稽古の合間、控室は一時的に静まり返っていた。
 照明は落とされ、窓から差し込む午後の光がテーブルを斜めに照らす。白い壁にかけられた時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。

 岡崎優香はソファの端に座り、手元の資料に視線を落とす。けれど、その目は何度も向かい側へ逸れていた。

 明るいブラウンの髪に、清潔感のあるシャツとジャケット――宅麻大地は台本を手にしていたが、その瞳はページを通り越して、どこか遠くを見ている。
 完璧な笑顔を身につけた彼が、今は無表情で、沈黙をまとっていた。

(……笑ってないときは、こんな顔をするんだ)

 優香の胸に、わずかな痛みが走る。
 その横顔には、寂しさがにじんでいた。

「……あの、大地さんって……こういう場所、得意ですか?」

 彼女の声は控えめだったが、静けさを揺らすには十分だった。
 大地はわずかにまばたきし、ゆっくりと顔を上げる。そして、考えるように視線を伏せたまま、低く答えた。

「……騒がしいのは、ちょっと苦手です」

 その声には、舞台での柔らかい抑揚ではなく、わずかな素直さがあった。

「でも……笑ってると楽なんですよね。相手が安心するから」

 ふっと口元が緩む。
 それはテレビで見せるような“完璧な笑顔”ではなかった。照れたような、少し苦笑に近い微笑みだった。

(……わかる)

 優香は、自分の奥底にしまっていた思いと重なるものを感じていた。
 誰かに嫌われないように、がっかりされないように。
 “いい子”を演じ続けていた頃の自分と、重なって見えた。

「……私も、そういうの……少し、あります」

 大地は少し目を見開き、それから穏やかに目を細めた。

「岡崎さんって、不思議な人ですね」

「えっ……?」

「声が、落ち着きます。なんだか……安心する」

 優香は驚きに、思わず目を逸らした。

「……そんなこと……誰にも言われたことないです」

 言葉を返しながらも、大地の胸に小さな波紋が広がっていた。
 “宅麻大地”という仮面は、もう身体の一部のように染みついているはずだった。
 それでも――彼女のまなざしが、心の奥に触れていた。

(……俺の笑顔が、本当に誰かを安心させてるのかな)

 そのとき、ガラス越しに視線を感じ、背筋が冷たくなった。
 廊下側の小窓に、三島の姿があった。腕を組み、こちらをじっと見ている。
 表情は穏やかだが、瞳の奥には冷たい光が宿っていた。

(……見られてる。やっぱり、いつもこうだ)

 大地は瞬時に視線を落とし、“宅麻大地”の笑顔を取り戻した。

 その様子を見届け、三島は口元だけでわずかに笑う。
 ――だが、その笑みに温度はなかった。

(やはり、岡崎優香は予想以上だ)

 彼は内心で観察を続けていた。
 蓮――いや、“大地”の態度がわずかに揺らぐ。
 表情の綻び、言葉の柔らかさ。そのすべてが彼女によるものだった。

(蓮、お前はまだ脆い。だからこそ、彼女が必要なんだ。仮面を保つための、安全装置として……)

 だが同時に、胸の奥に薄い苛立ちが芽生える。
 効きすぎている――感情が芽吹けば、制御は崩れる。

(……壊れるなよ、“宅麻大地”)

 やがて控室の扉が開き、スタッフの足音が近づく。
 現実が戻ってくる気配の中、優香の胸には小さな灯がともっていた。

(この人の笑顔の奥にあるものを……知りたい)

 それはもう“仕事”の枠を越えていた。
 心を求める、自分自身の声だった。