「電車……来たみたいですね」
「そうだね」
有澤先生は蕾の肩から手を離した。
二人の間にわずかな距離ができる。
この距離が今の関係を象徴しているかのようだった。
電車のドアが開き、数人の乗客が降りてきた。
蕾は一歩踏み出し、車内に入ろうとする。
でも足が動かない。
「桜井さん、」
有澤先生の声が蕾の背中に届く。
振り返ると有澤先生はホームに立ったまま、真っ直ぐに蕾を見つめていた。
「あの……」
何か言おうとしたけれど言葉が出ない。
代わりに蕾は小さく手を振った。
電車のドアが閉まり始め、慌てて乗り込む。
窓越しに有澤先生の姿を探すと、まだそこに立っていた。
電車が動き出す。
蕾は窓際に寄りかかり、遠ざかるホームを見つめた。
有澤先生の姿が小さくなっていく。それでも彼はずっと立ち尽くしていた。
(次は……いつ話せるかな…)
酔いのせいにできないように。アルコールの力ではなく、自分の言葉でまた伝えよう。
そんな、事を思った。
窓ガラスに映る自分の顔は、かつてないほど穏やかだった。緊張や不安が完全に消えたわけではない。
でも、不思議と前向きな気持ちになっていた。
「(もう逃げない)」
あの忘年会の夜から二年。
長い月日が流れた。
その間にいろいろなことがあったけれど、今日こそが本当のスタートのような気がした。
蕾はゆっくりと目を閉じた。瞼
の裏に浮かぶのは、有澤先生の真剣な眼差し。
あの時感じた確かな温もり。そして、
「(今度必ず…向き合う…)」
亡き奥様のことを聞く覚悟はできていた。
それがどんなに辛い真実だとしても。
でも今の彼女には、そうすることでしか先に進めないという思いがあった。
電車が駅に到着し、扉が開く。
蕾は足取り軽く降り立った。星空を見上げると満天の星が輝いていた。



