夕方の稽古場には、仮設のライトがまぶしいほどに白い光を放っていた。
 床を這うケーブルの間をスタッフが忙しなく行き交い、音響テストの電子音が短く響く。
 張り詰めた空気の中、舞台中央に立つのは宅麻大地。

 白いシャツの袖口には汗が滲み、握りしめた台本がかすかに音を立てる。
 浅い呼吸。硬くこわばる肩。
 それでも、彼は舞台の“中心”にいるという重圧から逃げなかった。

「じゃあ次、三幕のセリフ合わせいこうか」

 監督の指示に、大地は無言で所定の位置へと足を運ぶ。
 目を閉じ、唇を噛み、ひと呼吸。

「……君がいたから、僕はここに立てているんだ」

 優しい声が空気に溶けた刹那――

「――違う」

 稽古場を切り裂いたのは、氷のような声。

 袖の影にいた優香が、息を呑む。

 黒のスーツをまとった三島が、舞台脇から一歩、静かに踏み出していた。
 その表情は、無表情よりも冷たい。まるで“人”を見ていないような視線だった。

「……命が宿っていない。芝居とは魂を燃やすことだ。それができないなら、機械にでも演じさせた方がマシだ」

 稽古場全体が凍りつく。
 スタッフが目をそらし、誰も息を潜める。
 大地は視線を落とし、「……はい」とかすかに呟いた。

 再びセリフを口にするが、三島の眉間はわずかに動いた。

「今の“間”は何だ。感情に甘えて惰性で言葉を紡ぐな。台詞には芸術を宿せ」

 その声は、怒鳴りでも罵倒でもない。
 ただひたすらに冷たく、淡々と――容赦がなかった。

 優香の指先が、台本を握る手の中で震える。
(……違う。今のは、ちゃんと伝えようとしてた。彼は……本気だったのに……)

 もう一度、大地がセリフを繰り返す。

「……君が、いてくれたから……僕は、ここに……」

 その声は掠れていた。
 喉が乾き、感情が滲み、それでも彼は立ち止まらなかった。

「――次だ。完璧になるまで繰り返せ」

 三島の声が、地面を這うように響く。

 優香の胸が、痛みと怒りと焦燥でごちゃまぜになる。
 舞台の上で、彼は“完璧”を求められ、壊れる寸前まで追い込まれている。

(……そんなの……)

 心臓が跳ねた。気づけば足が半歩、前に出ていた。
 止めなきゃ。そう思ったとき――

 ふいに、大地がこちらを見た。

 袖の影にいる自分を――ほんの一瞬、目だけで見つめてきた。
 その口元に、かすかに笑みが浮かんだ。

 震えていた。
 強がるように、誰にも気づかれないように、それでも――

 助けを求めていた。

 優香の胸が、音を立てて締めつけられる。
 この人は、壊れかけてる。

 なのに、まだ笑っている。
 それはもう“仮面”ではなかった。
 “自分で自分を守る最後の手段”――そんな風に見えた。

(お願い、誰か……)

(誰かじゃない……私が……)

 彼の笑顔を、守りたいと思った。