さくらびと。【長編ver.完結】







そんなある日、

患者さんの点滴準備を終え、ナースステーションに戻ろうとした蕾に、有澤先生が声をかけてきた。


「桜井さん。お疲れさまです。」

「あ、有澤先生、お疲れさまです。」

 
 蕾は少し緊張しながら応じた。


有澤先生は、彼女の髪型にふと目を留めた。


「今日は、あれ、してないんだね。」

 
「え...?あれ、ですか?」

 
 蕾は一瞬、何のことか分からず戸惑った。


有澤先生は、悪戯っぽく笑みを浮かべた。


「いや、なんでもないよ。いつも髪型、綺麗にされているなと思って。」

 
 その言葉に、蕾の顔にほんのりと赤みが差した。


自分なんかの髪型に気づいてくれるなんて、と。


それに、こんな些細なことでドキドキしてしまう単純な自分に恥ずかしさを覚えた。


有澤先生は、そんな蕾の反応を面白そうに眺め、また静かに桜の方へと視線を戻した。



蕾は、有澤先生が自分に話しかけてくれたことに戸惑いながらも、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。




この静かな時間は、一体何なのだろうか。



彼女の日常に、静かに、"有澤先生"というひとりの存在が自身の心に入り込んできていることを密かに感じていた。







*****






 今日も、有澤先生が中庭の桜の木の下で一人佇む姿を蕾は何度か見かけていた。


その背中には、どこか寂しげな雰囲気が漂っており、蕾はその理由をどうしても知りたくなっていた。


まるで、あの桜の木が、先生の悲しみを背負って受け止めているかのようだった。


 そんなある日、蕾はその日にあたった担当患者さんの定期注射の準備をしていた。


「よし、505号室の北井さん、◯◯◯注シリンジ 50mg。前回は、、左腕だったからー、今日は右腕ね。ダブルチェックもokと。」



患者さんのカルテをチェックし、トレイにアルコール綿花と注射器を入れて準備していた。


「桜井さん、有澤先生も立ち会いたいって連絡きてたわ。」



「そうですか。わかりました。」


日記で一緒に働いていた、リーダーをしている看護師の三上さんから報告があった。


ふいに出た有澤先生の名前に、蕾は一瞬だけどきりとしたが、平静を保った。


いつもなら一人で病室へ向かうのだが、なぜか今日は有澤先生が付き添ってくれるらしい。



「桜井さん、お待たせしました。」



「いえ、私も準備が終わった所です。では、行きましょうか。」



患者さんの病室へ向かう途中、二人の間にはかすかな緊張感が漂っていたが、注射が無事に終わり、ナースステーションへ並んで戻る道すら、いつの間にかその緊張感は和らいでいた。
 


 「今日の患者さん、落ち着いていましたね。」

 
 有澤先生が、ふと口を開いた。



 
 「はい、先生のおかげで、無事に終わりました。ありがとうございます。」


 
 蕾は、素直に感謝の気持ちを伝えた。有澤先生は、そんな蕾の言葉に、穏やかな表情で頷いた。


 
 「桜井さんも、いつも丁寧だからね。患者さんも安心されていると思いますよ。」


 「いえ、、そんな...。」




他愛もない会話を交わしながら、二人はゆっくりと廊下を歩いた。


病棟の廊下は、いつもと変わらない日常の音に満ちていたが、その空間だけが、まるで二人だけの特別な時間のように感じられた。


蕾は、有澤先生とこうして二人きりで話していることが、心地よくてたまらなかった。


しかし、その心地よさに、次第に自分の抱える感情に戸惑い始めていた。


これは、ただの職場の人としての親しさなのか、それとも......。
 


 ふと、有澤先生の視線が、蕾の髪に向けられた。「桜井さん、」と、彼は切り出した。



「はい?」



有澤先生は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、自分のこめかみを指差し顔を少しこちら傾けた。



「今日は、いつもの編み込み、かな?」



「…っ!」



 その言葉に、蕾の顔が瞬時に熱くなった。

まさか、またそんな不意打ちで言われるなんて。



有澤先生との距離が、ほんの少し縮まったような気がした。

そんな雰囲気を醸し出しつつある中、有澤先生の自分の髪型への言及に、蕾は顔を赤らめ思わず素っ気ない態度をとってしまった。


「あ、はい、今日は...」と言いかけた言葉は、喉の奥でつかえてしまった。


本当は、先生の言葉に嬉しくて、もっと笑顔で返したいのに、どうしてこうも素直になれない。

蕾は、自分自身の不器用さに歯がゆさを感じていた。

 
 有澤先生は、そんな蕾の戸惑いを、まるで手に取るように理解しているかのようだった。


彼女の頬が赤らむ様子を、彼は微笑ましそうに見つめている。


その表情には非難の色はなく、むしろ興味深げな視線が向けられているように感じられた。


蕾は、有澤先生の鋭い人間観察眼に、改めて気付かされる。



自分の感情の揺れ動きまで、きっとお見通しなのだろう。そんな不安がよぎり、さらに顔が熱くなった。


このままでは、先生に自分の気持ちがバレてしまうかもしれない。


 しかし、有澤先生の眼差しは、どこまでも優しかった。


それは、なんだか慈愛に満ちた眼差しだった。



その優しい視線に触れるたび、蕾は、自分の中にあった壁が少しずつ崩れていくのを感じていた。


有澤先生という存在が、ただの「憧れの人」から、もっと身近な、心に触れる存在へと変わりつつあった。



静かに微笑む有澤先生の横顔を見つめながら、蕾は、この不思議な心地よさに、もっと浸っていたいと願っていた。



まるで、穏やかな春の陽だまりの中にいるような、そんな温かい気持ちだった。





*****





 有澤先生と話すたびに、蕾の心は揺れていた。


そして以前から気になっていた彼の左手薬指に光る指輪が、どうしても頭の隅に潜み、こびりついて離れない。



それが、二人の間に横たわる見えない壁のように感じられ、何度か先生に話しかけようとしては、その度に「ダメだ、私には無理だ」と、自分に言い聞かせてしまうのだった。


彼とは、あくまでも医師と看護師という、越えてはいけない一線がある。それに、あの指輪は......。


 
 有澤先生は、そんな蕾の戸惑いを、静かに見守っているかのようだった。


彼は、蕾の視線が自分の指輪に何度か向いていることに気づいているようだったが、何も言わない。


ただ、時折見せる寂しげな表情が、彼女の心を締め付けた。



彼は、亡き妻を深く想っているのだろう。


その想いと、蕾への静かに芽生え始めている特別な感情との間で、彼は葛藤しているのかもしれない。



 蕾は、有澤先生に近づきたいという気持ちと、彼を傷つけたくないという気持ちの間で揺れ動いていた。


有澤先生もまた、彼女の想いに気づきながらも、踏み出せないもどかしさを抱えているのだろう。


二人の関係は、静かにすれ違いという名の壁にぶつかり始めていた。


あの桜の木の下で、有澤先生が何を想っているのか、蕾にはまだ、本当の意味ではまだ理解できていなかった。