伝えたいと思う。
最も近くで、私を大切にしてくれた人たちにも。
私の決意を。私の新しい夢を。そして…。
コン、コン、コン。
特別訓練より数日経った。風が冷たい週末。
先日降った雪は溶けてしまったが、本格的に冬を迎えつつある。
週末は休みであるアンジュ・ブルナーは、借家に篭っていた。諸々溜めていた家事を終わらせた彼女は、今日1番の用事を済まそうとダイニングチェアに腰を下ろす。ドライフルーツを手に持ち、ダイニングテーブルを3回ノックした。
すると、彼女の目の前の空間がぐにゃりと歪む。
「ケヒ」
現れたのは、アンジュの2番目の兄セオドアの契約精霊・アフだ。
呼びたい精霊の好物を持ち、扉をノックするようにどこかを叩く。これはブルナー家族のみが出来る、ポエテランジュたちの呼び出し方だ。都合が悪くない限り、彼らは姿を現してくれる。
小さな彼が片腕を挙げれば、アンジュも手のひらで優しく触れ合う。
彼とのいつもの挨拶だ。
アフにドライフルーツを渡せば、目を輝かせて彼は早速食べ始める。もぐもぐもぐ。むぐむぐむぐ。少し大きな実を齧り、頬をいっぱいに膨らますアフ。その小さな額を撫でながら、アンジュは呼び出した要件を小さな妖精に伝えた。
「テオ兄さんに伝言お願いしていい?どこか1日会いたいって」
直接セオドアに伝えれば良いが、彼はアンジュと異なる局に所属しているため会いにくいのだ。早く連絡を取りたい場合、面倒をかけてしまうが相棒であるアフに頼んだ方が都合が良いのである。
頬を膨らませながらアフは親指を上げる。ドライフルーツを食べ終わると、小さな協力者はアンジュから受け取った紙を持って再び空間に姿を消した。アフに渡した紙には、アンジュの休みの日と"アパートに遊びに行ってもいい?"とメッセージが書かれている。
それほど時間が掛からないうちに、アフはアンジュの元に再び現れた。
彼は紙を広げる。来週末の日付に丸が付けられ、セオドアからのメッセージが書き足されていた。
来週末楽しみにしてる。
あと今日はしばらくアフの相手をしてやってくれ。
ただし食べさせ過ぎないように。
-セオドア
アフも戻る気はないらしく、アンジュの肩に乗ると気持ちようさそうに大きな欠伸をした。
「今日は仕事?」
アンジュの問いに、アフは首を振る。胸の位置で拳を縦に重ね、左右に動かす。どうやら次兄は今日1日掃除に励む予定なのだとアンジュは理解した。
「邪魔しちゃったな。アフも来てくれてありがとう。兄さんの掃除終わるまでゆっくりしようか」
指で喉元を撫でてやれば、肩に乗るアフは機嫌良く鳴いた。
アンジュたちはおもちゃで遊び、お昼ご飯を食べ、昼寝をする。
外は冷たい風が吹こうと、暖房が効いた部屋には関係のないこと。気持ち良い陽光が入るアンジュの部屋で、すやすやと眠る。
あまりの心地良さに夕方近くまで寝てしまった1人と1匹は、洗濯物を取り込んでから遅いおやつを食べる。冬の果物。少し乾いた喉は瑞々しい果汁で潤っていく。
雑談を交わしていると、借家の玄関のベルが鳴る。途端、アフが眉間に皺を寄せた。アンジュの肩に素早く飛び乗り、頬を膨らませた。精霊は人よりも気配に敏感だ。来訪者は彼にとって、微妙な相手なようだ。扉の向こう側は、アンジュもよく知る者の気配だ。
であるならば。
アンジュは顔を輝かせた。早速玄関扉を開ければ、予想通りの人物が立っていた。
「アルフレード!いらっしゃい」
「こんばんは。アンジュ…にアフも」
アンジュの婚約者であり、人生の推しであるアルフレード・ランゲがいた。彼女の笑顔に、アルフレードは顔を綻ばせる。先日ようやく想いが通じ合ってから、アルフレードは頻繁に借家に通うようになった。来客の予定はなくとも、最近とにかく時間があればアンジュに会いに来るのだ。普段女性禁制の男子寮で暮らしているため婚約者が彼の部屋に行けない理由もあるが、半年まともに会えなかった反動が、彼の行動に現れている。
「この間ぶりだな、アフ」
挨拶をするアルフレードに、アフはブルブルと唇を振るわせた。
ポエテランジュの子供といえど、200歳近いアフ。成人を迎え、母の力を得ていようと、アンジュはまだまだ子供で、か弱い妹分だ。そんな彼にとって、アルフレードは”いたいけな妹を誑かした男”として認知していた。
妹に変なことしたら容赦しないぞ!
折角遊んでたのに邪魔しやがって!
そんな意味を含む不服行動である。彼の意図を汲み、アルフレードもアンジュも苦笑いを浮かべる。
まったく。アフの態度は契約者同様、妹の婚約者には酷くそっけない。実に相性の良いコンビだと断言できる。顔を合わせる度に威嚇されるのだから、アルフレードからしたらさぞ面倒な存在だと考えるが…。悪態をつきながらもきちんと構ってくれるアフたちが、アルフレードは大好きなのであった。肝が座っていると言うべきか、はたまた単純、いや鈍感というべきかは、人に委ねたいと思う。
1人と1匹のおやつ時間に加わったアルフレード。
果物をつまみながら、アンジュからセオドアと来週末会う予定だと聞いた彼は、興味ありげに頷いた。
「アルフレードも会う?」
「できれば会いたいけど…兄妹水入らずだろ?」
「兄さんも都合わからないからね。今回逃したら次いつ会えるか分からないし…私は構わないよ?」
「セオドアさんも良いなら、是非」
「そうだね。アフ、兄さんに伝えてくれる?」
唇を曲げたアフだったが、しぶしぶ了承したようで契約者の元に帰っていった。すぐにアンジュたちの元に姿を現すと、両腕で丸を作る。
「アル、兄さん良いって!伝言ありがとうアフ」
お礼にふんだんに撫でられたアフは、自慢げに胸を張った。
「なんで来るんだよ」
「兄さんがいいって言ったんじゃん。そんな意地悪言わないの」
アンジュの隣に立つアルフレードを見るなり、セオドアは顔を顰める。相変わらず婚約者には当たりが強いのだからとアンジュは兄を叱った。
予定があると一週間はたちまち過ぎていく。
セオドアと会う週末は、風はひどく冷たいが雲一つなく晴れ渡っていた。
お土産の入った紙袋を下げて、彼が暮らすアパートにやって来たアンジュとアルフレードはやって来た。
築50年。白い外壁と真っ赤な屋根が可愛らしい6階建て。最上階は大家、各階2つの居住部屋がある。1階と3階、4階には1人ずつ、2階と5階に2人ずつ暮らしている。セオドアは5階に暮らしている。
大家とセオドア以外は、全員50を過ぎた愉快な年配者たちが住んでいる。愉快というのは嘘ではない。例えばセオドアの隣人。陽気で笑顔が可愛らしいおばあちゃんで、お菓子を誰にでも与える癖がある。先程もアンジュとアルフレードは沢山のお菓子をコートのポケットに詰め込まれたばかりだ。
「言っておいて『やっぱり…』とかあるだろ?常習犯だろ」
「ありがたいことに最近時間ができまして。それに私だけとは会ってくれないじゃないですか」
「会って何話すんだよ俺とお前さんでよ」
「もう!意地悪言うと帰るよ、本当に」
「わかった、わかった!入れ!」
ぐだぐだと言い募るセオドアであったが、可愛い妹には勝てない。
セオドアは2人を部屋に通した。
アパートの部屋の間取りはキッチンに、リビングダイニングが纏められたメインルーム、ベット一つ置くには十分な広さのサイドルームが一部屋ずつある。そして洗面・浴室、トイレや防寒装置が完備。サイドルームを来客用の部屋として整えているため、メインルームに彼の寝具や勉強机も置いている。2メートル近い男が2人もいれば狭く感じるが、普段1人と1匹で暮らすには十分な広さである。
セオドアの生活拠点となっているメインルームは、必要な物があるべき場所に置かれ、隅々まで掃除が行き届いている。すこし雑多としているのは机の上ぐらい。セオドアが読んでいるのか小説や辞典が数冊積み上がっていた。
窓辺には植物が置かれ、生き生きと育っている。
キッチン周りの収納は鍵や檻など厳重な保管体制が施されており、食い意地の張ったアフとの攻防が伺える。
もちろんアフ専用のスペースもあり、穴の空いた木のオーナメントには、たくさんのおもちゃやお菓子で飾られていた。
窓際に置かれた丸テーブルには3つの椅子に、4つのカップ、沢山の茶菓子や軽食が用意されている。アルフレードの好物も中にはあった。
カップや椅子もきちんと人数分準備しているのだから、口の悪さと素直でない物言いを直せばいいのにとアンジュは改めて思う。
セオドアの相棒はひと足先にお菓子を食べ、頬を膨らませて口の周りを汚していた。アンジュたちを見ると、片手を上げるいつもの挨拶をする。と、きらりと真っ赤な瞳が輝いた。
「ケケ!キー!キー!」
彼はアンジュの元に飛び移ると、求めるように紙袋を指で差す。頬をすり寄せねだるアフに、アンジュは目を細めた。
「流石だね。けどもうテオ兄さんが沢山用意してくれたんだから、食べ過ぎないでよ?」
アンジュは紙袋から手製のお菓子が詰められた紙箱を取り出した。
キャラメルと胡桃を混ぜ合わせたものをクッキーで挟んだお菓子ー本来はパイで作るが、すぐ食べれるようにクッキーで代用したーや、いちごジャムが乗ったクッキーにニンジンとナッツのパウンドケーキ、メレンゲが詰められている。もちろんアンジュの手製である。
「アンジュのお菓子か!久しぶりだな」
「いい香りがしてると思ったら…おいしそうだ」
現れたたくさんのお菓子にアフだけでなく、アルフレードとセオドアも顔をほころばせた。
ブルナー家族の料理の腕前は高い。他の公爵らに『示しがつかない』と注意されたため屋敷は見栄えの良い立派な物を建てたが、働く使用人は少なく、基本的に自分たちの力で生活している。祖父たちにしっかり家事の手解きを受けてきたブルナー5人兄妹。特に独り立ちを強く意識していたアンジュは、5人の中でも幅広い料理を振る舞える。家族が『美味しい』と喜んで食べてくれたのが嬉しく、試行錯誤した結果、味も絶品だ。
「婆さんたちに分けてあげよう。絶対気にいる」
「うん」
このままではアフが全て食い尽くす危険があるため、住人達に分けることにした。早速お菓子を小分けにする。セオドアが作ったお菓子も、アルフレードが手土産に持ってきたドライフルーツもまとめていく。
