深夜。
 人影の消えた稽古場には、非常灯と舞台用のスポットライトがひとつだけ、淡く灯っていた。
 高い天井の鉄骨は闇に沈み、床に貼られた白いテープだけが、舞台上に残された時間を静かに示している。

 外では、細かな雨が屋根を叩き、絶え間ない音となって空間の奥底に淡く響いていた。

 舞台中央に、一人の青年が佇んでいた。
 “宅麻大地”ではない。仮面を外した黒瀬蓮だ。
 ライトの下、明るいブラウンの髪がわずかに湿り、白いTシャツの胸元には細かな汗が滲んでいる。

 蓮は稽古用の台本を片手に持ったまま、そっと腰を下ろした。
 長椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
 耳の奥には、稽古中に何度も繰り返したセリフの残響がまだこだましていた。

 ――君がいたから、僕はここに立てているんだ。

 唇が無意識にその言葉を形づくる。けれど声には何の感情も乗らず、空虚な響きだけが広い稽古場の空気に吸い込まれていく。

(……俺は、誰に向かって言っているんだ)

 ふと、そんな問いが胸の奥をかすめた。
 観客か、三島か、ファンか――
 それとも、傘を差し出してくれた、あの夜の優香なのか。

 蓮は台本を膝に置き、両手で顔を覆った。
 指の隙間から、熱いものが込み上げてくる。
 けれど、それを涙に変えることはできない。

(泣いたって、どうにもならない。泣いたって……俺は、誰にもならない)

 かすかに震える指先。
 脳裏に浮かぶのは、あの夜のぬくもり――

 傘の下で触れた肩。
 カフェのテーブル越しに感じたミルクティーのやわらかな甘さ。
 そして、仮面の奥まで見透かすような、まっすぐな優香の眼差し。

 胸が痛む。
 もし、あのまま彼女にすべてを吐き出していたら――。
 そんな“もしも”を想像しかけ、蓮はすぐに首を振った。

(ダメだ。あれ以上、踏み込まれたら……俺は壊れる)

 舞台の上では“宅麻大地”でいなければならない。
 それを失えば、“黒瀬蓮”という存在は、この世界にもう居場所を持てない。

 大きな窓に、雨粒がぽつり、ぽつりと落ちていく。
 街灯のぼやけた光が、濡れたガラスを鈍く照らしていた。

 やがて蓮は、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろす。
 深く息を吸い込み、鏡の前へと歩み出る。

 無理やり口角を引き上げる。
 そこに映るのは、どこまでも完璧な“宅麻大地”。
 だがその奥では、崩れ落ちそうな自分の影がじわりとにじんでいた。

(……がんばれ。もう少しだけ……がんばれ)

 かすれた心の声は、静まり返った稽古場の闇に溶けていく。
 ただ、屋根を叩く雨音だけが、夜を刻み続けていた。