夜の帰り道。
 優香が運転する車のフロントガラスを、街灯の淡い光が静かに照らしていた。
 雨上がりのアスファルトが黒く濡れ、ヘッドライトに照らされて鈍く光っている。

 助手席の大地――いや、蓮は、シートベルトを緩めたまま無言で窓の外を見つめていた。
 車内にはラジオも流れていない。
 タイヤが路面をこする音と、ウインカーのかすかなリズムだけが静かに響いている。

(……今日は、よくがんばってたな)

 ハンドルを握る優香は、ちらりと横目で彼の横顔を見た。
 ライトに照らされた明るいブラウンの髪。整った顔立ち。
 けれど、その瞳はステージで放っていた“光”とは違って、どこか遠くを見ていた。

「……大地さん、疲れてませんか?」

 思わず、優香の口から言葉がこぼれる。
 蓮は少しだけ顔を向け、すぐに微笑んだ。

「大丈夫ですよ。……これくらい、慣れてますから」

(また、その笑顔……)

 胸がきゅっと痛む。
 昼間、完璧な笑顔でファンの前に立っていた彼が、楽屋ではひとり黙り込んでいた。
 その落差が、心にずっと引っかかっていた。

 優香は一度、言葉を飲み込む。けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。

「……本当に、慣れてるんですか?」

 少しだけ震えを含んだ声。
 蓮は窓の外を見たまま、わずかな間を置いてから答えた。

「……慣れたふりをしてるだけ、かもしれませんね」

 その言葉に、優香の手がハンドルを握りしめる。
 夜の静寂に、ふたりの呼吸だけが重なった。

(……あ、言っちゃった。俺、何を……)

 蓮は、自分の口から漏れた言葉に戸惑っていた。
 こんなことを言うべきじゃない。
 “宅麻大地”は、弱音なんて吐かない。
 でも――

(どうして、この人の前だと……)

 胸の奥が、妙に熱い。
 視線を向けると、優香の横顔が真剣そのものだった。
 その目は、仮面の奥まで覗き込むようにまっすぐだった。

「……でも、笑っていると楽なんです」

 蓮はそう言って、また“王子様の笑顔”を浮かべた。
「笑っていれば、誰も不安にならないでしょう?」

(……また、隠した)

 優香はその笑顔を見て、言葉が喉に詰まった。
 でも――もう、気づいてしまった。
 その笑顔の裏側に、押し殺された何かがあることに。

「……そうですね」

 優香はわずかに笑い、前を見つめたまま続けた。
「でも、私は……さっきの言葉、嬉しかったです」

 蓮は目を瞬き、驚いたように彼女を見た。
 夜の街灯が、その瞳に淡く映る。
 けれど次の瞬間には、また前を向き、小さく息を吐いた。

(……俺は、何をやってるんだろうな)

(本当は……こんな仮面、全部投げ出したいのに)

 優香はハンドルを握る手に、そっと力を込めた。

(……この人を、ちゃんと支えたい。そう思うのは、私のわがままなのかな)

 車はゆっくりとカーブを曲がり、夜の街を抜けていく。

 仮面をかぶった青年と、
 その仮面の隙間に、そっと手を伸ばそうとする女性。
 夜風は、まだ硬く閉ざされた仮面の奥へ、静かに忍び込もうとしていた。