案の定、食べる量が減ると駄々を捏ねるアフと攻防を繰り広げながら、住人分用意したアンジュたちはアパートの部屋を巡る。ちなみにこのアパートの住人はアンジュに嫌悪感ない。むしろセオドアも含めたブルナー兄妹を、自分の孫のように可愛がっている。人目を気にしてアパートに滅多に顔を出さないアンジュが尋ねると、どこからともなく彼女たちは集まり、構い倒すのだ。
『もっと遊びにきなさいヨォ』
『噂?知らないわよ。耳も遠いから他が何言ってるかわかんないからね!』
『ボケもきてるからねぇ!』
反応がしづらい理由を述べながら、アンジュの柔らかな髪や頬を撫でる、撫でる。可愛らしい笑顔が絶えない住人たちなのだ。
お菓子は住民たちは喜んで受け取ってくれた。
全員分配り終え、3人と1匹はテーブルに落ち着いた。ようやくお茶会の始まりである。
「アンジュはミルクティーか?アルフレードは?」
「うん、お願い」
「同じものをください」
「ムケケ」
「はいはいフルーツティーな。はちみつは今回入れないぞ」
「ムギュー!」
「アフ、流石に甘いもの取りすぎだよ。他にもいっぱいあるんだから」
わいわい。
今の彼女たちの様子に効果音をつけるならば、それが1番似合う。
積もり積もった兄妹の話や、同じ区内に勤めているセオドアとアルフレードの中央の話、アフの最近のお気に入り…話すことは目の前に積まれたお菓子並みに山盛りだ。
「耐寒の日はどうするんだ?帰るのか?」
話題は3週間後の"耐寒の日"へと移った。
大陸に夏を知らせる南の聖霊鳥が深い眠りに付き、北に住まう精霊獣が踊り舞う。その風に乗り、冬の到来を知らせる精霊たちが世界を巡り、大地は寒々しい季節を迎える。それが本番を迎え、1年で最も昼が最も短く、気温が下がるのが"耐寒の日"。
この日は大陸中で珍しい光景が起こりやすい。
ファラデウスで言えば、標高の高い北の山々で流れる川や滝は氷の道となり、東の”死の砂”では氷の花が咲く。
大陸で唯一、国中に列車が走るこの国では、鉄道旅も楽しみに訪れる観光客が多く訪れ、賑わうのだ。
ブルナー領では湖や草木も一斉に凍る。あまりの速さに氷は音を立てて散り舞う。それが夜を照らす光や家家の明かりをを反射し、空気中をキラキラと漂うのだ。
ブルナー家では毎年この自然現象を見るのを家族行事にしている。ブルナー5人兄妹が成人を迎え働くようになってからは毎年全員集まりにくくなっているが、温かな食事を摂り、地元の美しい景色を見て、暖かな部屋で家族と話しながら夜を越すのがセオドアもアンジュも大好きな日である。
「うん。アルフレードも一緒に帰る予定だよ」
アンジュの言葉にアルフレードは頷いた。それはもう、しっかり頷く。毎回のように仕事で予定を狂わされがちなアルフレードだが、今回は予定を変えずに済みそうなのだ。休暇申請後、班長から呼び出されたアルフレード。また緊急で案件が入ったのかと身構えたが、全く逆であった。
『今回はぜっったいに大丈夫だ。楽しんで来い。俺らも久々にゆっくりさせてもらうよ』
エゼリオがなぜ断言したのかわからないが、最近は仕事も少なくー指導していた後輩の半分がいなくなったためーなり落ち着いている。
「確実に行けます」
断言するアルフレードに、セオドアは「だろうな」と確信を持った返答をした。
「覚悟しとけ。ローランド公から兄さんたちに特別訓練の謝罪をしたとよ。2人から話があるからな」
その言葉に、アンジュとアルフレードは固まった。
アンジュとセオドアの、兄と姉。アンジュの8歳年上で、現ブルナー家当主かつ召喚公である長男のライオネル。そして彼の1つ下、長女セレスト。弟妹たちを深く愛する彼ら。特に父親が亡くなってからは、過保護さが高まった。そんな2人に、アルフレードと婚約者であるアンジュに嫉妬して行われた特別訓練の話が入ったらどうなるか…。アンジュが顔を真っ青に染め、アルフレードは小刻みに震えている様子で察していただきたい。
「大丈夫だよ。アルフレードは悪くないもの」
隣で震える婚約者にアンジュは優しく手を握った。悪いのは特別訓練を考え、かつ実行した者たちだ。アルフレードは悪くない。アンジュは兄たちに力強く伝えるつもりだ。
「…ありがとう」
「どちらかと言うと兄さんたちはお泊まりの件を深く聞きたいらしいからな」
「それは、ぷらいべーとだよ!」
「ては、だしてません!」
想い人の優しさにアルフレードの震えは止まり、甘い雰囲気が漂いそうであったもをセオドアは容赦無く撃ち壊す。
兄たちの真の目的に、初々しい2人の言葉が重なった。アルフレードに関しては「出せません」が正しい。実は虎視眈々と機会を狙っているのだが、奥手な彼にはキスまでが精一杯。
「アルフレードは紳士的だもの。」
婚約者の胸の内を知らず、キス以外の具体的イメージが付いていないアンジュは力強く拳を握り、宣言する。
純粋な言葉にアルフレードは目を逸らし、セオドアは無表情になった。アフもお菓子を食べる手を止め、じっとアンジュを見つめる。
「アンジュ、的、だ。紳士じゃない。世の中丁寧な態度紳士・淑女論は当てはまらない。妹のそういう話に首を突っ込みたくはないが、俺はコイツが借家にいようと普通にアンジュの家に遊びに行きます。なのでコイツも狼だとは言っとくぞ。ほれ手紙だ」
セオドアから渡された手紙に、アンジュとアルフレードはそれぞれ目を通す。
真っ白な上質紙に書かれた、乱れのない綺麗な字が並ぶ。
アルフレードへ
裏から手を回しました。
とても、とても、とても、とても楽しみに耐寒の日を待っています。
大人しく来い。
ーライオネル
お元気そうでなにより。
よくよくよくよく、伺いたいことがあるから、まっすぐ屋敷にいらっしゃい。
ーセレスト
「ぁぁ」
なぜ休みが確定したのか理由が判明した。裏で召喚公が手を回したのなら、班長が断言したのも理解できる。
今はそんなことよりも彼らからのメッセージだ。文面は穏やかだが、使われている単語に棘が現れている。隠そうとしていない。思い出される2人の含みを滲ませる笑顔に、冷や汗が止まらなくなる。3年以上アンジュとの仲をサポートしてもらっていたが、なかなか進展しなかったためにセオドアよりも早く痺れを切らした2人からよく詰められていた。
『奥手過ぎない?今時の男の子ってこんな感じなの?』
『貴方…本気でアンジュと結ばれる気があるの?ないならないと仰いなさい。あるなら今すぐ対策案を出すから、事細かに進展しない状態を説明なさい』
特にセレストは相手から言葉を引き出すのが上手く、本人にも伝えれていないアンジュへの想いを赤裸々に白状さられた。それはもう、全てを。あらゆる記憶が蘇り、恥ずかしさでアルフレードの震えは再発した。
一方のアンジュ。
アンジュへ
帰って来たらお母さんやおばあ様も含めて
貴方が逃げて来たお勉強をしますから
ーあなたのお姉ちゃんより
「ひぃ…」
アンジュが逃げて来た勉強とは、男女の交際についてだ。1人で生きる覚悟と、自分を求める人間はいないとたかを括り、受けるべき教育をなあなあにしてきた。知り得ているのは一般的常識と、親友から借り受けたロマンス本で得た知識、そしてアルフレードとの触れ合いでのみ。
簡単に言って仕舞えば、アンジュにとっての男女交際はファンタジーに近い。アルフレードと婚約してもアンジュが妙に清らかな態度でいられたのも、自分ごとに落とし込めていなかったからでもある。
正しい知識が備わっていない妹の、婚約者とのお泊りが発覚した今。姉たちが然るべき教育を施そうと奮起するのは当然と言える。
となれば、だ。アンジュたちが戻るのはたった2日間。その短い時間の中で、あらゆる知識を詰め込む気なのが文面から強く強く伝わり、アンジュも身体が震えてきた。
2人が楽しい時間を過ごせるかは…彼らの行いによるだろう。我々は祈るほかない。
アンジュとアルフレードが青空が如く青ざめていると、アパートの玄関ベルが鳴った。何度も何度も、ベルが鳴らされる。何事かと主人であるセオドアが警戒しながら出れば、アパートのおばあちゃんたちであった。
「クッキーの作り方教えて!」
熱烈に教えを求める彼女たちをなだめて理由を聞けば、アンジュ手製のクッキーを食べた住人の1人が、その美味しさに感銘を受けた。他の住人にも感動を伝えに巡り、皆アンジュに教えを乞おうとなったのだ。
「材料はある。折角だ。教えていけばいいさ」
お茶会の準備に買った素材の余りが残っている。いつ材料を使うかわからない、今日使い切ってもらうと助かると言う次兄の提案に、アンジュは乗ることにした。
「では、未熟者ですがよろしくお願いしますね」
「やったわぁ!ありがとうアンジュちゃん。セオドアちゃんとアルフレードちゃんもね」
「材料は少し足らないかな?部屋から持ってくるよ」
「さ、さ、やりましょうやりましょう」
「楽しみだわぁ」
「えぷろんもってこなきゃ」
茶話会は一旦お開きとなり、アンジュ先生による料理教室が開かれた。
セオドアに借りた大きなエプロンを折り、身につけたアンジュは丁寧に作り方を教えていく。おばあちゃんたちに混ざり、専用のエプロンを身につけたアフも参加している。自分も作れば、食べ物が増えると思ったからだ。
キッチンが狭くなるため大男2人は参加せず、賑やかな様子を眺めている。
壁に持たれるセオドアの横に、アルフレードは立つ。アンジュの声を邪魔をしない様に、セオドアに小声で話しかける。
「この間はありがとうございました。おかげ様で、ようやく想いが通じ合えました」
セオドアは小さく鼻を鳴らした。声を顰めて彼も返答する。
「礼を言われる筋はない。あの扱いで感謝するなんざ、普段どんな扱いを受けてんだよ」
「皆さんにはよくしていただいてます」
「そうかい。そんなこと言うためにわざわざ来たんか」
「はい」
「結構なことだな」
心底興味がないとキッチンに目を向けたままの婚約者の兄に、アルフレードは構わず話を続ける。
「無視することもできたでしょう。それでも教えてくださった。機会をくださり、ありがとうございます。いつも、すみません」
「そう思うなら、よくよくアンジュを見とくんだな。どうせ不器用なんだ。アンジュと自分の幸せだけを考えとけ」
その言葉に目を丸めたアルフレード。
「私の幸せも、ですか」
「アンジュとの幸せ、だ。アンジュを蔑ろにしたら絶対に許さん。だが伴侶となるお前さんも幸せにならなきゃ意味がない。幸せを知らん奴は誰も幸せにできん」
