薄いアイボリーの壁が、夜の照明を受けて静かに光を返している。
 鏡台のライトがオレンジ色の輪郭を作り、その中で蓮は無駄のない動きでメイクを落としていた。
 ティッシュで頬を拭うたび、白いシャツの肩がわずかに揺れる。鏡の中には、完璧な「宅麻大地」の面影がまだ淡く残っていた。

 ――その背後で、控えめなノックの音が響いた。

「……今日は、私が送ります」

 優香の声は、どこかためらいがちで、それでいて決意を含んでいた。
 蓮の手がぴたりと止まり、鏡越しに彼女の姿をとらえる。無表情の瞳に、静かな波紋が広がった。

「送迎スタッフ、いるだろ?」

「それでも……私が行きたいんです」
 少しだけ言葉が震える。
「マネージャーとして、じゃなくて」

 一瞬。空気が張り詰めた。
 鏡台のライトが蓮の伏せたまつ毛に影を落とす。

「……だから何?」

 低く抑えた声が、心の距離を示すように返ってくる。

「自分で帰れる。俺、子どもじゃないから」

 優香は小さく息を呑みながらも、踏みとどまるように言葉を重ねた。

「……ひとりで帰らせるの、なんだか嫌なんです」
「今日もずっとひとりで頑張ってたから……せめて帰り道くらい、誰かがそばにいてもいいんじゃないかなって……」

 蓮の眉がわずかに動く。
 視線を逸らしながら、ぽつりと呟いた。

「……おせっかいだな」

 その言葉の端に、あの夜を思わせるような、微かなぬくもりが混じる。
 けれど、それを振り払うように彼は立ち上がり、バッグを肩にかけた。

「本当に、いらない。……放っておいてくれ」

 その瞬間――

「お、仲良くやってるみたいだな」

 軽い調子で楽屋のドアが開き、三島が顔をのぞかせた。
 黒いジャケットの肩を軽く払いながらも、目は鋭くふたりの空気を測っている。

「様子見に来たんだ。……なんか問題でもあった?」

「いえ、なにも」
 蓮が即答する。その声は一瞬で切り替わり、完璧な“宅麻大地”の微笑みが浮かんだ。

「優香さんが、いつもよくしてくれるので。助かってます」

「そっか、それは何より」
 三島は口元を緩めるが、目だけは笑っていなかった。

「……まあ、無理しない程度にな。じゃ、俺は先に出るよ」

 ドアが閉まると、楽屋に残されたのは、わずかな気まずさと沈黙だけだった。

 蓮はバッグの肩紐を握り、かすかに息を吐いた。

「……俺、本当に大丈夫だから」

 優香は返事をしなかった。
 ただ、その背中を見送るしかなかった。
 ドアの向こうに消えていく、少しだけ遠く感じた背中。

 ぽつりと声がこぼれる。

「……バカ。もっと話がしたかったのに」