患者さんのケアを終え、蕾がナースステーションでひとり記録をしていると、有澤先生が蕾の傍らに立った。
「桜井さん、」と、彼は優しく呼びかけた。
「髪型の話なんだけど、」
蕾は、ドキドキしながら彼の方を振り返った。
「え?なんでしょうか?」
「いや、その...」有澤先生は、少し照れたような、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
有澤先生は自分のこめかみを指差して、「今日は編み込み、両方してるんだね。」と言った。
「あ、はい...」蕾の顔が、再び熱くなった。
先生が以前ら蕾の髪型について話していたことを、彼は覚えていてくれていたのだ。
しかも、わざわざそれを言うために話しかけてくれたなんてなんだか照れ臭い。
「あの、それは...」蕾は、上手く言葉が出てこなかった。
本当は「そうですよ、先生」と、笑顔で返したいのに、どうしてか言葉が詰まってしまう。
「あの、普段から、そう、しています...」
有澤先生は、そんな蕾の反応を見て、くすりと笑った。
その笑顔は、先ほどまで影を落としていた彼の表情とはまるで違い、阳光のように明るかった。
「そっか。今日は雰囲気違うなって思って。」
その瞬間、蕾は、有澤先生を自分の世界にしっかりと捉えたと実感した。
それは、まるでスローモーションのように、鮮明に、そしてゆっくりと、彼女の意識の中に刻まれた。
彼が、自分という存在を、単なる同僚としてではなく一人の女性として見ているのだ気が付いた。
桜の花びらが、風に舞い、二人の間を静かに流れていく。
その一枚一枚が、二人の間に芽生え始めた確かな絆の証のように思えた。
有澤先生の指輪はまだそこにはまっている。けれど蕾の心は、もう彼から離れることはできなかった。
二人の関係は、この穏やかな午後に、静かに新たな一歩を踏み出しだしていた。
*****
季節は移ろい、爽やかな風が心地よい季節となった。
しかし、そんな穏やかな日々は、突然の出来事によって中断された。
「先生、大丈夫ですか?」
ナースステーションにいた蕾は、廊下をいつもよりゆっくりと歩いていた有澤先生の顔色が著しく悪いことに気づいた。
額には汗が滲み、顔は蒼白い。
「ああ、桜井さん。少し、体調が優れなくてね。大丈夫、心配いらないよ」
有澤先生は、いつものように穏やかな口調で言ったが、その声には力がない。
蕾は、彼の言葉とは裏腹に、顔色から見てただ事ではないことを察した。
「熱があるようですっ、すぐに、ベッドで休んでください。」
蕾は、有澤先生の腕を支え、医務室へと促した。
しかし、ちょうどその時、他の看護師たちは皆、患者さんのケアで病棟を離れていた。
「困りましたね...」
医務室のベッドに有澤先生を横たえさせ、体温計を渡しながら、蕾は一人で抱えきれないほどの不安を感じていた。
有澤先生の熱は38度を超えている。
「僕は大丈夫だから。少し休めば...」
「無理は禁物です。私が、点滴をしますね。」
蕾は、迅速に点滴の準備を始めた。
慣れた手つきで、有澤先生の腕に針を刺す。
その間も、有澤先生は苦しそうに眉を顰めていた。
点滴が始まり、有澤先生はまもなく眠りに落ちた。
寝顔は、普段の穏やかさとは異なり、苦痛に歪んでいた。時折、小さく「う...」と呻き声を漏らす。
その様子を見て、蕾の心は締め付けられた。
「先生...」
蕾は、そっと有澤先生の額の汗を拭った。
「大丈夫...大丈夫だから...」
蕾は、有澤先生の傍らに座り込み、その寝顔を見守り続けた。
眠っている間も、時折魘されている有澤先生が心配だった。
この状況で、自分にできることは、ただこうしてそばにいることだけだ。
有澤先生の体調を気遣ううちに、蕾は、有澤先生に対する自分の秘めた想いが、少しずつ確かに膨らんでいっているのを感じていた。
それは、もっと深く、温かい、そして少し切ない感情だった。
「美桜...」
有澤先生が、寝言のようにつぶやいた。
その声に、蕾は目を見開いた。頭を鈍器で殴られるような感覚だった。
「今のって……」
心臓の奥が締め付けられる。おそらく奥さんの名前だろうと蕾はなんとなく予想がついた。
有澤先生にとって、どれほど奥さんが大切な存在だったのか。
それを改めて思い知らされた。
蕾は、自分もいつか、有澤先生の心に、そんな風に寄り添える存在になれるだろうか。
雨音が、静かな医務室に響いていた。
*****
点滴が終わり、有澤先生はようやく目を覚ました。
「先生……?」
蕾がそっと肩を叩くと、彼はゆっくりと目を開けた。
その表情は、先ほどよりも幾分か穏やかになっていた。
「ああ、桜井さんか...」
「はい、気分はいかがですか?」
「うん。楽になったよ。ありがとう、点滴してくれて。」
有澤先生は、かすかに微笑んで蕾に礼を言った。
蕾は、彼が眠っている間に魘されていたことが気になり、そっと尋ねた。
「あの、先生。眠っている間、少し魘されていたようですが...大丈夫ですか?」
「...ああ。少し、変な夢でも見ていたみたいだ。」
有澤先生は、そう答えるだけで、それ以上は何も語らなかった。
蕾は、彼の言葉の裏にあるものを察しながらも、それ以上は詮索しなかった。
*****
「それでは、針を抜きますね。」
蕾は、点滴が空になったので、針を抜く準備をした。
静かにテープを剥がそうとしたその時、うっかり、有澤先生の腕の産毛を数本、一緒に抜いてしまったらしい。
有澤先生は、一瞬、顔を顰めた。
「あっ!ご、ごめんなさい!痛かったですか?!」
蕾は、慌てて謝った。
まさか、こんなところで不注意が出てしまうなんて。
顔が真っ赤になるのを感じた。
有澤先生が、腕をさすりながら、ゆっくりと顔を上げた。
「ああ...大丈夫...」
そして、蕾の必死な謝罪の表情を見た瞬間、有澤先生の表情が、みるみるうちに変わった。
先ほどの苦しげな顔が嘘のように、口元が緩み、やがて、もう堪えきれないといった様子で、大声で笑い出した。
「ぷっ...はははは!桜井さん、大丈夫だよ。そんなに慌てなくても」
「えっ...?」
蕾は、その突然の笑いに、あっけにとられた。
有澤先生が、こんなに思い切り楽しそうに笑う姿を、初めて見た。
まるで、蕾の視界にだけ、世界がキラキラと輝き出したかのようだった。
彼の目尻に浮かんだ皺、楽しそうに揺れる黒髪、そして何よりも、その屈託のない笑顔。
「(先生の、笑った顔……)」
蕾は、息を呑んだ。
この瞬間、蕾は確信した。
自分が、有澤先生にもう後にも引き返せない"恋"をしているのだと。
この、人の心を温かく照らすような笑顔に、すっかり心を奪われてしまった。
指輪をしている左手の薬指に、ふと視線がいく。
現実に戻されたような感覚に、少しだけ胸が痛んだが、それでも、この感情を否定することはできなかった。
有澤先生の、この初めて見た、太陽のような笑顔が、蕾の心をしっかりと掴んで離さない。
「そこまで、笑わなくても...いいじゃないですか」
「あはは、いや、ふふっ、、僕の方こそごめん、、、っ驚かせてしまってっ、、」
有澤先生は、まだ少し笑いをこらえながら、そう言った。その優しさに、蕾の頬はじわじわと赤くなった。