心底楽しそうにキッチンに立つ妹の姿に、セオドアは目を細めた。
「ずっとアンジュを追っかけたんだ。なら全てを望めよアルフレード・ランゲ」
アルフレードとセオドアの初対面は3年前。
暑さがじわじわと高まりつつある初夏。その日は晴れ渡り、少し蒸し暑いぐらいであった。
アンジュとアルフレードはまだ配属前の軍学校2年生で、追加卒業試験後のこと。軍学校最後大きな催し、学校での成績優秀者と正規兵士との試合…ように交流会のようなモノだが、所謂"持ち上げ会”だ。軍学校成績優秀者はいずれ軍のトップとしての働きを期待されている。その未来の有力者を、正規配属になっても気分良く働けるよう、意図的に学生の勝ちを演出するためのイベントだ。最初は学生全員で参加していたらしいが、いつの間にか違った役割へと変わっていた。
上位20名の成績優秀者が5〜7人組のグループになり、それぞれ決められた班と戦う。
全体成績1位であったアルフレードも当然試合に参加した。
彼のチームの対戦相手こそ、セオドアが所属する警察局ベアトリーチェ班であった。
アルフレードはセオドアとアフに負けた。得意技も魔術も歯が立たず、逆に彼らの力に押され、強烈な足蹴りを喰らい気絶して試合は終わった。
他の生徒もベアトリーチェ班の兵士に敵わず、全敗した。
彼は試合を舐めた訳ではない。むしろ優秀な兵士と戦える機会を与えられてことに、前向きに試合に取り組もうとしていた。アンジュから事前にセオドアたちの情報を教えて貰い、対策を練り、チームメンバーとの特訓にも手を抜かなかった。
苦戦するとはしても噛み跡ぐらいは付けれると踏んでいた若い心は、見事に砕かれた。
医務室で目覚めたアルフレード。無機質な天井を仰ぎながら、己の未熟さと傲慢さに恥ずかしくなった。
同時にセオドアたちを尊敬した。純粋に強く、精霊との息も抜群にあっていた。彼を中心にサポートしていたベアトリーチェの班員も乱れなく動いていた。
事前情報でアンジュから人柄を聞いていたアルフレードは『信頼が厚い人物なのだろう』などと、そばで目覚めるのを待ってくれていた友人に語ったほどだ。
『そんなに元気そうなら心配しただけ損したな』
友人以外の声に、アルフレードは慌てて起き上がった。そこには壁にもたれるセオドアがいた。アルフレードと数事言葉を交わすと彼はすぐに去ってしまった。友人から試合終了後ずっとそばに居てくれたと説明を受けたアルフレードは、想い人が言う通り、無骨だが優しい人なのだと実感した。
それから2人が関わるようになったのは、中央に正規配属になったアルフレードがセオドアの元を訪ねてから。卒業後アンジュとの連絡手段がなくなってしまったアルフレードが、セオドアの力を借りようと彼のもとを訪れたからであった。
『アンジュ…さんと連絡を取りたいので、どうか力を貸していただけませんか?』
試合とは言えボコボコにした男の元に現れるや否や顔を赤らめて頭を下げるアルフレードに、セオドアが少し慄いたのは、また別の時に語ろうと思う。
そしてアンジュとアルフレードの縁が結ばれ、なんやかんや月日が流れて…関わっている内にセオドアの優しさや誠実さを感じられる様になったアルフレード。
家族思いで責任感が強い性格や、口は悪いが基本的に誰にも真摯に対応する姿勢。嫌々言いながらも、アルフレードからアンジュへのメッセージも、漏れなくきちんと伝えてくれる律儀さ。その口の悪さに辟易する時もあるが、むしろ畏まらずに良い。嫌な時にはきちんと反発している。アルフレード・ランゲにとって、セオドア・ブルナーも尊敬する義理兄の1人だ。
「やはり、セオドアさんは優しいですね」
「おぃ突然気色の悪いことを言うな」
意味もわからず褒められたセオドアは、腕をさする。
「ありがとうございます。私は幸せ者ですね」
「調子に乗るなよ。アンジュのついでだ、ついで」
「ついででも嬉しいです。アンジュと幸せになります」
セオドアは心底嫌そうに歯を噛み締めた。
「…本当、よくわからないやつだな」
セオドアの表情がアフと重なり、アルフレードは思わず笑ってしまった。本当に似ている。似ているからお互いを選んだのか、契約してから似てきたのかは分からないが、仲の良い1人と1匹が好きだなぁと、しみじみ噛み締めた。
ニコニコと笑う妹の婚約者が理解できず、気味が悪くなったセオドアは1歩、彼から距離を取る。
セオドアとアルフレード。
来世で再会しても絶対に仲良くならない2人だが、ほどほどの関係で交流が続くと伺える昼下がりである。
「しっかり冷やしたので…これで出来上がりです!」
「おぉ!」
感嘆の声が上がる。
アンジュ直伝のクッキーが山ほど出来上がった。ようやく出来上がったと拍手をするおばあちゃんたち。宝物が増えたアフは、テーブルで尻尾を振り踊っている。
「さて、お茶会の続きをしますかね」
セオドアの掛け声に全員頷いた。
ちょうど帰ってきた大家も呼ばれ、住人たちも参加するお茶会は美味しいお菓子や軽食、お茶などを堪能しながら話に花を咲かせていく。
とても賑やかに時間が過ぎていった。
「元気な婆さんたちだな、本当」
「そうだね。おかげでとっても楽しかった」
住人たちは日の入り前を告げる鐘の音を合図に帰って行った。彼女たちは満ち足りた表情を浮かべ、『楽しかった、楽しかった』とたくさんのお土産を持ち帰った。
アルフレードは夕陽を見に出ている。住民たちから話を聞き、興味が出た彼は大家に誘われアパートの屋上にいる。
部屋にはセオドアとアンジュ、アフだけがいる。
2人はテーブルでお茶を飲みながら、夜に染まっていく街の景色を眺めている。アフは、用意されたカゴの中で寝ていた。膨らんだお腹がゆっくり上下に動いている。
「アルと何話してたの?」
アンジュはクッキー作りをしている合間、婚約者と次兄が何やら話していた様子が気になっていた。
妹の質問にセオドアはしばらく間を置くと「……よくわからん」と低い声で答えた。彼は濁して表現している訳ではない。具体的に何を話していたかと聞かれると、たいした話はしていないような気がしたのだ。
「なにそれ」
兄の答えに、アンジュは満足を得たかのように笑う。
至極楽しそうな表情に、何がそんなに楽しいのか分からなくなるが、暗い顔をしているよりマシかとセオドアも表情を緩ませる。
「呼び方、変えたんだな」
「え?…あ、うん。その折角だから」
以前はまだ『アルフレード』と読んでいたことを指摘すれば、彼女は照れくさそうに頬を搔き認めた。やはりシャワー室でアルフレードに問い詰めてから、2人の間で何かがあったに違いない。それにしてもまるで付き合い始めの恋人だ。婚約してから3年近いのに、初々しい事をしている。いつもなら余計なことを言ってしまうセオドアも、今回ばかりは言葉を選び、肯定的に返した。
「いいんじゃないか。あー…そういうのは2人の特別だろ」
「さすが。経験者は語るってやつだね」
「茶化すんじゃない」
セオドアはいたずらに笑う妹の頬をつまむ。
話が少しそれるが、セオドアには特別仲の良い女性がいる。2歳年上の幼馴染であり、元々婚約者であった。しかしセオドアが11歳の時、ブルナー家を見限った彼女の父親が婚約を無理矢理解消してしまい離れ離れになってしまった。密かに連絡を取り続けて数年前、ある出来事をきっかけに再会した。右葉曲折はあったが、どうにか問題を乗り越え閉鎖的な環境から抜け出した彼女は今、世界を見たいと留学中である。
セオドアは友人だと紹介しているが、家族以外で心を砕き献身的に支える異性は彼女の他にいない。留学先から戻り次第、改めて結婚を申し込むのではないかと家族や彼の同僚たちは考えている。
その彼女とセオドアには、2人っきりの時にしか呼ばない愛称がある、らしいのだ。らしい、と言うのはポロリとセオドアが匂わせたぐらいで、家族すらわからない彼らの秘密。相棒であるアフは知ってるらしいが、聞き出そうとしても頑なで、賄賂のお菓子も受け取らない。色恋に興味がない次兄が彼女とは甘い付き合いがあるなど、アンジュには興味津々でならない。詳細を聞き出したいのだが、毎回セオドアに優しく頬を引っ張られて、誤魔化されるのであった。
しつこい時は5分ほどつままれるが、今回はすぐに刑からアンジュは解放された。
「ありがとう、セオドア兄さん」
「ん?」
緩やかな笑顔が一転し、真剣な面持ちで感謝されたセオドアは瞬きを繰り返す。突然なんだと言うのか。
「今日とか…この間も訓練見にきてくれたでしょ?他にも色々。だから、ありがとう」
「…気づいてたか」
「うん。アフの気配がしたからね」
アンジュはカゴの中で眠るアフを優しく撫でる。訓練中、ギャラリーの中にアフの気配があることに気がついた。彼がいるところには必ずセオドアがいる。また心配をかけてしまったと申し訳なくなりながら、参加者を倒していた。
「精霊たちが報告してくれてな」
「そっか」
防衛局と警察局の建物は分かれている。警察局に勤めるセオドアが防衛局で行われている特別訓練に駆けつけれた理由は、精霊や妖精が急ぎ知らせてくれたのだ。アンジュはつくづく精霊たちに愛されている。彼らと契約する人間の方も素直さを得て欲しい。
アンジュが負けるはずないが、怪我をしないかだけ心配したセオドアは班長の許可を得て、防衛局の中庭まで足を運んだ訳であった。何も得ない訓練見学だと思っていたが、久しぶりに骨のある新人がいるのを確認できただけ爪の先ほど価値はあった。
「アンジュが負けるとは思ってなかったよ」
「私も思わなかったよ。怪我も対してしなかったしうんまぁ、迷惑だったけど大事なこと気づかせてくれたから、感謝してる」
“怪我”の単語にセオドアの眉が跳ねたのを見たアンジュは、その部分は濁した。
「あれらに感謝だけはするな」
「うんまぁ、そうなんだけどさ。うん」
アンジュは手元を見つめる。1番近い場所を見ながら、果てしなく遠いところを思い出すような声音で話を続ける。
「私、恵まれてるんだ。すっごく、たくさん持ってる。だから、ありがとう。…兄さんたちには、ずっと心配かけてきたね」
「当たり前だろ。家族なんだから」
「当たり前じゃないよ。…ううん、当たり前じゃないって思い直した」
アンジュは手の中に収まっているマグカップに口をつけ、一口啜った。
ー今日はそれを伝えにきたのか?
