数日後。
 撮影スタジオの照明は、昼間のようにまぶしかった。
 カメラのシャッター音、スタッフの掛け声、モニターに映る映像のチェック――現場は活気に満ちている。

 その喧噪の中心で、宅麻大地は完璧な笑顔を浮かべていた。
 衣装のジャケットの袖をきっちり整え、台本を持つ指先には余裕さえ漂う。スタッフへの軽い会釈も抜かりがなく、どこから見ても“理想のアイドル”そのものだった。

 けれど、その背中を見つめる優香の胸には、言葉にならない違和感が残っていた。
(……あの夜のことなんて、なかったみたい)

 大地――いや、蓮は、現場では誰よりもプロフェッショナルだった。
 スタッフへの気遣いも完璧で、優香に対しても最低限の業務連絡しかしない。視線は合わず、会話は淡々と事務的。
 まるで、心の扉をもう一度、固く閉ざしてしまったかのように。

 優香は、傘を差し出した夜のことを思い返していた。
 濡れた肩、かすかに震える声。
 そして、あのカフェで見せた、一瞬だけ素顔に近い彼の表情――

(……距離、近づきすぎたのかな)

 胸の奥がじくりと痛む。
 傘に触れたあの指先の温度を、彼はもう忘れてしまったのだろうか。

 一方で――
 蓮の心の奥にも、あの夜の記憶はふっとよぎっていた。
 傘越しに見た優香の顔。カフェに漂う湯気と、まっすぐに自分を見つめる瞳。

(……あれ以上、踏み込まれたら――俺は、壊れる)
(優香の目は……怖い。仮面の奥まで覗き込んでくる)

 ライトが一段と強く瞬いた。
 舞台袖からスタッフが新しい台本を差し出す。蓮はそれを受け取り、にこりと微笑んだ。

 その笑顔には、少しの揺らぎもない。
 磨き上げられた“宅麻大地”の仮面が、完璧にそこにあった。

(……やっぱり、気のせいだったのかな)

 優香の胸に、ひやりとした冷たさが広がる。
(あの夜の“素顔の彼”は、きっと幻だったんだ)

 声をかけようとして、言葉が喉の奥で止まる。
 視線を合わせようとしたとき、彼はすっと横を向いてしまう。

(たぶん……嫌われたんだ、私)

 そう思いながらも、ふとした瞬間――
 彼の横顔や、ふいにこぼれる声の奥に、あの夜のかすかな温度が混じっているような気がする。

(……私は、あの時の“あなた”を、見てしまったんだよ)

 照明の光がスタジオの床に長い影を落とす。
 優香は小さく息を吐き、台本を胸に抱え直した。

 静かな距離のまま――それでも心は、確かに彼のほうを見続けていた。