夜の撮影が終わり、スタジオ裏口の小さな明かりがアスファルトをぼんやりと照らしていた。
 優香は、自分の車を少し離れた場所に停めて待っていた。フロントガラスを打つ雨粒が、街灯に照らされて白く光っている。

 裏口のドアが開き、スタッフが数人出てくる。続いて姿を現したのは、大地――いや、蓮だった。
 フード付きのジャケットを羽織り、濡れた夜気の中に立つ彼は、ライトに照らされて輪郭だけが淡く浮かんでいた。

「大地さん、お疲れさまでした。車、すぐ用意しますから!」
 スタッフが声をかけると、蓮は短く答えた。
「……いいよ。今日は歩いて帰る。」

「えっ? でも、雨が――」
 言いかけたスタッフを背に、彼はもう歩き出していた。
 フードを深くかぶり、傘もささず、ゆっくりと暗い通りへ向かう。
 その背中がどこか、誰も寄せつけない寂しさをまとっていた。

 車の中からその様子を見ていた優香は、思わず息をのむ。
(どうして……? 送迎を断ってまで歩いて帰るの?)

 気がつけば、運転席のドアを開けていた。
 夜風が顔にあたり、雨粒が頬を打つ。優香は車内に置いてあった傘をつかむと、小走りで彼を追いかけた。


 外は予想以上に強い雨だった。街灯の下、蓮の足音が濡れたアスファルトに小さく響く。
 その前に、一本の傘が差し出された。

「……っ、びっくりした。」
 振り返った蓮の目に、息を切らした優香が映った。濡れた髪が頬に貼りつき、肩で息をしている。

「濡れてたから……その、よかったら……」
 優香が傘を差し出すと、蓮はしばらく黙って彼女を見ていた。

「……おせっかいだな。」
 その声は拒絶ではなく、どこか呆れたような、しかし温度を含んでいた。

「うん、よく言われます。」
 優香は小さく笑う。雨粒が頬を伝うが、気にしないように。

「……風邪ひかれると困るんです。マネージャーとして。」
 蓮はフードを外し、無言で傘の下に入った。

「……別に、入れてくれって頼んだわけじゃない。」
「知ってます。」

 短いやりとりの中に、冷たい雨とは違うぬくもりがあった。
 蓮はふと、隣を歩く優香の横顔をちらりと見た。濡れたまつげの下の瞳はまっすぐで、そこに嘘はない。

「……どうして、ひとりで帰ろうとしたんですか?」
 優香の問いに、蓮は前を向いたまま少し歩を緩める。

「……人に送られるの、好きじゃないんだよ。」
「そうですか……」

 優香は傘を握る手に力をこめ、意を決したように言った。

「じゃあ……これからも、私が送り迎えしていいですか?」
 蓮は思わず彼女を見た。

「は?」
「嫌じゃなければ、ですけど……」

 気まずそうに笑う優香に、蓮は鼻で笑う。
「……お前って、ほんと変なやつ。」
「よく言われます。」

 優香はまた、小さく笑った。


 少し歩いた先、通りの片隅に小さなカフェの看板があった。窓越しにオレンジ色の明かりがもれている。
 ふと立ち止まった優香が、静かに言った。

「ここ、あったかいミルクティーがおいしいんです。」

 蓮は黙ってその看板を見てから、照れ隠しのように言った。
「……寒いし、入るか。」


 カフェの中は静かで、木目のテーブルと低いランプが落ち着いた空気を作っていた。
 二人は窓際の席に座り、優香が店員に声をかける。

「ミルクティーでいいですか?」
「……ああ。」

 湯気の立つカップが運ばれてくると、蓮は無言でそれを手に取った。

「……これ、あったかいな。」
 そのつぶやきは、まるで自分に言い聞かせるようだった。

 優香はそっと彼を見た。少し濡れた髪の先から、まだ水滴が落ちている。
 やがて、蓮がカップを置き、席を立とうとしたとき――

 優香の口から、思わず本音がこぼれた。

「……さっきまで、まるで別人みたいだったのに。」

 蓮の動きが止まる。

「……何が?」
 振り返らずに問い返す声は、さっきまでの自然な口調ではなく、作られた声色だった。

「オレは、いつだって変わってませんよ。」

 振り向いた顔には、また完璧な笑顔が貼りついている。
 優香はその不自然な切り替えを感じ取り、ふっと笑った。

「……そっか。」

 そして、少しだけ視線を落とし、静かに続ける。

「でも、今さら遅いよ。……さっきの“あなた”のほうが、ずっと本物だった。」

 蓮は何も言わず、そのまま立ち上がった。
 背中が夜の明かりに溶けていく。

 優香はカップを両手で包み込みながら、その残像を見つめていた。