セオドアは出かかった言葉を飲み込む。今日、アンジュがアパートに来た要件がずっと気になっていた。
勘違いして欲しくないが、セオドアは今日をとても楽しみにしていた。一人暮らしでは面倒だと避けがちなお菓子を作ってまで、アンジューとついでにアルフレードもーの来訪を待ち侘びていた。
なにせ彼女が「遊びに来たい」と言う事自体、大分久しぶりだったからだ。子供の時はよく一緒に遊び、訓練をしたが周囲に悪評が広がるにつれてアンジュは家族や親友とも一線を引いた様に1人行動が増えていた。たまに会っても、短い時間だけか、容姿がはっきりしにくい夜も遅い時間がほとんど。自分が通えば噂が立つかもしれないと、人目を気にしたアンジュが避けていたからだ。
彼女から頼られ、願うことも減っていた。先日の引越し作業も、セオドアは有給を取った後に一方的に手伝う旨だけ伝えて、無理矢理参加したのだ。
そんな妹が、日が高い内に遊びに来たのは何か理由があるのではないかと考えてしまうのだ。
「…えっと、その。それで」
あぁ、ほら。
アンジュは何か言葉を続けようとする。悩んだら言わないか行動に移す質のアンジュが、今の様に言葉に迷うのは非常に珍しい。
「あの…ですね」
「…」
妹をせかさず、セオドアは黙って言葉を待つ。
「…これからも、ちょこちょこ遊びに来たいんだけど、良い、かな?」
セオドアは、ゆっくりとカップに口をつける。一口啜ってから、彼は答えた。
「………いつも言ってるだろう。いつでも頼って良いし、遊びに来い」
声が震えそうになるのを、必死に正す。
"これから"。
家族から離れようとしていた妹の口から、初めて共に過ごす未来が示唆された。
「うん」
答えに安堵したのか、アンジュの肩の力が抜けていくのを感じた。緊張していたのだろう。
「これからも」
「うん」
セオドアは妹の頭に手を乗せると、豪快に髪を撫でる。柔らかな髪があっという間にボサボサに乱れていく。「髪整えたのに」と言いながら、なされるままに撫でられていた。兄妹は笑い合う。
「耐寒の日、俺も休みを取ってる」
「やった!久しぶりにみんな集まるね。なら当日待ち合わせよ」
「いいぞ。けどちゃんと姉さんたちに引き渡すからな」
「に、にげださないよ!」
震える声の妹に、セオドアはこの日1番大きな笑い声をあげた。
日が完全に沈み、部屋に戻ったアルフレードと共に大量の食器を洗い、部屋を片付けた3人。
「今日はありがとうございました」
「またね。セオドア兄さん、アフ」
アンジュとアルフレードは帰って行った。
昼間の賑やさが消え去り、静かすぎる夜。
甘い匂いがまだ漂うアパートの部屋で、セオドアは手紙を書いていた。地元と海外の友人たちに、最近の出来事を綴る。業務上仕事の事は書く事は出来ないため、日々の出来事や精霊の話、家族についてばかりになってしまうのだが『セオドアの日常を伺えるのは楽しいから』と言ってくれるため、偶に絵を描き足しながら書きたいことを書いている。机の上で遊んでいたアフは立ち上がると、セオドアの顔を見つめる。手紙を書く手を止めた。
「なんだ?」
するとアフは目を瞑ると眉をひそめ、目尻からほっぺへ人差し指でトントントン、と動かしていく。
「……泣いてないぞ」
「ギューゥ?」
途端にアフは意地悪く笑う。
アフはセオドアが泣いていると伝えているのだ。どうやらポエテランジュ8番目の子は、寝たふりをしながらアンジュとの会話を聞いていたらしい。
子供ではあるまいし何でもかんでも泣く時はないと否定したが、彼の態度は変わらない。ムキになったセオドアは、ペンを置きアフを両手で抱えると細かく指を動かす。くすぐったさに「ぎゃひぎゃひ」と大笑いしながら体を捻る。
笑い疲れてぐったりする相棒を放置し、セオドアは作業を再開した。
書き切った手紙を封筒にしまう。あとは蝋を垂らし、捺印を押せば投函できる。その前に。
「アフ、何か入れるか?」
手紙には必ずアフからも何か送るのが習慣になっていた。
セオドアが書いた手紙の空きスペースに顔料で手形や足跡を付けたり、彼が描いた絵や、贈り物を付ける。横になったままのセオドアの作業を見ていたアフに問えば、彼は頷いた。ゆっくり身体を起こしたアフは、慣れた様子で手に顔料を付けると、新しい紙にパシパシと手形を付ける。今回は指で絵も描いた。アフとセオドア、アンジュやアルフレード、住人たちの似顔絵だ。今日のお茶会の様子を描いたらしい。皆笑顔で、楽しかった彼の気持ちが伝わってくる。描かれた2枚を乾かすために机の隅に置く。
手の顔料をきちんと拭ったアフは、机を軽く叩いた。手紙や封蝋の道具を脇に寄せ、手招きされるままにセオドアが顔を近づけるとアフの小さな手がセオドアの髪に触れ、首を傾げる。
「髪の色、戻さないのかって?」
アフは大きく頷く。セオドアの本来の髪色は、母親譲りの金髪である。事故の後、アンジュが容姿を侮辱されるようになってから、セオドアは髪色を同じ白へと染めた。言えば家族に止められると、アフだけには手伝ってもらった。少しでも悪意の矛先を自分にも向けられるのではないかと考えたのだが、あまり効果はなかった。
アンジュのために変えた髪色。その彼女が前を向いたのだからもう髪は染めなくとも良いのではないか。目の前の精霊はそう言っているのだ。
セオドアは相棒の頭を優しく撫でる。
「変えないよ。当分はな。似合っているだろ?それにアフたちみたいだ」
当時12歳のセオドアくん。実家の洗面所で髪を染めた後、鏡に映る自分の姿を確認した幼い彼は、事故後目覚めたアンジュが何故すぐ喜べたのか身を以て理解した。彼女が言う様に、最愛の精霊たちのようであったからだ。今でも鏡に写る度に、少し口角が上がる。髪が伸びると母親由来の金髪も混じり、光にあたるとキラキラと輝きが増してとても気に入っている。
「ケケ」
セオドアの言葉に、アフは機嫌良く鳴いた。彼はセオドアの額に頬を寄せる。ふわふわな毛が肌をくすぐり、セオドアは柔らかく微笑んだ。
「またお茶会しようか。なぁ、アフ」
「ギュイ!」
愛する相棒の提案に、精霊は元気よく頷いた。
余談だが、セオドアは瞳も魔宝具で赤色に変えていた。しかし『獰猛すぎる』とポエテランジュたちにすら止められたため、父親譲りの杏色のままである。自分では可愛いと思っていたたセオドアくんは、ひどくショックを受けた。気丈な彼がショックで部屋の隅で落ち込む姿に、流石のアフも素直に慰めたほどだ。
セオドアをきっかけにライオネルやセレスト、コトレットも髪や瞳の色を変えてみたのだが、セオドア以上に人外みが凄まじくなってしまい断念した。
『アンジュが可愛いのは才能だな』
アンジュの兄姉たちは、何度も頷いた。事実であるのだから、特に否定する事ではない。
そんな兄たちを、アンジュは素直に喜ぶべきか飛躍した考えをやめるよう注意すべきか複雑そうな顔で眺めており、さらに彼らの母親や祖父母たち、精霊たちは子供たちの愛おしさに笑顔を浮かべていたのだった。
最も近くで、私を大切にしてくれた人たちにも。
私の決意を。私の新しい夢を。そして…。
コン、コン、コン。
特別訓練より数日経った。風が冷たい週末。
先日降った雪は溶けてしまったが、本格的に冬を迎えつつある。
週末は休みであるアンジュ・ブルナーは、借家に篭っていた。諸々溜めていた家事を終わらせた彼女は、今日1番の用事を済まそうとダイニングチェアに腰を下ろす。ドライフルーツを手に持ち、ダイニングテーブルを3回ノックした。
すると、彼女の目の前の空間がぐにゃりと歪む。
「ケヒ」
現れたのは、アンジュの2番目の兄セオドアの契約精霊・アフだ。
呼びたい精霊の好物を持ち、扉をノックするようにどこかを叩く。これはブルナー家族のみが出来る、ポエテランジュたちの呼び出し方だ。都合が悪くない限り、彼らは姿を現してくれる。
小さな彼が片腕を挙げれば、アンジュも手のひらで優しく触れ合う。
彼とのいつもの挨拶だ。
アフにドライフルーツを渡せば、目を輝かせて彼は早速食べ始める。もぐもぐもぐ。むぐむぐむぐ。少し大きな実を齧り、頬をいっぱいに膨らますアフ。その小さな額を撫でながら、アンジュは呼び出した要件を小さな妖精に伝えた。
「テオ兄さんに伝言お願いしていい?どこか1日会いたいって」
直接セオドアに伝えれば良いが、彼はアンジュと異なる局に所属しているため会いにくいのだ。早く連絡を取りたい場合、面倒をかけてしまうが相棒であるアフに頼んだ方が都合が良いのである。
頬を膨らませながらアフは親指を上げる。ドライフルーツを食べ終わると、小さな協力者はアンジュから受け取った紙を持って再び空間に姿を消した。アフに渡した紙には、アンジュの休みの日と"アパートに遊びに行ってもいい?"とメッセージが書かれている。
それほど時間が掛からないうちに、アフはアンジュの元に再び現れた。
彼は紙を広げる。来週末の日付に丸が付けられ、セオドアからのメッセージが書き足されていた。
来週末楽しみにしてる。
あと今日はしばらくアフの相手をしてやってくれ。
ただし食べさせ過ぎないように。
-セオドア
アフも戻る気はないらしく、アンジュの肩に乗ると気持ちようさそうに大きな欠伸をした。
「今日は仕事?」
アンジュの問いに、アフは首を振る。胸の位置で拳を縦に重ね、左右に動かす。どうやら次兄は今日1日掃除に励む予定なのだとアンジュは理解した。
「邪魔しちゃったな。アフも来てくれてありがとう。兄さんの掃除終わるまでゆっくりしようか」
