一段と空気の温度が冷たくなった冬。
精神科病院の急性期病棟にも、静かな時間が流れていた。
桜井蕾は、日々忙しく働く中で、有澤先生への想いを募らせる。
しかし、彼との会話は、以前よりも減っていた。
それは、彼が多忙を極めているせいなのか、
それとも、自分との間に距離を感じているからなのか。
ある日、蕾は中庭の桜の木の下で、有澤先生がいつもみたいに一人佇んでいるのを見かけた。
「先生、お疲れ様です。」
蕾が声をかけると、有澤先生はゆっくりと振り向いた。
「ああ、桜井さん。休憩?」
「はい。ちょっと休もうかと。」
「そうか。僕もだよ。」
有澤先生は、かすかに微笑んだ。
その笑顔は、どこか遠くを見つめているようだった。
蕾は、彼の左手の薬指に嵌められた指輪に、再び目をやった。その指輪が今は二人の間の、見えない壁、いや蕾にとっては足枷となっている。
「先生、最近、お忙しいですか?あまりお話しする時間がなくて。」
蕾は、思い切って尋ねた。有澤先生は、少しの間、言葉を詰まらせた後、静かに答えた。
「うん、まあ、色々とね。新しい症例も多いし。」
その言葉には、何か隠された意味があるような気がして、蕾の胸は締め付けられた。
有澤先生は、蕾の気持ちにどこまで気づいているのだろうか。
それとも、自分だけが、彼に特別な感情を抱いているのだろうか。
一方、有澤先生もまた、蕾への自身の気持ちに薄々気づき始めていた。
彼女の真面目で優しい人柄、患者への献身的な姿勢、そして時折見せる屈託のない笑顔。
その全てが、彼の心を惹きつけていた。
しかし、亡き妻への想いが、彼の心を縛り付けている。
二年前のあの日、妻は亡くなった。その悲しみは、今も彼の心に深く刻まれている。
蕾の存在が、その悲しみを少しずつ和らげてくれる一方で、罪悪感も密かに感じていたのだ。
「桜井さんは、いつも患者さんのことを第一に考えてる。すごいよ。」
有澤先生は、蕾の仕事ぶりを称賛した。
その言葉に、蕾は嬉しさを感じながらも、同時に、彼に本当の気持ちを伝えられない自分自身に、もどかしさを感じていた。
「ありがとうございます。でも、先生ほどじゃないです。」
「そんなことないよ。桜井さんの優しさはさ、患者さんたちにとって、何よりも大きな支えになってる。」
有澤先生は、そう言って、蕾の瞳をまっすぐに見つめた。
その視線に、蕾の心臓は早鐘を打った。
冬の冷たい風が、頬を撫でる。二人の間を吹き抜けていく。その風に乗って、蕾の想いが、有澤先生の元へと届かないだろうか。
蕾は、この募る想いを、どうすればいいのか、ただ立ち尽くすしかなかった。
有澤先生の隣で、彼女は静かに冬の空を見上げていた。



