夜の街を走る車のフロントガラスを、街灯の光がすり抜けるように流れていく。

 ハンドルを握る優香は、アクセルを踏みながらも、さっきの現場の光景が頭から離れなかった。
 助手席は空っぽだ。けれど、そこに残る宅麻大地の笑顔の残像が、まだ車内の空気を揺らしているように感じた。

 あの笑顔。
 鏡の前で崩れ落ちた、あの無表情。
 瞬間ごとに蘇るその顔に、思わずハンドルを強く握る。

 ウインカーを出して細い通りに入ると、街の喧騒が少し遠ざかった。
 窓の隙間から流れ込む夜風が、髪をそっと揺らす。

(……どうして、あんなに笑っていられるんだろう)

 けれどすぐに、自分の中で声が訂正する。

(……違う。笑いたくて笑ってるんじゃない。あの人は――“笑おうとしてる”んだ)

 その気づきに、優香は小さく息を呑んだ。
 笑っていたいからじゃない。笑わなければならないから、あの人は笑っている。
 その確信が、胸の奥をひやりと締めつける。

 信号待ちでブレーキを踏むと、街灯の明かりがフロントガラスを横切り、光の筋が視界をかすめていった。

 ――ふと、自分自身のことが浮かぶ。

 小さい頃から、よく言われてきた。

 「優香はいい子だね」
 「手がかからなくて助かるわ」
 「優しい子に育ったね」

 ほめられるたびに、嬉しかった。
 その言葉が、自分が“ここにいていい”理由だと思えた。

 でもその裏には――
 母の顔色をうかがって我慢した私や、友達に合わせて自分の意見を飲み込んだ私が、いつも隠れていた。

 誰かの期待に応えることでしか、自分の価値を測れなかった。
 「ありがとう」と言われることが、唯一、自分を確かめられる瞬間だった。

 だからいつしか、“いい子”でいるのが当たり前になっていた。
 迷惑をかけず、嫌われず、誰かの役に立てば、それでいいと。

(……でも、本当にそれでよかったのかな)

 今日、大地と過ごした時間。
 ステージで笑っていた顔と、控室で無言だった姿――
 鏡の前で、感情のすべてを閉ざした彼。

 その姿が、どこか“昔の自分”と重なって見えた。

(……私たちは、似てるのかもしれない)

 それはただの共感じゃなかった。
 痛みが、静かに重なり合っていた。

 けれど、その痛みの中に芽生えたのは、恐れや悲しみではなかった。

(私はこのまま、“いい子”でいるだけで、本当に誰かを守れるの?)

 信号が青に変わる。
 優香は深く息を吸い、アクセルを踏み込んだ。

 窓の外の街灯が、またひとつ、ふたつと流れていく。
 答えはまだ出ない。けれど――

 彼の笑顔の裏にある“孤独”に気づいてしまった今、
 もう、自分は見ないふりはできなかった。

(……本当の“あなた”を知りたい)

 それは優しさでも憐れみでもない、
 ただ静かに、でも確かな、心の衝動だった。