指で喉元を撫でてやれば、肩に乗るアフは機嫌良く鳴いた。
アンジュたちはおもちゃで遊び、お昼ご飯を食べ、昼寝をする。
外は冷たい風が吹こうと、暖房が効いた部屋には関係のないこと。気持ち良い陽光が入るアンジュの部屋で、すやすやと眠る。
あまりの心地良さに夕方近くまで寝てしまった1人と1匹は、洗濯物を取り込んでから遅いおやつを食べる。冬の果物。少し乾いた喉は瑞々しい果汁で潤っていく。
雑談を交わしていると、借家の玄関のベルが鳴る。途端、アフが眉間に皺を寄せた。アンジュの肩に素早く飛び乗り、頬を膨らませた。精霊は人よりも気配に敏感だ。来訪者は彼にとって、微妙な相手なようだ。扉の向こう側は、アンジュもよく知る者の気配だ。
であるならば。
アンジュは顔を輝かせた。早速玄関扉を開ければ、予想通りの人物が立っていた。
「アルフレード!いらっしゃい」
「こんばんは。アンジュ…にアフも」
アンジュの婚約者であり、人生の推しであるアルフレード・ランゲがいた。彼女の笑顔に、アルフレードは顔を綻ばせる。先日ようやく想いが通じ合ってから、アルフレードは頻繁に借家に通うようになった。来客の予定はなくとも、最近とにかく時間があればアンジュに会いに来るのだ。普段女性禁制の男子寮で暮らしているため婚約者が彼の部屋に行けない理由もあるが、半年まともに会えなかった反動が、彼の行動に現れている。
「この間ぶりだな、アフ」
挨拶をするアルフレードに、アフはブルブルと唇を振るわせた。
ポエテランジュの子供といえど、200歳近いアフ。成人を迎え、母の力を得ていようと、アンジュはまだまだ子供で、か弱い妹分だ。そんな彼にとって、アルフレードは”いたいけな妹を誑かした男”として認知していた。
妹に変なことしたら容赦しないぞ!
折角遊んでたのに邪魔しやがって!
そんな意味を含む不服行動である。彼の意図を汲み、アルフレードもアンジュも苦笑いを浮かべる。
まったく。アフの態度は契約者同様、妹の婚約者には酷くそっけない。実に相性の良いコンビだと断言できる。顔を合わせる度に威嚇されるのだから、アルフレードからしたらさぞ面倒な存在だと考えるが…。悪態をつきながらもきちんと構ってくれるアフたちが、アルフレードは大好きなのであった。肝が座っていると言うべきか、はたまた単純、いや鈍感というべきかは、人に委ねたいと思う。
1人と1匹のおやつ時間に加わったアルフレード。
果物をつまみながら、アンジュからセオドアと来週末会う予定だと聞いた彼は、興味ありげに頷いた。
「アルフレードも会う?」
「できれば会いたいけど…兄妹水入らずだろ?」
「兄さんも都合わからないからね。今回逃したら次いつ会えるか分からないし…私は構わないよ?」
「セオドアさんも良いなら、是非」
「そうだね。アフ、兄さんに伝えてくれる?」
唇を曲げたアフだったが、しぶしぶ了承したようで契約者の元に帰っていった。すぐにアンジュたちの元に姿を現すと、両腕で丸を作る。
「アル、兄さん良いって!伝言ありがとうアフ」
お礼にふんだんに撫でられたアフは、自慢げに胸を張った。
「なんで来るんだよ」
「兄さんがいいって言ったんじゃん。そんな意地悪言わないの」
アンジュの隣に立つアルフレードを見るなり、セオドアは顔を顰める。相変わらず婚約者には当たりが強いのだからとアンジュは兄を叱った。
予定があると一週間はたちまち過ぎていく。
セオドアと会う週末は、風はひどく冷たいが雲一つなく晴れ渡っていた。
お土産の入った紙袋を下げて、彼が暮らすアパートにやって来たアンジュとアルフレードはやって来た。
築50年。白い外壁と真っ赤な屋根が可愛らしい6階建て。最上階は大家、各階2つの居住部屋がある。1階と3階、4階には1人ずつ、2階と5階に2人ずつ暮らしている。セオドアは5階に暮らしている。
大家とセオドア以外は、全員50を過ぎた愉快な年配者たちが住んでいる。愉快というのは嘘ではない。例えばセオドアの隣人。陽気で笑顔が可愛らしいおばあちゃんで、お菓子を誰にでも与える癖がある。先程もアンジュとアルフレードは沢山のお菓子をコートのポケットに詰め込まれたばかりだ。
「言っておいて『やっぱり…』とかあるだろ?常習犯だろ」
「ありがたいことに最近時間ができまして。それに私だけとは会ってくれないじゃないですか」
「会って何話すんだよ俺とお前さんでよ」
「もう!意地悪言うと帰るよ、本当に」
「わかった、わかった!入れ!」
ぐだぐだと言い募るセオドアであったが、可愛い妹には勝てない。
セオドアは2人を部屋に通した。
アパートの部屋の間取りはキッチンに、リビングダイニングが纏められたメインルーム、ベット一つ置くには十分な広さのサイドルームが一部屋ずつある。そして洗面・浴室、トイレや防寒装置が完備。サイドルームを来客用の部屋として整えているため、メインルームに彼の寝具や勉強机も置いている。2メートル近い男が2人もいれば狭く感じるが、普段1人と1匹で暮らすには十分な広さである。
セオドアの生活拠点となっているメインルームは、必要な物があるべき場所に置かれ、隅々まで掃除が行き届いている。すこし雑多としているのは机の上ぐらい。セオドアが読んでいるのか小説や辞典が数冊積み上がっていた。
窓辺には植物が置かれ、生き生きと育っている。
キッチン周りの収納は鍵や檻など厳重な保管体制が施されており、食い意地の張ったアフとの攻防が伺える。
もちろんアフ専用のスペースもあり、穴の空いた木のオーナメントには、たくさんのおもちゃやお菓子で飾られていた。
窓際に置かれた丸テーブルには3つの椅子に、4つのカップ、沢山の茶菓子や軽食が用意されている。アルフレードの好物も中にはあった。
カップや椅子もきちんと人数分準備しているのだから、口の悪さと素直でない物言いを直せばいいのにとアンジュは改めて思う。
セオドアの相棒はひと足先にお菓子を食べ、頬を膨らませて口の周りを汚していた。アンジュたちを見ると、片手を上げるいつもの挨拶をする。と、きらりと真っ赤な瞳が輝いた。
「ケケ!キー!キー!」
彼はアンジュの元に飛び移ると、求めるように紙袋を指で差す。頬をすり寄せねだるアフに、アンジュは目を細めた。
「流石だね。けどもうテオ兄さんが沢山用意してくれたんだから、食べ過ぎないでよ?」
アンジュは紙袋から手製のお菓子が詰められた紙箱を取り出した。
キャラメルと胡桃を混ぜ合わせたものをクッキーで挟んだお菓子ー本来はパイで作るが、すぐ食べれるようにクッキーで代用したーや、いちごジャムが乗ったクッキーにニンジンとナッツのパウンドケーキ、メレンゲが詰められている。もちろんアンジュの手製である。
「アンジュのお菓子か!久しぶりだな」
「いい香りがしてると思ったら…おいしそうだ」
現れたたくさんのお菓子にアフだけでなく、アルフレードとセオドアも顔をほころばせた。
ブルナー家族の料理の腕前は高い。他の公爵らに『示しがつかない』と注意されたため屋敷は見栄えの良い立派な物を建てたが、働く使用人は少なく、基本的に自分たちの力で生活している。祖父たちにしっかり家事の手解きを受けてきたブルナー5人兄妹。特に独り立ちを強く意識していたアンジュは、5人の中でも幅広い料理を振る舞える。家族が『美味しい』と喜んで食べてくれたのが嬉しく、試行錯誤した結果、味も絶品だ。
「婆さんたちに分けてあげよう。絶対気にいる」
「うん」
このままではアフが全て食い尽くす危険があるため、住人達に分けることにした。早速お菓子を小分けにする。セオドアが作ったお菓子も、アルフレードが手土産に持ってきたドライフルーツもまとめていく。
案の定、食べる量が減ると駄々を捏ねるアフと攻防を繰り広げながら、住人分用意したアンジュたちはアパートの部屋を巡る。ちなみにこのアパートの住人はアンジュに嫌悪感ない。むしろセオドアも含めたブルナー兄妹を、自分の孫のように可愛がっている。人目を気にしてアパートに滅多に顔を出さないアンジュが尋ねると、どこからともなく彼女たちは集まり、構い倒すのだ。
『もっと遊びにきなさいヨォ』
『噂?知らないわよ。耳も遠いから他が何言ってるかわかんないからね!』
『ボケもきてるからねぇ!』
反応がしづらい理由を述べながら、アンジュの柔らかな髪や頬を撫でる、撫でる。可愛らしい笑顔が絶えない住人たちなのだ。
お菓子は住民たちは喜んで受け取ってくれた。
全員分配り終え、3人と1匹はテーブルに落ち着いた。ようやくお茶会の始まりである。
「アンジュはミルクティーか?アルフレードは?」
「うん、お願い」
「同じものをください」
「ムケケ」
「はいはいフルーツティーな。はちみつは今回入れないぞ」
「ムギュー!」
「アフ、流石に甘いもの取りすぎだよ。他にもいっぱいあるんだから」
わいわい。
今の彼女たちの様子に効果音をつけるならば、それが1番似合う。
積もり積もった兄妹の話や、同じ区内に勤めているセオドアとアルフレードの中央の話、アフの最近のお気に入り…話すことは目の前に積まれたお菓子並みに山盛りだ。
「耐寒の日はどうするんだ?帰るのか?」
話題は3週間後の"耐寒の日"へと移った。
大陸に夏を知らせる南の聖霊鳥が深い眠りに付き、北に住まう精霊獣が踊り舞う。その風に乗り、冬の到来を知らせる精霊たちが世界を巡り、大地は寒々しい季節を迎える。それが本番を迎え、1年で最も昼が最も短く、気温が下がるのが"耐寒の日"。
