春の陽光が、精神科科病院の窓ガラスを優しく撫でる。
看護師の桜井蕾は、白衣のポケットに手を入れ、中庭へと続く廊下を歩いていた。
毎年この季節になると、彼女の心には、2年前にこの病院で亡くなった、まだ二十歳だった患者 猪尾 千尋の笑顔が蘇る。
まだ若く、将来を嘱望されていた患者、千尋。彼女はこの院内で、自らの命を絶ったのだ。
蕾は、千尋の顔を思い浮かべた。
いつも明るく、感謝の言葉を口にしていた彼女。
器用に小さい折り紙で、鶴をたくさん折るのが上手だった。
いつも他愛ない話しに花を咲かせていたはずなのに。
あの時、自分に何ができたのだろうか。後悔の念が、蕾の奥底の心の中を今でも締め付けている。
彼女は毎年春になると、千尋がいつも大好きだった中庭の桜の木の下で、静かに桜を見るのが習慣となっていた。
「今日も、静かだね。」
蕾は、桜の蕾がほころび始めた木を見上げながら、そっと呟いた。
昨年の今頃も、ここで一人、千尋との思い出に浸っていた。
その時、ふと、自分と同じように桜を見上げている人影に気づいた。
背が高く、すらりとした体躯。新しい医師、有澤裕紀だった。
彼は、ここの病院に赴任してきたばかりで、まだ蕾も十分に話したことはなかったが、その寡黙で知的な雰囲気に、どこか惹かれるものを感じていた。
有澤先生は、蕾の存在に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向いた。
その視線は、どこか遠くを見つめているようで、寂しさを湛えているかのように蕾には見えた。
彼は、蕾に気づくと、かすかに会釈をした。蕾も、慌てて会釈を返す。
「あの...、桜、お好きなんですか?」
蕾は、意を決して声をかけた。この感情を、どうすればいいのか。
ただ、この沈黙を破りたい、その一心だった。
有澤先生は、少し驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかな表情に戻った。
「ええ、綺麗ですね。特に、この木は...」
彼の言葉はそこで途切れた。
蕾は、その続きを聞きたかったが、それ以上は何も言えなかった。
有澤先生が、亡き妻を偲んでこの桜の木の下にいることを、なぜか蕾は悟っていたのだ。
院内では有名な話しであった。
二人の間には、見えないけれど、確かに繋がる孤独と喪失感が漂っていた。
まるで、長い間、互いの存在を知りながらも、言葉にできなかったかのように。
蕾の心臓が、静かに、ゆっくりと高鳴り始めていたた。
この、桜の下での静かな出会いが、やがて二人の運命を大きく変えていくことになるなど、まだ知る由もなかった。
「私も、この桜が好きなんです。...毎年、思い出す人がいて。」
蕾は、千尋のことを思い出し、少しだけ微笑んで言った。
有澤先生は、その言葉に静かに頷いた。
言葉は少ないけれど、二人の心は、この満開の桜の下で、ゆっくりと通じ合っていた。
病院の日常とは切り離された、静かで、少しだけ切ない、桜色の時間が流れていく。
蕾は、有澤先生の横顔を見つめながら、この静かな時間が、いつまでも続けばいいのに、と願った。



