さくらびと。【長編ver.完結】

 



 春の陽気もあっという間に過ぎ去り、じっとりとした夏の暑さが病院を包み込んでいた。



病棟は、患者さんの入退院の処理で連日慌ただしく、蕾も額に汗を滲ませながら、忙しく立ち働いていた。




外泊の準備や、退院に向けてのカンファレンスなど、やるべきことは山積している。
 




 「はぁ......。もうちょっとで退院できるのに、ご家族との連絡がうまくいかないなんて......。」



 
 蕾は、担当患者さんの退院支援会議の資料作成に頭を悩ませていた。患者さんの社会復帰をスムーズに進めるためには、家族との連携が不可欠だ。



しかし、ご家族の都合がなかなか合わず、調整に苦労していた。
 


 「ここ、どう書けばいいのかな......。退院後の服薬管理について、もっと具体的に書かないと......。」


 
 蕾が唸っていると、背後から声がかかった。


 
 「桜井さん、どうかした?資料作成、難航してるみたいだけど。」
 


 振り向くと、そこには有澤先生が立っていた。いつも穏やかな表情の彼が、心配そうに蕾を見つめている。

 
 「あ、有澤先生。えっと、この患者さんの退院支援会議の資料で......。」
 


 蕾が説明しようとすると、有澤先生は「なるほど」と頷き、蕾の隣に歩み寄った。


 
 「僕の担当患者さんでもあるから、一緒に見ようか?分からない所とかあれば聞くよ。」
 



 「えっ、いいんですか?ありがとうございます!」



 
 蕾は、思わず声が上ずった。有澤先生が、自分の仕事ぶりを気にかけてくれている。



しかも、二人きりで資料を見てもらえるなんて、胸が高鳴らないわけがなかった。






 二人は、医局の片隅にある、さほど広くない個室スペースの丸いテーブルに並んで座った。


有澤先生は、蕾が作成した報告書に目を通しながら、時折、優しくアドバイスをくれた。
 

 「ここは、もっと具体的に、患者さんの生活リズムに合わせて書いた方がいいかもしれないね。例えば、朝食後に服薬するとか、具体的な時間を提示すると、ご家族もイメージしやすいだろうし。」

 
 彼の声は、落ち着いていて、蕾の心を優しく解きほぐしていくようだった。


そして、説明する際に、二人の肩がかすかに触れ合う。


その度に、蕾の心臓はドキドキと音を立て、顔に熱が集まるのを感じた。


 
 「先生、ありがとうございます。すごく分かりやすいです。」

 
 蕾は、一生懸命メモを取ろうとするが、有澤先生の存在に意識が集中してしまい、なかなか集中できない。



有澤先生の指先が、資料の上を滑るように動く。



その丁寧な仕草と端正な横顔に、蕾は思わず見惚れてしまう。



夏特有の湿った空気も、二人の間には心地よい熱を帯びていた。



有澤先生の、患者さんへの真摯な姿勢と、仕事に打ち込む蕾の姿が、互いを意識させるには十分だった。



この夏の忙しさの中で、二人の距離は、目に見えない糸のように、ゆっくりと、しかし確かに縮まっていった。