夏の終わりが近づき、蝉の声が夕暮れの空に響き渡る頃。
病棟は、以前にも増して慌ただしい雰囲気に包まれていた。
患者さんの入れ替わりも激しく、蕾は連日、業務に追われる日々を送っていた。
そんな中、有澤先生が担当している患者さんの報告書類を手伝ってもらうことになった。
「桜井さん、ちょっといいかな?」
会議室に呼び出された蕾は、有澤先生の隣に座るよう促された。
夕暮れの光が、会議室の窓から差し込み、部屋をオレンジ色に染めている。
資料は、以前よりも複雑な内容になっていたが、有澤先生の指導は相変わらず丁寧で分かりやすかった。
「この部分の記述なんだけど、もう少し患者さんの心情に寄り添うような言葉遣いを心がけると、より伝わりやすいかもしれないね。」
有澤先生が、ペンを走らせる。その字は、驚くほど丁寧で、まるで楷書のように整っていた。
蕾は、その美しい文字に思わず目を奪われる。
そして、説明を求めて顔を近づけると、有澤先生の肩が、またしても蕾の肩に触れた。
「あ......。」
蕾は、息をのんだ。
有澤先生は、それに気付いているだろうか。
蕾の心臓は、規則正しい鼓動を失い、激しく脈打っている。
有澤先生の横顔は、真剣そのもので、その真摯な横顔を見ていると、蕾は自分がどれだけ彼に惹かれているのかを、改めて実感させられる。
「先生......、字、綺麗ですね。」
思わず口にした言葉に、有澤先生は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑顔に戻った。
「ありがとう。昔から字を書くのは好きだったから。桜井さんも、丁寧な字書くよね。」
「えっ、そうですか......?自分では、全然そんなこと......。」
蕾は、顔が熱くなるのを感じた。
有澤先生が、自分の字も見てくれている。
この近すぎる距離感に、蕾は戸惑いながらも、幸福感に包まれていた。
「本当に助かりました。先生のおかげで、うまくまとめられそうです。」
「いや、桜井さんが一生懸命やってくれるから、僕もついついね。」
有澤先生は、そう言って、優しく蕾に微笑んだ。
その温かい表情ひとつひとつが、蕾の心にじんわりと染み渡っていく。
二人の間には、医師と看護師という関係性だけでは語れない、特別な空気が流れていた。
それは、まるで夏の終わりの風のように、甘く、そして切なかった。
*****
夏の暑さも和らぎ、秋の気配が忍び寄る頃。
病院の中庭の桜の木は、緑の葉を茂らせ、静かに佇んでいた。
蕾は、この頃、有澤先生との距離が急速に縮まったように感じていた。
会議室での偶然の触れ合いや、仕事の相談を通じて、二人の間には以前よりも親密な空気が流れていたのだ。
ある日の午後、蕾は医局でカルテの整理をしていた。
ふと窓の外に目をやると、有澤先生が、もう枯れ葉となった桜の木の下で佇んでいるのが見えた。
その姿は、まるで絵画のように美しく、蕾の心を惹きつけてやまない。
(先生、今日は何を考えているんだろう......。)
蕾は、有澤先生のことが、ますます気になっていた。彼の寂しげな横顔を見るたびに、胸が締め付けられるような思いになる。
そして、自分も彼の傍にいたい、もっと彼のことを知りたい、という気持ちが募っていく。
そんな蕾の様子に、有澤先生も気づいているようだった。
以前よりも、蕾に話しかける回数が増え、時折、蕾の個人的な話を聞いてくれることもあった。
「桜井さんは、休日は何をされているんですか?」
「えっと、私は......。音楽を聴いたり、読書をしたりしています。あとは、病院の桜の木の下で、ぼーっとしたり......。」
蕾が答えると、有澤先生は静かに頷いた。
「そうなんですね。桜井さんも、桜が好きなんですね。」
「はい。桜を見ると、なんだか心が落ち着くんです。あの、儚いところが、綺麗で......。」
蕾がそう言うと、有澤先生は、ふっと息を吐き出した。
「儚い、か......。確かに、そうかもしれない。」
有澤先生の言葉に、蕾はドキッとした。有澤先生は、今でも亡き奥様のことを想っている。
蕾は、有澤先生の過去に触れることへのためらいを感じながらも、彼の言葉に静かに耳を傾けていた。
二人の間には、言葉にならない想いが、静かに、しかし確実に、織りなされていく。
有澤先生の人間観察の鋭さは、蕾の些細な変化にも気づいていたのだろう。
蕾の心に芽生えた、彼への特別な感情に、有澤先生も薄々感づいているのかもしれない。
この病院で、彼との関係は、一体どこへ向かっていくのだろうか。蕾は、そんなかすかな期待を胸に抱きながら、日々を過ごしていた。