この日は大陸中で珍しい光景が起こりやすい。
ファラデウスで言えば、標高の高い北の山々で流れる川や滝は氷の道となり、東の”死の砂”では氷の花が咲く。
大陸で唯一、国中に列車が走るこの国では、鉄道旅も楽しみに訪れる観光客が多く訪れ、賑わうのだ。
ブルナー領では湖や草木も一斉に凍る。あまりの速さに氷は音を立てて散り舞う。それが夜を照らす光や家家の明かりをを反射し、空気中をキラキラと漂うのだ。
ブルナー家では毎年この自然現象を見るのを家族行事にしている。ブルナー5人兄妹が成人を迎え働くようになってからは毎年全員集まりにくくなっているが、温かな食事を摂り、地元の美しい景色を見て、暖かな部屋で家族と話しながら夜を越すのがセオドアもアンジュも大好きな日である。
「うん。アルフレードも一緒に帰る予定だよ」
アンジュの言葉にアルフレードは頷いた。それはもう、しっかり頷く。毎回のように仕事で予定を狂わされがちなアルフレードだが、今回は予定を変えずに済みそうなのだ。休暇申請後、班長から呼び出されたアルフレード。また緊急で案件が入ったのかと身構えたが、全く逆であった。
『今回はぜっったいに大丈夫だ。楽しんで来い。俺らも久々にゆっくりさせてもらうよ』
エゼリオがなぜ断言したのかわからないが、最近は仕事も少なくー指導していた後輩の半分がいなくなったためーなり落ち着いている。
「確実に行けます」
断言するアルフレードに、セオドアは「だろうな」と確信を持った返答をした。
「覚悟しとけ。ローランド公から兄さんたちに特別訓練の謝罪をしたとよ。2人から話があるからな」
その言葉に、アンジュとアルフレードは固まった。
アンジュとセオドアの、兄と姉。アンジュの8歳年上で、現ブルナー家当主かつ召喚公である長男のライオネル。そして彼の1つ下、長女セレスト。弟妹たちを深く愛する彼ら。特に父親が亡くなってからは、過保護さが高まった。そんな2人に、アルフレードと婚約者であるアンジュに嫉妬して行われた特別訓練の話が入ったらどうなるか…。アンジュが顔を真っ青に染め、アルフレードは小刻みに震えている様子で察していただきたい。
「大丈夫だよ。アルフレードは悪くないもの」
隣で震える婚約者にアンジュは優しく手を握った。悪いのは特別訓練を考え、かつ実行した者たちだ。アルフレードは悪くない。アンジュは兄たちに力強く伝えるつもりだ。
「…ありがとう」
「どちらかと言うと兄さんたちはお泊まりの件を深く聞きたいらしいからな」
「それは、ぷらいべーとだよ!」
「ては、だしてません!」
想い人の優しさにアルフレードの震えは止まり、甘い雰囲気が漂いそうであったもをセオドアは容赦無く撃ち壊す。
兄たちの真の目的に、初々しい2人の言葉が重なった。アルフレードに関しては「出せません」が正しい。実は虎視眈々と機会を狙っているのだが、奥手な彼にはキスまでが精一杯。
「アルフレードは紳士的だもの。」
婚約者の胸の内を知らず、キス以外の具体的イメージが付いていないアンジュは力強く拳を握り、宣言する。
純粋な言葉にアルフレードは目を逸らし、セオドアは無表情になった。アフもお菓子を食べる手を止め、じっとアンジュを見つめる。
「アンジュ、的、だ。紳士じゃない。世の中丁寧な態度紳士・淑女論は当てはまらない。妹のそういう話に首を突っ込みたくはないが、俺はコイツが借家にいようと普通にアンジュの家に遊びに行きます。なのでコイツも狼だとは言っとくぞ。ほれ手紙だ」
セオドアから渡された手紙に、アンジュとアルフレードはそれぞれ目を通す。
真っ白な上質紙に書かれた、乱れのない綺麗な字が並ぶ。
アルフレードへ
裏から手を回しました。
とても、とても、とても、とても楽しみに耐寒の日を待っています。
大人しく来い。
ーライオネル
お元気そうでなにより。
よくよくよくよく、伺いたいことがあるから、まっすぐ屋敷にいらっしゃい。
ーセレスト
「ぁぁ」
なぜ休みが確定したのか理由が判明した。裏で召喚公が手を回したのなら、班長が断言したのも理解できる。
今はそんなことよりも彼らからのメッセージだ。文面は穏やかだが、使われている単語に棘が現れている。隠そうとしていない。思い出される2人の含みを滲ませる笑顔に、冷や汗が止まらなくなる。3年以上アンジュとの仲をサポートしてもらっていたが、なかなか進展しなかったためにセオドアよりも早く痺れを切らした2人からよく詰められていた。
『奥手過ぎない?今時の男の子ってこんな感じなの?』
『貴方…本気でアンジュと結ばれる気があるの?ないならないと仰いなさい。あるなら今すぐ対策案を出すから、事細かに進展しない状態を説明なさい』
特にセレストは相手から言葉を引き出すのが上手く、本人にも伝えれていないアンジュへの想いを赤裸々に白状さられた。それはもう、全てを。あらゆる記憶が蘇り、恥ずかしさでアルフレードの震えは再発した。
一方のアンジュ。
アンジュへ
帰って来たらお母さんやおばあ様も含めて
貴方が逃げて来たお勉強をしますから
ーあなたのお姉ちゃんより
「ひぃ…」
アンジュが逃げて来た勉強とは、男女の交際についてだ。1人で生きる覚悟と、自分を求める人間はいないとたかを括り、受けるべき教育をなあなあにしてきた。知り得ているのは一般的常識と、親友から借り受けたロマンス本で得た知識、そしてアルフレードとの触れ合いでのみ。
簡単に言って仕舞えば、アンジュにとっての男女交際はファンタジーに近い。アルフレードと婚約してもアンジュが妙に清らかな態度でいられたのも、自分ごとに落とし込めていなかったからでもある。
正しい知識が備わっていない妹の、婚約者とのお泊りが発覚した今。姉たちが然るべき教育を施そうと奮起するのは当然と言える。
となれば、だ。アンジュたちが戻るのはたった2日間。その短い時間の中で、あらゆる知識を詰め込む気なのが文面から強く強く伝わり、アンジュも身体が震えてきた。
2人が楽しい時間を過ごせるかは…彼らの行いによるだろう。我々は祈るほかない。
アンジュとアルフレードが青空が如く青ざめていると、アパートの玄関ベルが鳴った。何度も何度も、ベルが鳴らされる。何事かと主人であるセオドアが警戒しながら出れば、アパートのおばあちゃんたちであった。
「クッキーの作り方教えて!」
熱烈に教えを求める彼女たちをなだめて理由を聞けば、アンジュ手製のクッキーを食べた住人の1人が、その美味しさに感銘を受けた。他の住人にも感動を伝えに巡り、皆アンジュに教えを乞おうとなったのだ。
「材料はある。折角だ。教えていけばいいさ」
お茶会の準備に買った素材の余りが残っている。いつ材料を使うかわからない、今日使い切ってもらうと助かると言う次兄の提案に、アンジュは乗ることにした。
「では、未熟者ですがよろしくお願いしますね」
「やったわぁ!ありがとうアンジュちゃん。セオドアちゃんとアルフレードちゃんもね」
「材料は少し足らないかな?部屋から持ってくるよ」
「さ、さ、やりましょうやりましょう」
「楽しみだわぁ」
「えぷろんもってこなきゃ」
茶話会は一旦お開きとなり、アンジュ先生による料理教室が開かれた。
セオドアに借りた大きなエプロンを折り、身につけたアンジュは丁寧に作り方を教えていく。おばあちゃんたちに混ざり、専用のエプロンを身につけたアフも参加している。自分も作れば、食べ物が増えると思ったからだ。
キッチンが狭くなるため大男2人は参加せず、賑やかな様子を眺めている。
壁に持たれるセオドアの横に、アルフレードは立つ。アンジュの声を邪魔をしない様に、セオドアに小声で話しかける。
「この間はありがとうございました。おかげ様で、ようやく想いが通じ合えました」
セオドアは小さく鼻を鳴らした。声を顰めて彼も返答する。
「礼を言われる筋はない。あの扱いで感謝するなんざ、普段どんな扱いを受けてんだよ」
「皆さんにはよくしていただいてます」
「そうかい。そんなこと言うためにわざわざ来たんか」
「はい」
「結構なことだな」
心底興味がないとキッチンに目を向けたままの婚約者の兄に、アルフレードは構わず話を続ける。
「無視することもできたでしょう。それでも教えてくださった。機会をくださり、ありがとうございます。いつも、すみません」
「そう思うなら、よくよくアンジュを見とくんだな。どうせ不器用なんだ。アンジュと自分の幸せだけを考えとけ」
その言葉に目を丸めたアルフレード。
「私の幸せも、ですか」
「アンジュとの幸せ、だ。アンジュを蔑ろにしたら絶対に許さん。だが伴侶となるお前さんも幸せにならなきゃ意味がない。幸せを知らん奴は誰も幸せにできん」
心底楽しそうにキッチンに立つ妹の姿に、セオドアは目を細めた。
「ずっとアンジュを追っかけたんだ。なら全てを望めよアルフレード・ランゲ」
アルフレードとセオドアの初対面は3年前。
暑さがじわじわと高まりつつある初夏。その日は晴れ渡り、少し蒸し暑いぐらいであった。
アンジュとアルフレードはまだ配属前の軍学校2年生で、追加卒業試験後のこと。軍学校最後大きな催し、学校での成績優秀者と正規兵士との試合…ように交流会のようなモノだが、所謂"持ち上げ会”だ。軍学校成績優秀者はいずれ軍のトップとしての働きを期待されている。その未来の有力者を、正規配属になっても気分良く働けるよう、意図的に学生の勝ちを演出するためのイベントだ。最初は学生全員で参加していたらしいが、いつの間にか違った役割へと変わっていた。
