玄関の扉を閉めた瞬間、外の雨音が途切れた。
 静寂が、重い湿気とともに部屋に沈む。耳の奥で、自分の呼吸だけがやけに大きく響いていた。

 三島はびしょ濡れのまま、ぐったりとした青年をソファへ横たえた。
 血と雨に濡れた黒髪が、白いクッションにじわりと色を移していく。

「……わかるか? ここがどこか」

 低く問いかけると、青年――黒瀬蓮のまぶたがゆっくりと震え、重たげに開く。
 焦点の合わない瞳が天井をさまよい、やがて三島の顔を探すように動いた。

「……ここ……? 俺……どうして……」

 声は途切れ、霧の中をさまようように弱い。
 三島は一瞬だけ息をのみ、そして冷静を装って口を開く。

「事故に遭ったんだ。……覚えてないか」

 蓮はしばらく考えるように目を細めたが、やがて小さく首を振った。

「……全部……ぼやけて……何も……」

 その言葉を聞いた瞬間、三島の胸に鋭いものが走る。
 安堵か、恐怖か、あるいはもっと黒い感情か――自分でも判別できなかった。

 テーブルの上で、スマホが光を放つ。
 画面には「璃子」の名前が何度も並んでいた。

 三島はそれを睨みつけ、口元にゆるい笑みを浮かべる。

(……あの女も、こいつを失ったら終わりだ)

 握りしめた拳がわずかに震えた。
 胸の奥で、ささやく声がする。

――今なら、すべてを塗り替えられる。

 事故のことを知る者はいない。
 黒瀬蓮は「失踪した」ことにしてしまえばいい。

 ふと、視界の端に積み上げられた古い資料が映る。
 事務所がかつて描いた、理想のアイドル像――“宅麻大地”。
 若き日の自分が情熱を注ぎ込み、夢と野望を詰め込んだ計画だ。

 三島はそれを引き寄せ、ページをゆっくりとめくった。
 そこに並ぶ言葉が、失いかけた未来を呼び戻す。

「……お前には、まだ価値がある。
 いや……お前じゃなきゃダメなんだ」

 その視線が、ソファでかすかに息をしている蓮に落ちる。

「今日から……お前は――宅麻大地だ」

 冷たい宣告のような声が部屋に沈む。
 蓮の唇がわずかに動きかけたが、そのまま力を失い、意識が闇の底へと沈んでいった。

 その夜、彼の本当の名前は――静かに封じられた。