舞台稽古が始まって二時間。
 照明の熱と緊張の空気が、稽古場全体を包み込んでいた。
 高い天井から白いライトが容赦なく降り注ぎ、黒い床にはいくつもの影が揺れている。

 鏡には、ジャケットを脱ぎ、袖をまくった宅麻大地の姿。
 淡いブラウンの髪は汗で額に張りつき、滴が耳元から顎へと流れていた。

 舞台袖の隅から岡崎優香は、その姿を見つめていた。
 本来はスケジュール管理のために立ち会っているはずなのに、いつの間にか視線を外せなくなっていた。

(……大地くん、大丈夫……?)

「――もう一度だ、大地!」
 三島の鋭い声が響いた。手にした台本をリズムよく叩きながら、その瞳は一切の妥協を許さない。

「君は“ありがとう”と言った。でも目が笑っていない。それではファンは不安になる。……もう一度だ。俺をファンだと思え。一番大切な人に向ける目で言え」

「……はい……」

 大地は息を吐き、鏡の中の自分を睨むように見つめた。
 口元を引き上げ、作り笑いを貼りつける。

(……俺に、そんな目、できるのかよ)

 乾いた唇を舌でなぞり、台本を握り直す。

「はじめまして。宅麻大地です。……応援、ありがとうございます」

 声は柔らかさを意識していた。
 だが三島は即座に首を振る。

「違う。まだ棒読みだ。感情がない」

「……っ、すみません」

 喉が張りつき、胸の奥に苛立ちがじわじわと燻る。

(何が足りないんだよ……どこまで、やれば……)

 優香は舞台袖で拳を握りしめた。
 声をかけたいのに、その場の空気がそれを許さない。
 ただ、彼の汗を祈るような気持ちで見つめるしかなかった。

「次はこのセリフだ。“君のおかげで僕はここに立てている”。感謝を込めて、一人だけに語りかけるように――」

「……っ、いい加減にしてくれよ……!」

 思わず、大地の口から漏れた。

 稽古場の空気が、一瞬で凍りつく。
 優香は息をのんだ。

 三島の目が細まり、冷たい光を宿す。
 だが怒鳴りつけるのではなく、彼はゆっくりと歩み寄り、大地の肩に手を置いた。

「……いいか、大地」
 声は低く穏やか。けれど、その響きは冷たい鉄のようだった。

「君が辛いのはわかっている。だが、ここを越えなければ“本物”にはなれない。俺がそこまで連れていく。だから、信じろ。ついてこい」

 その優しさの奥には、逃げ場のない圧力が潜んでいた。

(……“本物”、か……俺は、誰のために何者になろうとしてるんだ……?)

 大地は視線を落とし、かすかに頷いた。

「……わかりました。もう一度……やります」

 鏡に向き直り、深呼吸。
 口角を引き上げ、瞳に光を宿すように――。

 ――仮面をかぶる音が、胸の奥でまた鳴った。

「ありがとう。君のおかげで、僕は頑張れる」

 その声は、さっきよりほんのわずかに温度を帯びていた。
 三島は満足げに頷き、口元にうっすらと笑みを浮かべる。

 稽古場の隅では共演者たちが囁き合っていた。

「また怒られてる……あんなに細かく指導されるの、ちょっと異常じゃない?」
「三島さんって厳しいって有名だよね」
「でも、大地くん……本当に大丈夫なのかな……」

 その声は小さくとも、優香の胸に突き刺さる。
 彼の笑顔が、どこか脆く見えたのは、きっと気のせいじゃない。

(……あんなに無理してるのに、誰も気づいてない……)

 目の奥が熱を帯びた。

 彼が見せた一瞬の素顔――あの笑顔を思い出す。
 今、鏡に映っているのは、まるで別人のように“完璧”な顔だった。

(……本当の彼を、守れるのは……誰なんだろう)

 優香は胸元の台本を抱きしめ、心の中で小さく呟いた。

(……もし私が、その支えになれるなら)

 そう思った気持ちが、自分でも少し怖かった。