上位20名の成績優秀者が5〜7人組のグループになり、それぞれ決められた班と戦う。
全体成績1位であったアルフレードも当然試合に参加した。
彼のチームの対戦相手こそ、セオドアが所属する警察局ベアトリーチェ班であった。
アルフレードはセオドアとアフに負けた。得意技も魔術も歯が立たず、逆に彼らの力に押され、強烈な足蹴りを喰らい気絶して試合は終わった。
他の生徒もベアトリーチェ班の兵士に敵わず、全敗した。
彼は試合を舐めた訳ではない。むしろ優秀な兵士と戦える機会を与えられてことに、前向きに試合に取り組もうとしていた。アンジュから事前にセオドアたちの情報を教えて貰い、対策を練り、チームメンバーとの特訓にも手を抜かなかった。
苦戦するとはしても噛み跡ぐらいは付けれると踏んでいた若い心は、見事に砕かれた。
医務室で目覚めたアルフレード。無機質な天井を仰ぎながら、己の未熟さと傲慢さに恥ずかしくなった。
同時にセオドアたちを尊敬した。純粋に強く、精霊との息も抜群にあっていた。彼を中心にサポートしていたベアトリーチェの班員も乱れなく動いていた。
事前情報でアンジュから人柄を聞いていたアルフレードは『信頼が厚い人物なのだろう』などと、そばで目覚めるのを待ってくれていた友人に語ったほどだ。
『そんなに元気そうなら心配しただけ損したな』
友人以外の声に、アルフレードは慌てて起き上がった。そこには壁にもたれるセオドアがいた。アルフレードと数事言葉を交わすと彼はすぐに去ってしまった。友人から試合終了後ずっとそばに居てくれたと説明を受けたアルフレードは、想い人が言う通り、無骨だが優しい人なのだと実感した。
それから2人が関わるようになったのは、中央に正規配属になったアルフレードがセオドアの元を訪ねてから。卒業後アンジュとの連絡手段がなくなってしまったアルフレードが、セオドアの力を借りようと彼のもとを訪れたからであった。
『アンジュ…さんと連絡を取りたいので、どうか力を貸していただけませんか?』
試合とは言えボコボコにした男の元に現れるや否や顔を赤らめて頭を下げるアルフレードに、セオドアが少し慄いたのは、また別の時に語ろうと思う。
そしてアンジュとアルフレードの縁が結ばれ、なんやかんや月日が流れて…関わっている内にセオドアの優しさや誠実さを感じられる様になったアルフレード。
家族思いで責任感が強い性格や、口は悪いが基本的に誰にも真摯に対応する姿勢。嫌々言いながらも、アルフレードからアンジュへのメッセージも、漏れなくきちんと伝えてくれる律儀さ。その口の悪さに辟易する時もあるが、むしろ畏まらずに良い。嫌な時にはきちんと反発している。アルフレード・ランゲにとって、セオドア・ブルナーも尊敬する義理兄の1人だ。
「やはり、セオドアさんは優しいですね」
「おぃ突然気色の悪いことを言うな」
意味もわからず褒められたセオドアは、腕をさする。
「ありがとうございます。私は幸せ者ですね」
「調子に乗るなよ。アンジュのついでだ、ついで」
「ついででも嬉しいです。アンジュと幸せになります」
セオドアは心底嫌そうに歯を噛み締めた。
「…本当、よくわからないやつだな」
セオドアの表情がアフと重なり、アルフレードは思わず笑ってしまった。本当に似ている。似ているからお互いを選んだのか、契約してから似てきたのかは分からないが、仲の良い1人と1匹が好きだなぁと、しみじみ噛み締めた。
ニコニコと笑う妹の婚約者が理解できず、気味が悪くなったセオドアは1歩、彼から距離を取る。
セオドアとアルフレード。
来世で再会しても絶対に仲良くならない2人だが、ほどほどの関係で交流が続くと伺える昼下がりである。
「しっかり冷やしたので…これで出来上がりです!」
「おぉ!」
感嘆の声が上がる。
アンジュ直伝のクッキーが山ほど出来上がった。ようやく出来上がったと拍手をするおばあちゃんたち。宝物が増えたアフは、テーブルで尻尾を振り踊っている。
「さて、お茶会の続きをしますかね」
セオドアの掛け声に全員頷いた。
ちょうど帰ってきた大家も呼ばれ、住人たちも参加するお茶会は美味しいお菓子や軽食、お茶などを堪能しながら話に花を咲かせていく。
とても賑やかに時間が過ぎていった。
「元気な婆さんたちだな、本当」
「そうだね。おかげでとっても楽しかった」
住人たちは日の入り前を告げる鐘の音を合図に帰って行った。彼女たちは満ち足りた表情を浮かべ、『楽しかった、楽しかった』とたくさんのお土産を持ち帰った。
アルフレードは夕陽を見に出ている。住民たちから話を聞き、興味が出た彼は大家に誘われアパートの屋上にいる。
部屋にはセオドアとアンジュ、アフだけがいる。
2人はテーブルでお茶を飲みながら、夜に染まっていく街の景色を眺めている。アフは、用意されたカゴの中で寝ていた。膨らんだお腹がゆっくり上下に動いている。
「アルと何話してたの?」
アンジュはクッキー作りをしている合間、婚約者と次兄が何やら話していた様子が気になっていた。
妹の質問にセオドアはしばらく間を置くと「……よくわからん」と低い声で答えた。彼は濁して表現している訳ではない。具体的に何を話していたかと聞かれると、たいした話はしていないような気がしたのだ。
「なにそれ」
兄の答えに、アンジュは満足を得たかのように笑う。
至極楽しそうな表情に、何がそんなに楽しいのか分からなくなるが、暗い顔をしているよりマシかとセオドアも表情を緩ませる。
「呼び方、変えたんだな」
「え?…あ、うん。その折角だから」
以前はまだ『アルフレード』と読んでいたことを指摘すれば、彼女は照れくさそうに頬を搔き認めた。やはりシャワー室でアルフレードに問い詰めてから、2人の間で何かがあったに違いない。それにしてもまるで付き合い始めの恋人だ。婚約してから3年近いのに、初々しい事をしている。いつもなら余計なことを言ってしまうセオドアも、今回ばかりは言葉を選び、肯定的に返した。
「いいんじゃないか。あー…そういうのは2人の特別だろ」
「さすが。経験者は語るってやつだね」
「茶化すんじゃない」
セオドアはいたずらに笑う妹の頬をつまむ。
話が少しそれるが、セオドアには特別仲の良い女性がいる。2歳年上の幼馴染であり、元々婚約者であった。しかしセオドアが11歳の時、ブルナー家を見限った彼女の父親が婚約を無理矢理解消してしまい離れ離れになってしまった。密かに連絡を取り続けて数年前、ある出来事をきっかけに再会した。右葉曲折はあったが、どうにか問題を乗り越え閉鎖的な環境から抜け出した彼女は今、世界を見たいと留学中である。
セオドアは友人だと紹介しているが、家族以外で心を砕き献身的に支える異性は彼女の他にいない。留学先から戻り次第、改めて結婚を申し込むのではないかと家族や彼の同僚たちは考えている。
その彼女とセオドアには、2人っきりの時にしか呼ばない愛称がある、らしいのだ。らしい、と言うのはポロリとセオドアが匂わせたぐらいで、家族すらわからない彼らの秘密。相棒であるアフは知ってるらしいが、聞き出そうとしても頑なで、賄賂のお菓子も受け取らない。色恋に興味がない次兄が彼女とは甘い付き合いがあるなど、アンジュには興味津々でならない。詳細を聞き出したいのだが、毎回セオドアに優しく頬を引っ張られて、誤魔化されるのであった。
しつこい時は5分ほどつままれるが、今回はすぐに刑からアンジュは解放された。
「ありがとう、セオドア兄さん」
「ん?」
緩やかな笑顔が一転し、真剣な面持ちで感謝されたセオドアは瞬きを繰り返す。突然なんだと言うのか。
「今日とか…この間も訓練見にきてくれたでしょ?他にも色々。だから、ありがとう」
「…気づいてたか」
「うん。アフの気配がしたからね」
アンジュはカゴの中で眠るアフを優しく撫でる。訓練中、ギャラリーの中にアフの気配があることに気がついた。彼がいるところには必ずセオドアがいる。また心配をかけてしまったと申し訳なくなりながら、参加者を倒していた。
「精霊たちが報告してくれてな」
「そっか」
防衛局と警察局の建物は分かれている。警察局に勤めるセオドアが防衛局で行われている特別訓練に駆けつけれた理由は、精霊や妖精が急ぎ知らせてくれたのだ。アンジュはつくづく精霊たちに愛されている。彼らと契約する人間の方も素直さを得て欲しい。
アンジュが負けるはずないが、怪我をしないかだけ心配したセオドアは班長の許可を得て、防衛局の中庭まで足を運んだ訳であった。何も得ない訓練見学だと思っていたが、久しぶりに骨のある新人がいるのを確認できただけ爪の先ほど価値はあった。
「アンジュが負けるとは思ってなかったよ」
「私も思わなかったよ。怪我も対してしなかったしうんまぁ、迷惑だったけど大事なこと気づかせてくれたから、感謝してる」
“怪我”の単語にセオドアの眉が跳ねたのを見たアンジュは、その部分は濁した。
「あれらに感謝だけはするな」
「うんまぁ、そうなんだけどさ。うん」
アンジュは手元を見つめる。1番近い場所を見ながら、果てしなく遠いところを思い出すような声音で話を続ける。
「私、恵まれてるんだ。すっごく、たくさん持ってる。だから、ありがとう。…兄さんたちには、ずっと心配かけてきたね」
「当たり前だろ。家族なんだから」
「当たり前じゃないよ。…ううん、当たり前じゃないって思い直した」
アンジュは手の中に収まっているマグカップに口をつけ、一口啜った。
ー今日はそれを伝えにきたのか?
