控室のソファに、蓮は背を沈めていた。
 ステージライトの熱がまだ体に残っているのか、首筋には汗がじっとりと張りつき、ジャケットの襟がわずかに乱れている。
 遠くからスタッフの笑い声や機材を片づける物音が聞こえるが、この部屋の中だけは、まるで世界から切り離されたように静かだった。

 扉がノックされ、優香がそっと顔をのぞかせる。
「……お疲れさま。ホットレモン、持ってきたよ」
 小さな紙カップから立ちのぼる湯気が、ほのかに甘酸っぱい香りを漂わせる。
 優香の手は、遠慮がちに、けれど確かにその飲み物を差し出していた。

 だが、蓮は視線を合わせないまま、短く息を吐いた。
「……いらない。今は、何もほしくない」
 静かなのに、その声にはかすかな棘があった。

 優香の手が、ほんのわずか止まる。
 それでも彼女は、いつもの柔らかな笑みを崩さず、そっと言葉を紡ぐ。
「そんなこと言わないで。大地くん、最近少し疲れてるでしょう? 喉、渇いてないかなって思って……あったかいの、好きだったよね?」

 蓮はその言葉に、初めて目を向けた。
 だがその瞳は、どこか戸惑いと迷いの色をたたえていた。
「……俺のことなんて、わかるはずないだろ」

 かすれた低い声。怒鳴りはしない。だがその響きには、深い疲れと苛立ちがにじんでいた。
 言った直後、蓮はすぐに目をそらす。
(……言いすぎた。そんなつもりじゃ……)

 優香は、ほんの一瞬だけまばたきをしたが、微笑を保ったまま小さくうなずいた。
「……そうだね。私には全部はわからない。……でも、もし言いたいことがあるなら、聞くよ。私、マネージャーだし。……少しくらい、頼ってくれてもいいんですよ?」

 その優しさに、蓮の胸がひりつく。
(頼る……? そんな簡単にできるかよ。俺は“宅麻大地”なんだ。ここで気を抜いたら、何者でもなくなる……)

 だからこそ、言葉は出なかった。
 ただ握りしめた拳が、膝の上でわずかに震える。

 優香はそっとホットレモンの紙カップをテーブルに置くと、視線を合わせないままドアへ向かった。
 閉まる直前、蓮はその背中をじっと見つめていた。
(……あの目、俺の仮面の奥を覗こうとしてる。
 なのに、どうしてだよ……あんなふうに言われると――)

 喉の奥が熱くなるのを、必死に飲み込む。
 結局、何も言えないまま。
 ドアの向こうに消えていく優香の背中が、いつまでも頭から離れなかった。