季節はゆっくりと秋へと移り変わり、病院の中庭を彩っていた桜の葉も、次第に鮮やかな黄色や赤色へとその装いを変えていった。
桜蕾の心の中にも、夏の名残と秋の気配が混じり合い、有澤先生への募る想いが、一層深まっていた。
仕事中、恋を自覚してからも尚、ふとした瞬間に有澤先生の姿を追ってしまう。
彼が患者さんと穏やかに話している姿、カルテに真剣な表情で目を通している姿、どれもが蕾の目に焼き付いて離れなかった。
しかし、その想いを口にすることはできず、ただ募らせるばかり。
指輪の存在が、常に二人の間の見えない壁となっている。
蕾は、医者と看護師という立場を超えて、彼に近づくことの難しさを痛感していた。
そんなある日、蕾はひどい風邪をひいてしまった。
喉が炎症を起こし、声がガラガラと掠れてしまい、まともに声が出せない状態になってしまったのだ。
急な体調の変化に、蕾は内心焦りを感じていた。
特に、有澤先生にこの弱った姿を見られたくない、という思いが強く、できるだけ彼との接触を避けるように努めていた。
ナースステーションで彼を見かけると、そっと身を隠したり、彼が近くにいるときは、できるだけ短い言葉で済ませようとした。
しかし、病院という限られた空間では、完全に避けることは不可能だった。
風邪のせいで、普段はハキハキとしている彼女の声も、か細く、掠れがちになっていた。
その不調は、周囲の看護師たちの目にも留まっていたが、蕾は弱音を吐くまいと必死で平静を装っていた。
いつものようにカルテの整理をしていた、ある日の午後。
蕾は、ふと顔を上げた瞬間、目の前に有澤先生がいることに気づき、心臓が跳ね上がった。
「(うそ、全然気付かなかった…!)」
どうやら、彼女が向かい合っていた電子カルテに集中しすぎて、彼の接近に全く気づかなかったらしい。
有澤先生は、彼女の顔色を窺うように、心配そうな表情で「桜井さん、大丈夫ですか?顔色が良くないようですが」と声をかけてきた。
その優しい声に、蕾は胸が締め付けられるような思いだった。
普段なら、このくらい大丈夫、と軽口で返せるところだが、今は掠れた声でさえ、彼に聞かれるのが恐ろしい。
「...大丈夫です。少し、喉が...」絞り出すような声で答えると、有澤先生はさらに心配そうな顔で彼女を見つめた。
「声が、ひどいね。少し、診察室へ来てくれますか?他の症状は?」
彼の言葉に、蕾は戸惑った。
診察室へ?他の症状は?と聞かれるのは、彼女にとって、声の不調以上に耐え難いことのように思えた。
しかし、有澤先生の真剣な眼差しに、断ることはできなかった。
診察室に案内されると、有澤先生は手際よく舌圧子とライトの準備をし、喉の様子を丁寧に診察した。
「やはり、喉の炎症がひどいですね。抗生剤と、咳止めを出しておきますね。」
そう言って処方箋を書きながら、有澤先生は時折、蕾の顔を覗き込んだ。
その度に、蕾は診察してもらったことへの申し訳なさと、自分の掠れた声を聞かれてしまったことへのショックで、ため息が漏れそうになるほど落ち込んでいた。
普段なら、ここまで親身になってくれることへの感謝の気持ちでいっぱいになるはずなのに、今はそれどころではなかった。
診察が終わり、有澤先生は処方箋を蕾に手渡した。
蕾は、いつものように「ありがとうございます」と伝えようとしたが、また掠れた声しか出なかった。
処方箋をもらい、蕾は診察室を出ようとした。
その時、有澤先生が、ふと、蕾の背中に向かって声をかけた。
「桜井さん。」
「はい?」
蕾は、振り返って、有澤先生を見た。
「僕は、そんな声も結構、好きだけどな。」
有澤先生は、そう言って、いたずらっぽく笑った。
その言葉は、蕾の予想を遥かに超えたものだった。
驚きと、嬉しさと、そして、どうしようもないほどの照れくささが、一気に蕾の全身を駆け巡った。
(え...?)
有澤先生の言葉の意味を、蕾はすぐに理解できなかった。
その言葉は、雷に打たれたような衝撃を蕾に与えた。
そしてその響きが、自分の心に深く、深く染み込んでいくのを感じた。
掠れた声でさえ、彼は「好き」だと言ったのだ。
それは、単なる励ましの言葉なのだろうか。
それとも...。
有澤先生の顔は、それからパソコン画面に向いていたため、どのような表情をしているのか、蕾には見えなかった。