セオドアは出かかった言葉を飲み込む。今日、アンジュがアパートに来た要件がずっと気になっていた。
勘違いして欲しくないが、セオドアは今日をとても楽しみにしていた。一人暮らしでは面倒だと避けがちなお菓子を作ってまで、アンジューとついでにアルフレードもーの来訪を待ち侘びていた。
なにせ彼女が「遊びに来たい」と言う事自体、大分久しぶりだったからだ。子供の時はよく一緒に遊び、訓練をしたが周囲に悪評が広がるにつれてアンジュは家族や親友とも一線を引いた様に1人行動が増えていた。たまに会っても、短い時間だけか、容姿がはっきりしにくい夜も遅い時間がほとんど。自分が通えば噂が立つかもしれないと、人目を気にしたアンジュが避けていたからだ。
彼女から頼られ、願うことも減っていた。先日の引越し作業も、セオドアは有給を取った後に一方的に手伝う旨だけ伝えて、無理矢理参加したのだ。
そんな妹が、日が高い内に遊びに来たのは何か理由があるのではないかと考えてしまうのだ。
「…えっと、その。それで」
あぁ、ほら。
アンジュは何か言葉を続けようとする。悩んだら言わないか行動に移す質のアンジュが、今の様に言葉に迷うのは非常に珍しい。
「あの…ですね」
「…」
妹をせかさず、セオドアは黙って言葉を待つ。
「…これからも、ちょこちょこ遊びに来たいんだけど、良い、かな?」
セオドアは、ゆっくりとカップに口をつける。一口啜ってから、彼は答えた。
「………いつも言ってるだろう。いつでも頼って良いし、遊びに来い」
声が震えそうになるのを、必死に正す。
"これから"。
家族から離れようとしていた妹の口から、初めて共に過ごす未来が示唆された。
「うん」
答えに安堵したのか、アンジュの肩の力が抜けていくのを感じた。緊張していたのだろう。
「これからも」
「うん」
セオドアは妹の頭に手を乗せると、豪快に髪を撫でる。柔らかな髪があっという間にボサボサに乱れていく。「髪整えたのに」と言いながら、なされるままに撫でられていた。兄妹は笑い合う。
「耐寒の日、俺も休みを取ってる」
「やった!久しぶりにみんな集まるね。なら当日待ち合わせよ」
「いいぞ。けどちゃんと姉さんたちに引き渡すからな」
「に、にげださないよ!」
震える声の妹に、セオドアはこの日1番大きな笑い声をあげた。
日が完全に沈み、部屋に戻ったアルフレードと共に大量の食器を洗い、部屋を片付けた3人。
「今日はありがとうございました」
「またね。セオドア兄さん、アフ」
アンジュとアルフレードは帰って行った。
昼間の賑やさが消え去り、静かすぎる夜。
甘い匂いがまだ漂うアパートの部屋で、セオドアは手紙を書いていた。地元と海外の友人たちに、最近の出来事を綴る。業務上仕事の事は書く事は出来ないため、日々の出来事や精霊の話、家族についてばかりになってしまうのだが『セオドアの日常を伺えるのは楽しいから』と言ってくれるため、偶に絵を描き足しながら書きたいことを書いている。机の上で遊んでいたアフは立ち上がると、セオドアの顔を見つめる。手紙を書く手を止めた。
「なんだ?」
するとアフは目を瞑ると眉をひそめ、目尻からほっぺへ人差し指でトントントン、と動かしていく。
「……泣いてないぞ」
「ギューゥ?」
途端にアフは意地悪く笑う。
アフはセオドアが泣いていると伝えているのだ。どうやらポエテランジュ8番目の子は、寝たふりをしながらアンジュとの会話を聞いていたらしい。
子供ではあるまいし何でもかんでも泣く時はないと否定したが、彼の態度は変わらない。ムキになったセオドアは、ペンを置きアフを両手で抱えると細かく指を動かす。くすぐったさに「ぎゃひぎゃひ」と大笑いしながら体を捻る。
笑い疲れてぐったりする相棒を放置し、セオドアは作業を再開した。
書き切った手紙を封筒にしまう。あとは蝋を垂らし、捺印を押せば投函できる。その前に。
「アフ、何か入れるか?」
手紙には必ずアフからも何か送るのが習慣になっていた。
セオドアが書いた手紙の空きスペースに顔料で手形や足跡を付けたり、彼が描いた絵や、贈り物を付ける。横になったままのセオドアの作業を見ていたアフに問えば、彼は頷いた。ゆっくり身体を起こしたアフは、慣れた様子で手に顔料を付けると、新しい紙にパシパシと手形を付ける。今回は指で絵も描いた。アフとセオドア、アンジュやアルフレード、住人たちの似顔絵だ。今日のお茶会の様子を描いたらしい。皆笑顔で、楽しかった彼の気持ちが伝わってくる。描かれた2枚を乾かすために机の隅に置く。
手の顔料をきちんと拭ったアフは、机を軽く叩いた。手紙や封蝋の道具を脇に寄せ、手招きされるままにセオドアが顔を近づけるとアフの小さな手がセオドアの髪に触れ、首を傾げる。
「髪の色、戻さないのかって?」
アフは大きく頷く。セオドアの本来の髪色は、母親譲りの金髪である。事故の後、アンジュが容姿を侮辱されるようになってから、セオドアは髪色を同じ白へと染めた。言えば家族に止められると、アフだけには手伝ってもらった。少しでも悪意の矛先を自分にも向けられるのではないかと考えたのだが、あまり効果はなかった。
アンジュのために変えた髪色。その彼女が前を向いたのだからもう髪は染めなくとも良いのではないか。目の前の精霊はそう言っているのだ。
セオドアは相棒の頭を優しく撫でる。
「変えないよ。当分はな。似合っているだろ?それにアフたちみたいだ」
当時12歳のセオドアくん。実家の洗面所で髪を染めた後、鏡に映る自分の姿を確認した幼い彼は、事故後目覚めたアンジュが何故すぐ喜べたのか身を以て理解した。彼女が言う様に、最愛の精霊たちのようであったからだ。今でも鏡に写る度に、少し口角が上がる。髪が伸びると母親由来の金髪も混じり、光にあたるとキラキラと輝きが増してとても気に入っている。
「ケケ」
セオドアの言葉に、アフは機嫌良く鳴いた。彼はセオドアの額に頬を寄せる。ふわふわな毛が肌をくすぐり、セオドアは柔らかく微笑んだ。
「またお茶会しようか。なぁ、アフ」
「ギュイ!」
愛する相棒の提案に、精霊は元気よく頷いた。
余談だが、セオドアは瞳も魔宝具で赤色に変えていた。しかし『獰猛すぎる』とポエテランジュたちにすら止められたため、父親譲りの杏色のままである。自分では可愛いと思っていたたセオドアくんは、ひどくショックを受けた。気丈な彼がショックで部屋の隅で落ち込む姿に、流石のアフも素直に慰めたほどだ。
セオドアをきっかけにライオネルやセレスト、コトレットも髪や瞳の色を変えてみたのだが、セオドア以上に人外みが凄まじくなってしまい断念した。
『アンジュが可愛いのは才能だな』
アンジュの兄姉たちは、何度も頷いた。事実であるのだから、特に否定する事ではない。
そんな兄たちを、アンジュは素直に喜ぶべきか飛躍した考えをやめるよう注意すべきか複雑そうな顔で眺めており、さらに彼らの母親や祖父母たち、精霊たちは子供たちの愛おしさに笑顔を浮かべていたのだった。
